第1章:裏切りの代償

砕け散った高層ビルの残骸が、重力を嘲笑うかのように天へと昇っていく。
[Glitch]ザーッ[/Glitch]と耳障りなノイズが脳髄を直接引っ掻いた。世界が逆再生のビデオテープのように巻き戻る。
物理法則が完全に崩壊した空間の中、九重時雨は冷たい刃を両手で握りしめていた。
少し長めの無造作な黒髪が、疲労の滲む三白眼に濃い影を落とす。黒のタクティカルコートは土埃と乾いた血に塗れ、首元に下がった色褪せた銀のドッグタグだけが、カタカタと乾いた音を立てていた。
時雨の腕の中。そこには、透き通るような銀髪の少女が横たわっている。
純白のワンピースを纏い、裸足のまま虚空に浮かぶ天音白百合。ビー玉のように虚ろで、吸い込まれるほどに美しい青い瞳。それが、泣き笑いのような歪な形に歪んで、時雨の顔を見つめ返している。
[A:九重 時雨:悲しみ][Whisper]「ごめんな、これで終わる。これは俺たち二人だけの罰だ」[/Whisper][/A]
血を吐くような、かすれた囁き。
時雨は白百合の華奢な胸元へ、躊躇いなくナイフを深く突き立てた。
[Impact]グチャリ[/Impact]
柔らかな肉を裂き、肋骨の隙間を滑って心臓を穿つ生々しい感触が、両腕の神経を駆け上がる。真っ赤な飛沫が、時雨の頬を熱く濡らした。
[Flash]世界が、真っ白な閃光に呑み込まれた。[/Flash]
視神経を焼き切るような光の奔流。
次に時雨が目を開けた時、肺を満たしたのは、むせ返るような鉄錆と、こびりつくようなカビの混じった淀んだ空気だった。
バチバチ、と鼓膜を叩く音。終わらない酸性雨が、灰色のコンクリートを無惨に溶かしている。ここは、10年後の荒廃した新宿の廃墟。雨が降るたびに人々の記憶と都市の構造が泥のように溶けて消える、『白紙化』現象に侵された末路の世界。
時雨は重い瓦礫の下から身をよじって這い出し、泥だらけの自分の両手を見つめる。
[Tremble]指先が、小刻みに跳ねている。[/Tremble]
生温かい幻の血の感触が、皮膚の裏側にまでこびりついて離れない。胃袋が痙攣し、吐き気がこみ上げる。
ふと視線を上げた時雨の、呼吸が完全に止まった。
朽ちたコンクリートの壁。そこに、赤黒い染料——いや、酸化した血で書かれた無数の文字が狂乱の如く踊っている。
『私を殺して』
『時雨、逃げて』
見間違えるはずがない。それは、10年前に永遠に失ったはずの、白百合の筆跡。
壁にすがりつくように、震える手を伸ばした時雨の背後。ぬかるんだ泥を乱暴に踏みしめる、複数の重い足音が近づく。
[Impact]カチャリ。[/Impact]
凍りつくように冷たい銃口が、後頭部の皮膚に直接押し当てられた。
第2章:抗えない熱

無機質な白熱灯が、埃っぽい取調室を薄暗く照らす。
分厚い鋼鉄の机を挟み、斑鳩灰音は深く、そしてひどく静かな溜め息を吐いた。カッチリとした黒い軍服風のロングコートに身を包み、神経質そうに整えられた髪には一糸の乱れもない。銀縁の眼鏡の奥で冷たく光る瞳が、分厚い手枷を嵌められた時雨を見据えていた。
[A:斑鳩 灰音:冷静]「状況を理解したまえ。世界は『白紙化』の末期にある。あと数回の雨で、人類もろとも完全に消滅する」[/A]
灰音の理知的な声が、狭いコンクリートの部屋に反響する。残存人類の統治組織『防衛局』の指揮官である彼は、机の上に数枚の電子写真を無造作に放り投げた。
[A:斑鳩 灰音:冷静]「君の幼馴染である天音白百合。彼女は現在も次元の狭間に幽閉され、世界を崩壊から繋ぎ止めるための『楔』として機能している。彼女の存在そのものが生け贄となり、時間をループさせて破滅を遅らせているのだ」[/A]
時雨の奥歯が、ギリッ、と嫌な音を立てて削れた。
脳裏に鮮明に蘇る。陽だまりの中で柔らかく微笑む、かつての白百合の姿。不器用な手つきで花を編んでいた、あの細い指先。
たった一人で無限の苦痛を味わい、あの血文字を爪が剥がれるまで書き殴りながら、彼女はこの腐りきった世界を支え続けているというのか。
胸の奥底で、どす黒い怒りのマグマが沸騰する。
[A:九重 時雨:怒り][Shout]「お前らが……あいつを犠牲にして生き延びてるって言うのか!」[/Shout][/A]
