第一章: 融解する世界、あるいは終わりの始まり
トタン屋根を穿つ豪雨の音が、鼓膜を激しく乱打していた。
薄暗い廃倉庫の片隅で、氷室 燈矢は自らの喉を掻きむしる。
首元まで隠れる黒いタートルネックが、内側から噴き出す熱でじりじりと燻り始めていた。
ボサボサに伸びた漆黒の髪の隙間から、濁った灰色の三白眼が痛みに血走る。
どくん、どくんと、命の炉が爆発を繰り返している。
氷室 燈矢「あ、あつ……熱いッ! 頭が、割れる……!」
指先から肘にかけて幾重にも巻かれた包帯の隙間から、病的と言えるほど白い肌が覗く。
その皮膚が自己融解を起こし、赤黒い熱傷の痕から不気味な煙を立ち上らせていた。
焦げた肉の酸鼻な匂いが、密閉された湿気の中に混ざり合っていく。
氷室 燈矢「……僕に触れるな。焼き尽くしてしまう……!」
その苦悶の前に、音もなく近づく影があった。
陽光を拒絶して青白く輝く、透き通るような白銀のロングヘア。
白妙 雪乃は、凍てつくように美しい深い藍色の瞳で、ただじっと彼を見つめていた。
彼女は白を基調とした厚手のカシミヤコートの袖から、自らの手を引き抜く。
周囲を凍らせないための黒い特殊手袋を、躊躇いなく歯で噛んで引き剥がした。
露出した手のひらは、血色が一切存在しない、死人のように白い。
白妙 雪乃「燈矢、もっと熱くしてください。私の中の氷が、あなたを求めているのです」
彼女の冷え切った指先が、燈矢の焼け焦げる首筋へと滑り込む。
ジューッ!
肉が焼かれ、同時に極低温の氷が急激に融解する、凄絶な沸騰音が闇に響き渡った。
燈矢の「熱量融解」による高熱が、雪乃の「絶対零度」の冷気と激突し、中和されていく。
凍りつきかけていた雪乃の心臓に、生命の熱が直接注ぎ込まれる。
その瞬間、彼女の白い頬に微かな朱が差した。
白妙 雪乃「ああ、温かい……脳が、融けてしまいそう……」
燈矢は彼女の細い腰を引き寄せ、壊れんばかりに抱きしめた。
氷室 燈矢「いいから、早く僕を冷ましてくれ。君がいないと、僕は灰になる……!」
互いの首筋に額を押し当て、貪るように体温を奪い合う。
熱傷が最も深い鎖骨のあたりに、雪乃の冷たい舌先が這う。
痛みが極上の快楽へと反転し、二人の境界線が不確かに揺らいでいく。
それは、死の淵でだけ許された、泥沼のような抱擁だった。
だが、その濃密な静寂は、無慈悲な破壊音によって破られた。
ドガァンッ!
倉庫の重厚な鉄扉が内側へと吹き飛び、赤錆びた破片が泥水の上を転がった。
立ち込める白い爆煙。その向こうから、一人の男が足音を響かせて進み出てくる。
ヨレヨレの黒いトレンチコートを揺らし、男は安物の煙草を深く吸い込んだ。
無造作に伸びたボサボサの黒髪と、顎の薄い無精髭。
黒崎 戒は、世の中のすべてを見限ったような濁った三白眼を二人に向けた。
黒崎 戒「おいおい、ガキども。そんなに急いで地獄へ行きたいのかよ」
燈矢は雪乃を背後に庇うように立ち、右腕の包帯を引きちぎった。
皮膚の隙間から、周囲の空気を歪めるほどの赤黒い炎が立ち上る。
しかし、戒が口から吐き出した紫煙が、その炎を遮人するように広がった。
煙が燈矢の身体に触れた瞬間、体内の熱が急速に霧散していく。
氷室 燈矢「が、はっ……!? 熱が、出ない……!?」
《異能無効化》
全身の力が抜け落ち、燈矢は冷たい泥水の中に膝をついた。
戒はトレンチコートのポケットに手を突っ込み、気だるげに鼻を鳴らす。
黒崎 戒「共依存の果てなんてのはな、最初から決まってんだよ」
雪乃が藍色の瞳に鋭い殺意を宿し、戒を睨みつける。
その周囲の床がみるみる白く凍りついていくが、戒は動じない。
黒崎 戒「教えてやる。お前らが命綱だと思っているその『熱の交換』、そいつが罠だ」
こいつらの姿は、あの時の俺たちと完全に同じだ。
