第一章: 頸動脈を穿つ銀の針
炎が、ステンドグラスに描かれた神の顔を赤黒く舐め回す。
大聖堂を包み込むのは、豪雨の重低音。
天井を乱暴に叩く雨粒が、冷たい水たまりを床に広げ、そこに無数の血が混じり合って濁っていく。
無造作に伸びた漆黒の髪を滴らせ、ユーリ・クロムウェルは灰色の三白眼をゆっくりと持ち上げた。
視線の先、純白の聖衣の裾を激しく揺らすのは、白銀の長い髪を持つ「氷の聖女」エレノア・フォン・ローゼンバーグ。
ドクン、ドクンと、ユーリの胸に突き刺さる銀の魔剣が、彼の狂った心臓の鼓動を直に伝えてくる。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「神の敵たる反逆者ユーリ。あなたの存在は世界を蝕む。ここで死になさい」
凍てつく冬の湖のようなサファイアブルーの瞳は、一切の温度を宿していない。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の白銀の細い指先は引き絞られた弦のように白く震えている。
剣の柄を壊れ物を扱うかのように、しかし必死に、きつく握りしめていた。
彼女の美しい頬を、一筋の透明な雫が伝い、滴り落ちてユーリの頬の傷口を熱く濡らす。
すべてを悟った瞬間、ユーリの奥歯がギリ、と不快な音を立てて軋み、口内に鉄の味が広がった。
ユーリ・クロムウェル「は……はは、お前、やっぱり俺のために泣いているじゃないか」
彼女はただの操り人形、あの邪悪なオルロック枢機卿の洗脳に囚われた哀れな生贄。
ユーリは憎悪ではなく、己の心臓を抉るその痛みに、これまでにないほど脳を灼かれていた。
歪んだ悦びが全身の神経を駆け抜け、彼はゾクゾクとするような熱を背筋に感じる。
ユーリ・クロムウェル「綺麗なままで死ねると思うな。お前の地獄を、俺にすべて差し出せ」
ユーリは躊躇なく両手で魔剣の極薄の刃を掴み、さらに深く、己の胸の奥へと押し込んだ。
肉が裂ける鈍い音と共に血が噴き出し、二人の距離が完全に零へと収束する。
彼女の鼻腔に、彼の生々しい血の香りが否応なしに叩きつけられた。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「やめて……! なぜ自ら刃を進めるのです……!」
お前をここで終わらせはしない。たとえ世界の理をすべて壊してでも、俺の手で奪い去る。
ユーリは口内に隠し持っていた秘宝、赤く妖しく輝く『時蝕の心臓』を、奥歯で一気に噛み砕いた。
凄まじい魔力が炸裂し、時間の概念そのものが悲鳴を上げて軋み始める。
《クロノス・リヴァーサル》
ガラスが一斉に砕け散るような、鼓膜を突き破るほどの轟音。
視界が真っ赤な血の色に染まり、燃え盛る大聖堂が、巻き戻される絵画のように急速に瓦解していく。
ユーリ・クロムウェル「次の世界では、お前のその冷徹な仮面を、俺の手でズタズタに引き裂いてやる」
狂った時の奔流の中で、ユーリの意識は暗黒の深淵へと真っ逆さまに堕ちていった。
第二章: 氷解、あるいは共犯の烙印

鼻腔を突いたのは、埃っぽいカビの混じった、古い羊皮紙の乾燥した匂い。
薄暗い月光が縦長の窓から静かに差し込む王立学園の禁書庫で、ユーリ・クロムウェルは自らの両手を凝視した。
傷一つない滑らかな皮膚、全身を覆う仕立ての悪い漆黒の外套。
すべてが、あの破滅の日から遡ること五年前のものへと戻っている。
確信が彼の胸を躍らせ、唇の端を自然と吊り上げさせた。
本棚の深い影から、静かな衣擦れの音と共に、あの忘れもしない白銀の髪が姿を現す。
彼女の両手には、触れた者を漏れなく殺す呪いを封じる、真っ黒な魔導革の手袋がはめられていた。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「……誰ですか。私に近づかないで。触れれば、あなたは死にます」
五年前の、まだ冷徹な聖女の仮面を完璧に貼り付けたままの、誰の体温も知らない少女がそこにいる。
ユーリは彼女の警告など鼻で笑い、獲物を追い詰める飢えた獣の足取りで、じりじりと距離を詰めていく。