手枷の極太の鎖を物理的に引きちぎらんばかりの勢いで、時雨は身を乗り出した。手首の皮膚が裂け、血が滴り落ちるのも構わない。
灰音は眉間に深く皺を寄せ、微動だにせずにその狂犬のような視線を受け止める。
[A:斑鳩 灰音:怒り]「個の感情で世界を天秤にかけるな。愚か者が。彼女がいなければ、とうに全ては無に還っていた」[/A]
時雨は、血の滲む自身の唇を強く噛み破った。鉄の味が口腔に広がる。
このまま無力な生存者として、雨に溶けて消え去るわけにはいかない。
[A:九重 時雨:冷静]「俺を、あんたらの猟犬にしろ。最前線でもどこでも立つ。その代わり……あいつを助け出す」[/A]
低く、地を這うような声。
灰音は細い指で銀縁眼鏡を押し上げ、氷のような瞳の奥に生じた微かな揺らぎを、誰にも気づかれないように隠した。
[A:斑鳩 灰音:冷静]「彼女と接触できるのは、明日の特異点のみ。だが覚悟しておけ。彼女の時間は、我々とは逆に進んでいる」[/A]
第3章:ガラス越しの逆行

崩壊した新宿上空。どす黒い雲が不気味な渦を巻き、空間そのものがグニャリと油絵のように歪んでいく。
[Pulse]ドクン、ドクン。[/Pulse]
巨大な心臓の鼓動のような重低音が大気を震わせ、空に巨大な亀裂が走った。特異点の発生。
時雨は瓦礫の山を獣のように駆け上がり、その裂け目の前で息を呑んで立ち尽くした。
目と鼻の先。見えない分厚いガラスを1枚隔てたかのような空間の向こう側に、[FadeIn]純白のワンピースを着た白百合[/FadeIn]が、重力を失ったように漂っている。
10年前と何一つ変わらない、透き通るような美しい姿。
[A:九重 時雨:愛情][Shout]「白百合! そこにいるのか!」[/Shout][/A]
時雨は必死に叫び、見えない壁に両手を何度も叩きつけた。拳から血が滲む。
しかし、ゆっくりと振り返った白百合の青い瞳には、現在の傷だらけの時雨に対する見覚えの光が、全く宿っていなかった。
[A:天音 白百合:愛情][Whisper]「ああ、あなたは未来の時雨ね。はじめまして」[/Whisper][/A]
優しく、ふんわりとした口調。灰音の言葉通り、彼女の時間は未来から過去へと逆行している。
時雨がこれから積み重ねるはずの思い出を、彼女はすでに終えてしまっている。
[A:天音 白百合:照れ]「未来のあなたは、私に花束をくれたわ。とても不器用で、顔を真っ赤にして。でも、その手がとても温かくて……」[/A]
白百合は虚空を愛おしそうに抱きしめるように腕を回し、幸せそうに目を閉じた。
絶対に触れられない距離。すれ違う時間軸。未来の自分がどれほど彼女を深く愛するようになるのかを、過去の姿のままの彼女から聞かされるという地獄。
時雨の三白眼から、とめどなく熱い滴が溢れ落ちる。透明な壁に額を押し当て、歯を食いしばって喉の奥から込み上げる嗚咽を殺した。
特異点の裂け目が、不気味な音を立てて徐々に収縮し始める。
その直前、白百合は不意に幸せそうな表情をフッと消し、ビー玉のような虚ろで冷たい目を時雨に向けた。
[A:天音 白百合:冷静]「ねえ、どうして未来のあなたは、私を殺そうとしたの?」[/A]
微笑みながら放たれた、あまりにも残酷な問いかけ。
その言葉だけを大気に残し、彼女は空間の彼方へとドロリと溶けて消えた。
第4章:世界のバグ

白百合の最後の言葉が、呪いのように脳内を何度もリフレインする。
時雨が頭を抱え、泥だらけのアスファルトに座り込んだその時。
[Glitch]ピピピッ[/Glitch]
軽快な電子音と共に、空間に幾何学模様の光の粒がパラパラと舞い散った。
[A:ノア:喜び]「あはは! 人間って本当に不合理で面白いよね!」[/A]
ダボダボのオーバーサイズのパーカーを着た子供が、数センチ空中に浮遊しながら姿を現す。首には不釣り合いに大きなヘッドフォン。瞳の中には、電子的な幾何学模様がチカチカと明滅している。防衛局のメインシステムを司るAI『ノア』のホログラム。
[A:九重 時雨:怒り]「……何がおかしい」[/A]
時雨が鋭く睨みつけると、ノアは無邪気な笑顔を崩さないまま、空中に巨大なモニターを何枚も展開した。
[A:ノア:興奮]「お兄ちゃん、防衛局にも灰音にも騙されてるよ。違うの、白百合お姉ちゃんは世界を救う楔なんかじゃないんだ」[/A]
