第1章:青い蝶の雨

しとしとと窓ガラスを叩く雨音が、古い柱時計の重厚な秒針の刻みと重なり合っていた。
純喫茶「篝火(かがりび)」の店内には、深く焙煎された珈琲の香ばしい匂いと、雨の日特有のかすかな湿り気が満ちている。
カウンターの奥。
蓮見 橙夜は、無造作に伸びた漆黒の髪を退屈そうに揺らし、琥珀色の三白眼を伏せて、静かに、ただ静かに磁器のカップを磨き上げていた。
身体のラインを際立たせる仕立ての良い黒いベストと、清潔な白いシャツ。
その右手首には、まるで忌まわしい過去を封じ込めるかのように、白い包帯が幾重にも、歪に巻き付けられている。
[A:瀬尾 結月:冷静]「橙夜さん、いつものハーブティーを、お願いします」[/A]
カウンターの端の席で、瀬尾 結月が消え入りそうな声で小さく、言葉を紡いだ。
艶やかな焦げ茶色の髪が、学校指定の紺色セーラー服の白い襟元で、かすかな吐息に揺れる。
少し大きめのベージュのカーディガンを指先まで深く羽織った彼女は、その深く澄んだ群青色の瞳で、橙夜の手元の繊細な動きをじっと見つめていた。
[A:蓮見 橙夜:冷静]「はい。少々お待ちください、結月」[/A]
橙夜が抑揚の乏しい静かなトーンで応じ、温められたカップへと琥珀色のハーブティーを注ぎ、ソーサーに置いた、まさにその瞬間だった。
[Flash]キィィィン――[/Flash]
鼓膜を容赦なく突き刺す、ガラスを引っ掻いたような高音の共鳴が、狭い店内に響き渡る。
結月の背後の、光の届かない空間から、じわりと淡い青色の光が染み出し、おぞましい速度で形を成していく。
それは一匹、二匹、いや、数え切れないほどの。
息を呑むほどに美しく、そして不気味に発光する、青い幻影の蝶の群れ。
[A:瀬尾 結月:驚き]「あ……っ、また、これ……」[/A]
[Shout]「な、なんだこれ!?」[/Shout]
[Shout]「おい、化け物か!? 出口はどこだ、早く開けろ!」[/Shout]
店内にいた数少ない客たちが、椅子を派手に蹴り倒し、悲鳴を上げながら、冷たい雨の降る表通りへと逃げ惑うように走り去っていく。
陶器と金属が擦れ合う耳障りな騒音。そのパニックの渦中にあっても、橙夜だけは、細い眉一つ動かさなかった。
彼は静かに、ただあまりにも冷徹な、無駄のない動作で、空間を切り裂くように細い手を伸ばす。
包帯の隙間から覗く、透き通るように白い指先が、最寄りを舞う青い蝶の羽に、そっと触れた。
[Magic]《抽出・熱量剥奪》[/Magic]
一瞬にして、極寒の冷気が店内の空気を凍らせ、暴風となって吹き抜ける。
青い怪光を放ちながら狂おしく舞い踊っていた幻影の蝶たちは、まるで時間を止められたかのようにその動きを硬直させ。
そして。
パラパラと、凍てついた砂のように儚く、美しく、宙へ霧散していった。
あまりの静寂。
そして、あまりにも冷酷なまでに洗練された彼の指先一つに、結月は息をすることを完全に忘れ、ただその場に立ち尽くしていた。
だが、安息は訪れない。床に散らばった蝶の灰。
その中心から、どす黒い粘着質な影が急速に鎌首をもたげる。
見たこともない不吉な「黒い薔薇」の蕾が、まるでおぞましい心臓のように、ドクン、ドクンと不気味に脈動を始めていた。
第2章:冷めないココア