冷たい月光が、彼女の警戒に満ちた美しい輪郭を白々と照らし出していた。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「拒絶が聞こえなかったのですか! 退きなさい、死にたいのですか!」
ユーリは鋭く踏み込み、彼女が身構えるよりも早く、その細い手首を容赦なく掴み取った。
「あ」と、エレノア・フォン・ローゼンバーグの薄い唇から短い吐息が漏れる。
ユーリは冷笑を貼り付けたまま、彼女の黒い手袋の指先を、自らの牙で乱暴に咥え込んだ。
ユーリ・クロムウェル「死ぬ? 前世でお前に殺されたあの甘美な痛みに比べれば、こんな呪い、ただの愛撫だ」
濡れた音を立てて引き剥がされた黒革の手袋が、役目を終えて静かに床へと落ちる。
その下に隠されていた、白く滑らかな、剥き出しの掌が冷たい空気の中に露わになった。
ユーリはその華奢な手を、自らの首筋、かつて死霊の呪いが黒く焼き付いていた場所へと力任せに押し当てる。
瞬間、全身を焼き尽くすような凄まじい電流が走り、ユーリの首の皮膚が黒紫に壊死し始めた。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「狂っている……! 私の呪いが、あなたを貪っているのですよ……!?」
激痛がユーリの全神経を容赦なく蹂躙するが、彼の脳内には、それを上回る極上の快楽物質が溢れ出していた。
瞳孔が開き、彼の呼吸は荒く熱いものへと変わっていく。
ユーリ・クロムウェル「ほら、お前の呪いが、俺の命を確実に喰らっている。俺たちの命が、今、完全に混ざり合っているぞ」
エレノア・フォン・ローゼンバーグのサファイアブルーの瞳が激しく揺れ、仮面の下の本音が剥き出しになる。
その美しい瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、ユーリの熱い胸元に吸い込まれていった。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「やめて……お願いだから、死なないで……! 誰も私に、触れてくれなかったのに……!」
誰も触れてくれなかった、触れることを許されなかった呪われた白い手が、今はユーリの肌を強く求めている。
冷徹な聖女の仮面は無残に剥がれ落ち、彼女はただの、他人の体温に飢え切った少女として彼の腕に崩れ落ちた。
ユーリ・クロムウェル「お前を操るオルロックの首を、俺たちが共に地獄へ堕ちるための最初の供物にしてやる」
ユーリは声を上げて泣きじゃくるエレノア・フォン・ローゼンバーグを強く抱き寄せた。
呪いを受け入れ、己の肉体を焦がしながら、その華奢な背中を愛おしそうに撫で続ける。
第三章: 狂信の終焉、そして血に染まる聖域

豪奢な金糸の刺繍が施された緋色の枢機卿衣が、祭壇の蝋燭の揺らめく光に照らされている。
オルロック枢機卿「素晴らしい! エレノア、お前は神の厄災として世界を美しく浄化するのだ!」
不気味な赤色の怪光を放つ魔導義眼を爛々と輝かせ、オルロック枢機卿が下卑た嘲笑を浮かべた。
冷たい祭壇の上、幾重もの太い呪詛の鎖で縛り付けられたエレノア・フォン・ローゼンバーグが、苦痛に顔を歪めている。
彼女の限界を迎えた身体から噴き出す黒い死霊の霧が、大礼拝堂の広大な空間を徐々に満たしつつあった。
ユーリ・クロムウェル「教団の汚い犬め、誰の許可を得て俺の聖女に触れている?」
静寂を破り、巨大な影から現れたユーリ・クロムウェルの姿に、オルロック枢機卿は片頬を不快そうに引きつらせた。
オルロック枢機卿「不浄なるドブネズミが、まだ生きていたか。聖女の極上の呪いで、跡形もなく塵に還るがいい!」
彼の合図と共に洗脳の術式が急速に作動し、エレノア・フォン・ローゼンバーグの呪いが牙を剥いてユーリへと殺到する。
だが、ユーリは前世において、オルロック枢機卿の術式の全構築を、その死の苦痛と共に脳髄に刻み込んでいた。
ユーリ・クロムウェル「無駄だ。その腐った術式の終点は、すでに俺が書き換えておいた」
ユーリは弾かれたように祭壇へと跳び、呪詛の鎖を黒い剣で一撃のもとに叩き切った。