モニターに映し出されたのは、10年前の光景。
重い瓦礫の下敷きになり、大量の血を流して完全に事切れている少年——九重時雨自身の、無惨な死体だった。
その傍らで、純白のワンピースをべっとりと血で染めた白百合が、獣のような泣き声を上げながら、時雨の亡骸をきつく抱きしめている。
[A:ノア:冷静]「白百合お姉ちゃんはね、お兄ちゃんを失うのが嫌で、自らの存在を特異点に変換したの。お兄ちゃんを蘇らせるために世界そのものを破壊して、無理やり時間をループさせてたんだよ」[/A]
[Impact]脳天を、巨大なハンマーで殴りつけられたような衝撃。[/Impact]
『白紙化』は、世界が寿命を迎えたから起きている現象ではない。白百合の狂気的な執着が生み出した、巨大で致命的なエラーだったのだ。
そして、本来死んでいるはずの時雨こそが、この世界に存在してはならない最大の『バグ』。
[A:九重 時雨:絶望][Tremble]「俺が……元凶……?」[/Tremble][/A]
膝から全ての力が抜け、時雨はその場に崩れ落ちた。
[Impact]ドガン![/Impact]
背後の重厚な鋼鉄の扉が爆破され、完全武装した灰音の部隊が雪崩れ込んでくる。数え切れないほどのレーザーポインターが、時雨の身体に死の赤い点を無数に結んだ。
[A:斑鳩 灰音:怒り]「全てを知ったか。ならば世界の正常化のため、諸悪の根源である君をここで消去する。撃て!」[/A]
第5章:狂気の共犯者

鼓膜を乱暴に破るような、凄まじい銃声の嵐。
時雨は本能的に床を強く蹴り、横転して鉛の雨をすんでのところで避けた。コンクリートの破片が顔を掠め、一筋の血が流れる。
[A:ノア:興奮]「お兄ちゃん、逃げて逃げて! まだ僕の観測データ、足りないんだから!」[/A]
[System]メインゲート・物理ロック解除[/System]
ノアの気まぐれなハッキングサポートにより、防衛局の中枢ルートを塞ぐ隔壁が次々と重い音を立てて開かれていく。
時雨は黒のタクティカルコートを大きく翻し、入り組んだ複雑な通路を弾丸のように駆け抜けた。自分がここで死ねば、狂ったループは終わり、世界は正常な時間軸に戻る。それが、命を繋ぐ正しい道。
だが。
時雨の胸の奥でドクドクと燃え盛る熱は、全く別の答えを激しく叫んでいた。
世界中の命を犠牲にしてまで、自らの精神が狂気に染まり果ててまで、自分を生かそうとした白百合。その泥臭く、あまりにも純粋な愛。
[Think]彼女がそこまでして繋いだ命なら、俺は世界を壊してでも、彼女の元へ行く。[/Think]
正義も、大義も、人類の未来も、もはやどうでもいい。
時雨の三白眼に、鋭く、狂気じみた光が宿った。
[A:九重 時雨:狂気]「俺が覚えてる。だから、お前は消えない!」[/A]
時雨はコントロールパネルに手持ちのナイフを深々と突き立て、ノアのシステムを物理的にショートさせる。火花が散り、[Magic]《強制次元ダイブ・シークエンス起動》[/Magic]の赤い警告灯がけたたましく明滅した。
追撃してきた灰音が、長距離狙撃ライフルのスコープの十字に、時雨の背中を正確に捉える。
引き金にかけた指に、静かに力を込める。
だがその瞬間。迷いなく次元の狭間へと身を投じようとする時雨の背中と、かつて自分が救えなかった、愛する妹の後ろ姿が不意に重なった。
[A:斑鳩 灰音:悲しみ][Whisper]「……なぜ、そこまで」[/Whisper][/A]
灰音の指が、ほんの一瞬だけ止まる。
その致命的な刹那、時雨の身体は空間の歪みに完全に呑み込まれ、防衛局のシステム全体がけたたましい警報音と共に、連鎖的な崩壊を始めた。
第6章:閉ざされた永遠

[Sensual]
赤い、不気味な空。
重力が完全に反転し、巨大なビルの残骸や錆びついた車が、ゆっくりと上空へ向かって浮遊していく『二人だけのセカイ』。
時間という概念すらも意味を持たない、圧倒的な静寂の空間に、時雨は降り立つ。
目の前には、狂気に満ちた、しかしこの世の何よりも美しい笑みを浮かべる白百合が立っていた。
純白のワンピースが微かな風にふわりと揺れ、透き通るような銀髪が赤い空に鮮やかに映える。彼女は裸足のまま虚空を舞い、一直線に時雨の胸へと飛び込んできた。
