第一章: 愛の死、忘却の砂嵐
叩きつけるような豪雨が、古い時計塔のガラス窓を激しく打ち鳴らしている。
水圧に耐えかねて引き裂かれたカーテンの隙間から、毒々しい赤色をした満月の光が、しめやかに室内に差し込んでいた。
冷え切ったコンクリートの床に広がっているのは、どす黒く固まりかけた赤錆色の海だ。
その凄惨な円の中心で、腰まで届く艶やかな黒髪をべっとりと血に染めた柊硝子が、力なく横たわっている。
骸原 朔「あはは! いいねえ零士、そのすべてを失った死んだ目! 今回は彼女の何を忘れた? 愛か? 温もりか? それとも、最初に出会ったあの日の約束か? はやく、はやく俺に見せてくれよ!」
仕立てのいい黒いロングコートをだらしなく羽織った肩から、細長く、異様に白い指先が伸びる。
その爪先で弄ばれる薄刃の手術用メスが、血まみれの月光を反射して、ぞっとするほど冷たく閃いた。
緋宮零士は、ヘドロのような泥水に濡れた床を這うようにして、息絶え絶えの硝子へと近寄る。
色素の極端に薄い銀髪が、冷たい脂汗で額に張り付き、その双眸に不気味な影を落としていた。
酷く窪んだ目の下に刻まれた深い隈が、これまで彼が繰り返してきた、果てしない地獄の夜を静かに物語っている。
緋宮 零士「硝子……硝子、おい、嘘だろ……。目を開けろ、俺を見ろ……!」
すり切れた黒い革手袋に包まれた両手で、彼女の細く、折れそうな肩を必死に引き寄せる。
手袋の厚い生地越しであっても、彼女の体から、生気という名の熱が急速に失われていくのが嫌というほど伝わってきた。
白磁のような首筋に生々しく残る、見えない縄で絞め上げられたような、紫黒色の深い傷跡。
硝子は、光を失いかけた琥珀色の瞳をわずかに開き、震える指先で、零士の血の気の引いた頬に優しく触れた。
柊 硝子「零士くん……もう、いいの。私のために、これ以上……あなた自身の大切な心を、壊さないで。お願いだから、私を、忘れて……」
その指先から、ぷつりと力が抜け、重力に従って冷たいコンクリートへと滑り落ちる。
トクン、と、世界で一番愛しい心音が完全に途絶えた。
パキリ。
零士の脳の、一番奥底にある未踏の領域で、冷酷な硝子細工が粉々に砕け散るような異音が響く。
視覚、聴覚、嗅覚、その五感のすべてが急速に色彩を失い、退屈な灰色の一色に染まっていく。
いま抱きしめている少女を「愛おしい」と望む心の神経回路が、脳髄の奥で、一本残らず焼き切られた。
何も感じない。ただ、心臓に穿たれた巨大な風穴から、魂を凍らせる底知れない冷気が吹き荒れるだけだ。
なぜ目の前で事切れている少女の死に、自分の胸がこれほどまでに軋み、血を流しているのか、その理由すら分からない。
だが、剥き出しの生存衝動だけが、彼の肉体に冷酷な牙を剥いて、絶対的な命令を下す。
緋宮 零士「……黙れ。お前を救うためなら、俺の心が擦り切れて塵になろうと、何度でもこの地獄を回してやる」
零士は自身の首筋に、ナイフのように鋭く研ぎ澄まされた右手の爪を深く突き立てた。
そこには、皮膚の下で生き物のようにおぞましく蠢く、黒い荊のようなアザが存在している。
《忘却の刻印》
視界のすべてが、脳を直接灼くような真っ白な閃光に爆破される。
狂った時計の秒針が、激しい金属音を立てて逆行を始めた。
第二章: 忘却の再構築、触覚だけの飢餓

充満する埃と、ツンと鼻を突くハッカの調合薬の、ひりつくような匂い。
放課後の理科準備室は、沈みゆく夕日の毒々しいオレンジ色に染め上げられ、不気味な静寂を保っていた。
零士は硝子の細い手首を乱暴に掴み、問答無用で薄暗い室内に引きずり込んで鍵を掛けた。
硝子は乱れた制服の襟元を小さな片手で必死に抑え、怯えた獣のように実験机の端まで後退する。
柊 硝子「零士くん、どうしたの……? 最近のあなた、まるで中身が別人になってしまったみたいで、本当に、怖いよ……」
彼女を値踏みするように見つめる零士の瞳は、底の知れない、どんよりと澱んだ泥水のようだった。
彼には、この目の前にいる少女の顔も、名前も、共に笑い合った温かい日々の記憶も、もう一欠片すら存在しない。
ただ「この少女を厳重に監視しなければ、彼女は必ず凄惨な死を迎える」という、呪いにも似た刻印の命令だけが彼を縛っている。
しかし、彼女の恐怖に震える声を鼓膜が捉えた瞬間、彼の全身の血液が、沸騰したように暴れ出した。
零士は無言のまま、右手の黒い革手袋を口先で咥えて、乱暴に引き剥がして床に捨てる。
露わになった、冷ややかで病的なまでに白い素肌。
その剥き出しの指先を震わせながら伸ばし、硝子の細い首筋へ、ゆっくりと、這わせるように触れる。
ゾク、と、背骨を直接爪で引っかかれるような異常な熱が脳天を突き抜けた。
何だ、この狂おしい熱さは。なぜ俺の肉体は、これほどまでに、彼女の皮膚を、生々しい体温を求めてしまう?