そして、解放されたエレノア・フォン・ローゼンバーグの身体を、背後から包み込むように強く強く抱きしめる。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「ユーリ、だめ、私にこれ以上近づいては……! あなたが本当に死んでしまう!」
ユーリは彼女の警告を優しく無視し、彼女の剥き出しの素肌に、あえて自らの両手をぴったりと重ね合わせた。
呪いのバイパスを強制的に繋ぎ、その禍々しい流れを二人の肉体間で逆流させる。
ゴキ、と不吉な骨鳴りとともにユーリの全身の血管が黒紫に浮き上がり、彼の口から熱い血が吹き出した。
ユーリ・クロムウェル「がはっ……! だが、これで回路は繋がった。エレノア、俺の命を、お前の『死』を媒介にして、あの男に流し込め!」
エレノア・フォン・ローゼンバーグは、ユーリの血に塗れながらも、極上の歓喜に震えるその瞳を見て、すべての迷いを捨て去った。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「私の命を、すべてユーリに。そして、私たちを縛るすべての欺瞞に、終わりの呪いを!」
二人の混ざり合った赤黒い血が、光る術式のラインを逆流し、猛烈な津波となってオルロック枢機卿へと襲いかかる。
「な、何が起きている……! 私の術式が……ぎゃあああっ!」オルロック枢機卿の魔導義眼が、内側から激しく爆発した。
「ぎゃああああ! 私が、神に選ばれたこの私が、このような小汚いガキどもに……!」
彼の右半身が呪いの逆流によって急速に干からび、まるで水分を失った黒い炭のように崩れ落ちていく。
ユーリ_クロムウェル「神など最初からいないさ。ここにあるのは、俺とエレノアの、血塗られた愛だけだ」
悶絶し、絶叫しながら灰へと化していく哀れな男を、ユーリは一瞥もせず、その場に静かに膝を突いた。
限界を超えた激しい呪いのフィードバックが、彼の肉体を、確実に内側から壊死させ始めていた。
第四章: 呪いよりも深く甘い、君の体温
ゆっくりと夜が明け、崩壊した大礼拝堂の瓦礫の隙間から、眩しい一筋の朝の光が差し込んでいた。
かつての教団の支配者だった男の灰は風に流され、静寂だけが二人を優しく包み込んでいる。
救いのあるハッピーエンドなど、最初からこの残酷な世界には存在しない。
ユーリの左半身は、完全に黒紫色の呪いの皮膚に覆われ、絶え間ない激痛が彼の精神を苛んでいた。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「ユーリ……私のせいで、あなたは一生、この消えない痛みに苛まれる……。なぜ私を捨てて逃げなかったの?」
エレノア・フォン・ローゼンバーグは手袋を失った自分の両手を見つめ、涙で視界を歪ませている。
ユーリはその白く震える手を、自らの黒く染まった左手で、絶対に逃がさないようにと強く握りしめた。
ユーリ_クロムウェル「逃げるわけがない。俺はこの痛みを、お前と分け合うために、あの地獄から戻ってきたんだ」
ユーリは顔を寄せ、彼女の白い頬を濡らす涙を、自らの血の味がする唇で、愛おしそうにゆっくりと拭い去った。
触れ合った皮膚から再び激しい呪いが浸食し、ユーリの肉体を内側から灼くが、彼は恍惚とした笑みを浮かべる。
ユーリ・クロムウェル「お前が一人で抱えていたあの冷たい孤独を、俺のこの燃えるような激痛で、今すぐ相殺してやる」
エレノア・フォン・ローゼンバーグは、ユーリの首筋に深く顔を埋め、彼の震える心臓の鼓動を全身で受け止めた。
エレノア・フォン・ローゼンバーグ「ああ……温かい……。痛いのに、引き裂かれそうなのに、こんなに温かいなんて。私はもう、あなたのいない世界では息もできない」
二人はお互いの命を美味そうに削り合い、呪いを分け合いながら、一生を切り離せない共犯者として生きていく。
本当の救済とは、綺麗な光の中ではなく、互いの地獄を貪り食う、この暗く甘い泥濘の檻の中にしかなかった。
ユーリはエレノア・フォン・ローゼンバーグの濡れた白銀の髪に指を絡め、至高の歓喜に満たされた笑みを浮かべた。
差し込む朝日の影の中で、二人の影は一つの不格好な怪物のように混ざり合い、永遠の夜へと溶けていった。