黒崎 戒「互いの魔力をぶつけ合うたびに、細胞の崩壊速度は十倍に跳ね上がる。自傷行為以外の何物でもねえ」
その事実を突きつけられた瞬間、燈矢の呼吸が乱れた。
黒崎 戒「管理局の連中が狙っているのは、お前らの治療じゃない。限界まで圧縮されたその心臓だ」
戒は煙草を足元に落とし、靴底で踏みつぶした。
黒崎 戒「心臓を『臓器結晶』として抉り出し、高出力の兵器として軍に売る。それが上の筋書きだ」
クソみたいな世界だ。誰も救われやしない。
白妙 雪乃「嘘です。私たちは、こうして触れ合うことでしか生きられないのですから」
黒崎 戒「お前らが愛と呼んでいるものは、ただの緩やかな心中だ。お前らの心臓は、もうじき完全に焼き切れ、凍りつく」
戒はコートの内側から、漆黒の拳銃を滑らかに引き抜いた。
銃口が、身を寄せ合う二人の眉間に、冷徹に固定される。
引き金にかかった彼の指先が、目立たないほどに小さく震えていた。
雨音が、不気味に静まり返った廃ビルの中に響いている。
いつの間にか雨は白く濁り、空から舞い落ちる細かな雪へと姿を変えていた。
戒は銃口を向けたまま、自嘲の混ざった低い息を吐き出す。
黒崎 戒「……だがな、俺はそのクソみたいな管理局のやり方が、反吐が出るほど嫌いなんだよ」
かつて自らの手で撃ち抜いた、かつての相棒の心臓の痛みが、彼の左半身を麻痺させていく。
その時、ビルの天井が激しい轟音と共に崩落した。
ガラガラと崩れるコンクリートの隙間から、蜘蛛のような冷徹な金属脚が現れる。
管理局が差し向けた、自律型の自動抹殺兵器が十数機、二人の周囲を取り囲んだ。
戒は拳銃の照準を兵器へと切り替え、ニヤリと不敵に笑う。
黒崎 戒「走れ!ガキども!俺が時間を稼ぐ。どうせ死ぬなら、奴らの思い通りにだけはなるな!」
燈矢は雪乃の手を固く握りしめた。
逃げる? 違う。僕たちはもう、誰の玩具にもならない。
氷室 燈矢「いくよ、雪乃」
白妙 雪乃「はい、燈矢。最期まで、あなたと共に」
燈矢の全身から、今までにない規模の青白い超高温の炎が噴出する。
雪乃の足元から、すべてを拒絶する絶対零度の冷気が、大気を凍らせながら渦巻いた。
互いの魔力が限界を突破し、引き寄せ合うように一つに溶け合う。
《熱量融解・絶対零度》
超高温と極低温が正面から激突し、膨大な体積の蒸気が瞬時に発生する。
ドゴォォォンッ!
超高圧の蒸気爆発が、廃ビル全体を揺るがした。
包囲していた金属の兵器群は、一瞬にして圧壊し、塵となって霧散していく。
それは、理不尽な運命に対する、最も美しく激しい反逆の咆哮だった。
爆風が収まる中、燈矢の指先から、キラキラとした赤い結晶が侵食し始める。
雪乃の細い爪先もまた、青い硝子のような結晶へと姿を変えつつあった。
激しい嵐が去り、静まり返った屋上には、朝焼けの薄桃色の光が差し込んでいた。
静かに、そして美しく、白い雪が二人の肩の上に降り積もっていく。
燈矢の身体からは、あの狂おしい高熱が嘘のように消え去っていた。
雪乃の皮膚からも、すべてを凍らせる冷気が完全に失われている。
二人は積もる雪の上に膝をつき、互いの身体を深く抱きしめ合った。
白妙 雪乃「燈矢、温かいですね……」
氷室 燈矢「ああ、雪乃。すごく、心地いいな……」
もはや皮膚を焼く痛みも、魂まで凍らせる恐怖もない。
ただ、穏やかで優しい、本当の体温だけがそこにあった。
二人の身体は末端から急速に結晶化し、光を優しく弾いている。
赤と青の光が複雑に交じり合い、美しく巨大な一対の硝子細工を形成していく。
それは決して離れることのない、完璧な結合。
管理局の追っ手も、この歪んだ世界も、もう二人を分かつことはできない。
ようやく、僕たちだけの場所に行ける。
二人の境界線は完全に消滅し、ただ朝の光の中に、永遠の美しさだけが輝いていた。
結びついた結晶の表面を、粉雪が優しく撫でて通り過ぎていった。