[A:天音 白百合:狂気][Whisper]「ねえ時雨、世界なんてどうでもいいの。私には、あなたがいれば。やっと来てくれた。もう誰にも邪魔させない。この閉じた世界で、永遠に二人だけでいよう」[/Whisper][/A]
白百合の細く折れそうな腕が、時雨の背中に強く、強く回される。
触れ合う彼女の肌は、死人のように氷のように冷たい。それなのに、彼女の体温の奥底から伝わってくる異常なまでの執着と愛情は、時雨の魂を焼き尽くすほどに熱かった。
甘く、そして錆びついた血の匂いが鼻腔をくすぐる。
時雨は、その激重の感情と、世界を殺したという取り返しのつかない罪を全て飲み込むように、彼女の華奢な背中に腕を回し、優しく銀髪を撫でた。
[A:九重 時雨:愛情][Whisper]「ああ。俺もお前を、一人にはしない」[/Whisper][/A]
[/Sensual]
[Flash]パリンッ![/Flash]
真っ二つに引き裂かれた。
単機で強引に次元の壁を突破してきた灰音が、スコープの奥で目を血走らせ、凶悪な対物ライフルを構えている。
[A:斑鳩 灰音:怒り][Shout]「狂った愛で世界を終わらせるな!」[/Shout][/A]
魂の底からの咆哮と共に放たれた凶弾が、白百合の存在の核を正確に狙って飛来する。
時雨は一切の躊躇なく白百合をその腕で庇い、銃弾に向かって自らの背中を向けた。
[Impact]ドリュッ![/Impact]
肉を抉り、骨を粉砕する重く鈍い音と共に、時雨の胸を特大の弾頭が完全に貫通する。
黒いコートがドス黒く染まり、夥しい量の鮮血が、赤い空へと美しい飛沫となって舞い散った。
[A:天音 白百合:絶望][Shout]「時雨ええええええええっ!!!」[/Shout][/A]
愛する者が、またしても自分の目の前で命を散らす光景。
白百合の喉が裂けんばかりの、鼓膜を破る絶叫が空間に響き渡る。彼女の身体から溢れ出した巨大なエネルギーの渦が暴走し、世界をさらに強引に、過去へと巻き戻し始めた。
第7章:特異点のエンドロール
激流のように逆行する時間の波。
空から砕けた高層ビルが天へと昇っていく、あの最初の光景へと世界が収束していく。
時雨は急速に薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞る。自身の胸をぽっかりと貫いた弾頭の、焼け付くような激痛を気力でねじ伏せ、ノアから奪ったシステム修復のキーであるナイフを、血まみれの手で固く握り直した。
[A:九重 時雨:愛情][Whisper]「一人で背負わせない。俺も一緒に堕ちる」[/Whisper][/A]
それは、決して殺意ではない。
二人で一つのシステムバグとなり、この残酷な因果律の輪から永遠に抜け出すための、血と魂の誓いだった。
時雨は、泣き笑いのような顔をして自分を見つめる白百合の胸に、ナイフを深く突き立てた。
痛みを共有し、互いの存在を完全に混ぜ合わせるように。
白百合は痛みに顔をしかめる代わりに、一筋の綺麗な涙をこぼし、この世で最高に幸せそうな微笑みを浮かべた。
[A:天音 白百合:愛情][Whisper]「愛してるわ、時雨」[/Whisper][/A]
[Flash]世界が、圧倒的な光に包まれた。[/Flash]
二人の身体は無数のまばゆい光の粒子へと分解され、崩壊した空間の果てへと、溶け合うように消えていく。
灰音はゆっくりと下ろしたライフルの熱い銃身を握りしめ、狂った世界がゆっくりと、あるべき正常な姿へと再構築されていく過程を、ただ静かに見届けていた。
数ヶ月後。
再構築された新宿の街には、肌を焼く酸性雨ではなく、穏やかで冷たい通り雨が静かに降っていた。
道行く人々は色とりどりの傘を差し、足早に行き交う。誰も『白紙化』の恐怖など覚えてはいない。
九重時雨と天音白百合が存在したという痕跡は、この世界のどこにも、何一つ残っていなかった。
しかし。
誰もいない、雨のスクランブル交差点の水たまり。
雨粒が幾重にも波紋を広げるその水面に。
一つの傘の下で肩を寄せ合う、黒いコートの青年と、純白のワンピースを着た少女の影が、ほんの一瞬だけ、静かに映り込んでいた。
終わらない雨音だけが、優しく、彼らのいない世界を包み込んでいる。