脳のシナプスがその記憶を完全に忘却していても、手のひらの微細な表皮組織が、彼女の持つ36.5度の体温を完全に記憶していた。
吸い付くような指先をさらに滑らせ、過去のループで何度も傷つけられた、首元の柔らかな皮膚をそっとなぞる。
硝子の喉元が、小さく切ない喘ぎ声を漏らしながら、びくりと震えた。
緋宮 零士「お前が俺を恐れようが、嫌おうが、そんなことはどうでもいい。ただ、俺の目の届く場所にいろ。絶対に、俺から離れるな」
零士は、彼女の首を締め落とす寸前の強い力加減で、強引にその華奢な体を胸の中に抱き寄せた。
首筋の黒髪から漂う、甘苦いミントティーの香りが、彼の理性を容赦なく麻痺させていく。
硝子は彼の冷徹すぎる言葉に身をすくませ、傷つきながらも、その広い背中を、自ら必死に抱きしめ返した。
柊 硝子「……どうして、そんなに悲しい目で私を見るの? 私、あなたのこと、ちゃんと知っているはずなのに……心が、痛いよ……」
彼女の瞳からこぼれ落ちた大粒の涙が、シャツを透かして、零士の鎖骨へと深く染み込んでいく。
その歪んだ抱擁の息苦しい温度を切り裂くように、窓の外から、調子の外れた不協和音の口笛が聞こえてきた。
第三章: 悪夢の正体と奇妙な同盟

水浸しになった体育館の床に、激しい雨漏りの音が、心臓を急かすドラムのように反響している。
波立つ水たまりに反射する青白い月光を切り裂き、二つの鋭い影が激しく衝突した。
骸原朔が手にしたメスが、零士の鼻先をわずか数ミリの距離でかすめ、冷たい風を切る。
しかし零士は、呼吸すら忘れたかのような気配の遮断から一歩踏み込み、朔の手首を躊躇なく掴み潰した。
グキ、と、鈍く嫌な骨の軋む音が静まり返った空間に響き渡る。
骸原 朔「あははは! 素晴らしい! その迷いのない肉体の反応、俺が二回目のループでお前に叩き込んだ格闘術そのままだ! でも悲しいなぁ零士、お前、その時の楽しかった記憶をこれっぽっちも覚えてないんだろ?」
指を砕かれてメスを取り落としながらも、朔は歪んだ口元から血混じりの唾を吐き捨てて、愉快そうに喉を鳴らした。
零士は一切の感情を排した無表情のまま、その首根っこを掴んで水浸しの床に叩きつける。
緋宮 零士「ふざけた戯言を。お前が何者かなぞ、俺の知ったことではない」
骸原 朔「お前が『忘却の刻印』の代償として、最初に失った一番大切な記憶は何だ? 自分の『親友』の存在だろ。そう、一回目の世界でお前の相棒として戦っていたのは、この俺、骸原朔だよ!」
その狂った告白が、零士の脳髄を直接、乱暴に揺さぶった。
親友……? この、人を殺すことしか頭にない怪物が、俺の……?
骸原 朔「お前が俺に関する友情も思い出も、すべて忘却の代償として支払っちまったから、世界の因果が歪んで、俺は『硝子を殺すことだけに快感を覚える狂人』として再構築されちまったんだよ!」
脳裏を過る、激しい電磁ノイズのような幻影。
オレンジ色に染まる夕暮れのグラウンドで、肩を組んで笑い合っていた、顔の潰れた「誰か」の姿。
自分が大切な存在を忘れたからこそ、この怪物を生み出してしまった。
これまでの血塗られた凄惨なループは、すべて自分が引き起こした、最悪の自作自演の悲劇だったのだ。
緋宮 零士「……たとえ、そうだとしても」
零士の指先が、ギリ、と、朔の喉笛を壊死させるほどの力で締め上げる。
緋宮 零士「俺はお前を殺す。ただそれだけだ。硝子を救うためなら、どんな罪でも背負う」
骸原 朔「いいぜ、殺せよ! だが、俺と彼女の命は『刻印』のバグで強固に結合している。俺が死ねば、彼女も同時に即死する仕様さ。お前にそれができるか?」
重苦しい静寂が、廃校舎の隅々までを支配する。
降り続く雨の音だけが、耳障りに二人の間で脈打っていた。
骸原 朔「なぁ、取引しようぜ。今回のループだけは、俺がお前を『手伝って』やる。彼女を殺さないための、別の方法をな。その代わり、お前の一番大切な『最期の感情』を、俺に見せてくれよ」
第四章: 焦げ付いた体温、永遠の忘却
轟々と燃え盛る礼拝堂は、天を衝く地獄の業火に包まれていた。
極彩色のステンドグラスが熱を孕んで爆発し、色とりどりのガラス片が、美しくも残酷な火の粉と共に舞い散る。
祭壇の中央、頑丈な鉄の鎖に縛られた硝子が、熱風の中で必死に息を吸い込もうともがいていた。
その傍らで、朔は自らの胸にメスを深く突き立て、止めどなく血を流しながら、狂おしく笑っている。
骸原 朔「さあ、儀式の時間だ、零士! 俺の命を、お前の『最後の記憶』と引き換えに彼女へ譲渡する! これでお前は、完全に彼女のことを忘れる。名前も、顔も、出会った意味も、すべてだ!」
零士は、爆ぜて落下する巨大な梁を避けることすら、もうしない。ただ真っ直ぐに、炎に包まれた祭壇へ突き進んだ。
すでに彼の視界からはすべての「色彩」が失われ、ただの灰色の濃淡だけで、この世界が構築されている。
目の前で涙を流し、自分の名を叫び続けている少女が一体誰なのか、もはやその名前すら脳裏に浮かんではこない。
出会ったきっかけも、なぜ自分が命を賭して彼女を守ろうとしているのかという崇高な動機すら、とっくに灰となって消えた。
だが、肉体が、細胞が、魂の残骸が、彼女を救えと絶叫している。
素手で、赤く熱された鉄の鎖を掴み、じくじくと肉の焦げる音を響かせながら、骨の力だけで引きちぎる。
零士は、自由になった硝子の震える体を、その腕の中に強く引き寄せた。
柊 硝子「いやああ! 零士くん! 嫌だよ、私を置いていかないで! お願い、一緒に行こう!」
硝子の熱い涙が、零士の火傷を負った手の甲にぽつりと滴り落ちる。
その瞬間、彼の感覚の死に絶えた指先に、この世で最も温かい、焦げ付くような「体温」が刻印された。
脳の記憶領域が完全に空白になろうとも、この皮膚に触れた感触だけは、何者にも、世界の理にすら奪えない。
緋宮 零士「……すまない。お前の名前は、もう、どうしても思い出せない」
零士は、感情をすべて失った空っぽの顔で、ただ穏やかに微笑んだ。
その笑顔は、これまでのどの殺伐としたループで見せたものよりも、静かで、透き通るように美しかった。
緋宮 零士「だが、お前の体温だけは……俺の魂に、永遠に焦げ付いている」
零士は、血を流して倒れる朔のコートを強く掴み、崩落する炎の奥底へと、自らの体を投げ出した。
同時に、その最後の反動を利用して、硝子の体を、礼拝堂の出口に向けて力強く突き放す。
「零士くんーーー!」
鼓膜を破るような轟音と共に天井が完全に崩落し、赤と黒の爆炎が、すべてを均一に呑み込んでいった。
数年後。
冷たい小雨がしとしとと降る、静まり返った墓地。
一人の美しい大人の女性へと成長した硝子が、文字の刻まれていない、真っ白な名もなき墓石に、白い花を供えた。
ふと、背後から傘も差さずにゆっくりと歩いてくる、静かな人影に気づく。
色素の薄い銀髪に、光を宿さない黒い瞳をした、感情をどこかに置き忘れたような姿の青年。
二人の視線が、煙る雨のヴェールを挟んで、一瞬だけ、交差した。
青年は、彼女の顔を見ても何一つ表情を崩さず、ただの他人として、その横を静かに通り過ぎていく。
だが、すれ違いざま。
彼の右手の指先が、何か温かい記憶の残滓を追い求めるように、かすかに、愛おしそうに虚空を握りしめた。
硝子は振り返り、雨の中に遠ざかっていく、二度と交わることのないその背中を見つめながら、ただ静かに、涙を流し続けるのだった。