客がすべて逃げ出し、静まり返った店内。
黒い薔薇の蕾は、橙夜がただ一言の呪言もなく、軽く指先を弾くだけで、バチバチと激しい火花を散らして、煙のように消滅した。
結月は、セーラー服のプリーツスカートの裾を指が白くなるほどにぎゅっと握りしめ、視線を冷たい木目の床へと落とす。
潤んだ群青色の瞳に、じわりと大粒の涙が滲んでいた。
[A:瀬尾 結月:悲しみ]「ごめんなさい、橙夜さん……。また、私のせいで、お店をめちゃくちゃに……。私、やっぱりここにいちゃ、いけないんだ。誰の側にも……」[/A]
震える、今にも壊れそうな声。
彼女は自分の身の回りで引き起こされるこの不可解な超常現象を、他者を傷つける呪いなのだと思い込み、自らを責め続けてきた。
軋む音を立てて椅子から立ち上がり、逃げるように雨の中へ飛び出そうとする彼女の前に、音もなく、長い影が差す。
橙夜が、湯気の立ち上る厚手のマグカップと、焼き立ての小さなマフィンを木製テーブルに、優しく置いた。
ふわりと、鼻腔をくすぐる濃厚なチョコレートの香りと、バターの甘い温もりが立ち込める。
[A:蓮見 橙夜:冷静]「冷めないうちにどうぞ。魔法なんてものは、かつて存在した奇跡の、ただの冷え切った残り火に過ぎませんから」[/A]
[A:瀬尾 結月:驚き]「……橙夜、さん?」[/A]
[A:蓮見 橙夜:冷静]「君の魂は、世界から消えかけた魔法の残滓を、無意識に引き寄せてしまう磁石のようなものです。磁石が鉄を引き寄せてしまうように、君が悪いわけではない」[/A]
橙夜はカウンターに気だるげに寄りかかり、琥珀色の鋭い瞳を結月に向けた。
その視線はどこまでも冷たく、しかし、底なしの深さで、彼女の存在そのものを丸ごと受け入れている。
[A:蓮見 橙夜:冷静]「ここでなら、どれだけ魔法を吸い寄せても構わない。私の淹れる、珈琲の香りの邪魔にさえならなければな」[/A]
[Pulse]トクン、と。[/Pulse]
結月の、凍てついていた胸の奥が、熱い湯気のような温かさで満たされていく。
生まれて初めて、他者から、歪んだ体質ごと自分という存在を肯定された。
孤独という名の強固な氷が、音を立てて内側から溶けていく。
[A:瀬尾 結月:愛情][Blur]「……っ、ありがとうございます……っ」[/Blur][/A]
こらえきれず溢れた大粒の涙が、ぽたぽたと音を立てて、ココアの表面に小さな波紋を描いた。
[Flash]カランコロン――[/Flash]
その時、静寂を切り裂くように、店のドアベルが悲鳴のような高い金属音を立てて激しく鳴り響いた。
冷たい雨の混ざった風が、土臭い匂いと共に容赦なく店内に吹き込んでくる。
入り口の敷居を踏み越えたのは、傘も差さず、仕立ての良い濃紺のロングトレンチコートを濡らしたままの男だった。
第3章:氷の針、銀の猟犬

シルバーの髪をきっちりと均等に分け、黒い高級な皮手袋をはめたその男は、凍てつく冬の湖のようなブルーの三白眼で、ゆっくりと店内を見渡した。
彼の細い胸元には、政府の秘密組織「遺物管理監」の冷酷な金属紋章が、不吉に鈍く光っている。
[A:九条 玲司:冷静]「ターゲットを確認。瀬尾結月、君には重大な魔法濃度上昇の容疑、および公共の秩序を乱した罪がかかっている。直ちに私と同行してもらう」[/A]
一切の私情を排した、機械のように平坦な、金属質の冷徹な声。
九条 玲司は、懐から流れるような動作で取り出した、冷たい銃身の黒い拳銃の銃口を、真っ直ぐに結月の眉間へと向けた。
[A:瀬尾 結月:恐怖][Tremble]「嫌、です……。私、どこにも、行きたくない……!」[/Tremble][/A]
あまりの恐怖に、結月は呼吸を乱しながら橙夜の広い背後へと必死に隠れる。
橙夜は無言のまま、一歩だけ前に踏み出した。
玲司の射線を完全に遮るように、その圧倒的な長身が、絶対的な壁となって影を落とす。
[A:九条 玲司:冷静]「退け、喫茶店のマスター。これは国家の平和と秩序を維持するための、正当な執行だ。魔法という世界を歪めるバグは、この世界から完全に排除されねばならない」[/A]
[A:蓮見 橙夜:冷静]「お断りしますと言えば?」[/A]
[A:九条 玲司:冷静]「公務執行妨害として、お前ごとここで排除するまでだ」[/A]
玲司の指が、迷いなく銃の引き金にかけられる。
その瞬間、橙夜が静かに、冷たいため息を吹きかけた。
[Magic]《温度操作・極限冷却》[/Magic]
[Flash]パキパキパキ――![/Flash]
カウンターの上に放置されていたグラスの水が、一瞬にして凍りつき、弾ける。
鋭利な針へと姿を変えた数千 of 氷の群れが、玲司の鼻先数センチの空間で、獲物を狙う蛇のように静止したまま牙を剥いた。
橙夜の全身から、かつて世界を破滅の一歩手前まで追い詰めた、最高位魔導士の圧倒的な重圧が解き放たれる。
[A:蓮見 橙夜:狂気][Whisper]「彼女に指一本でも触れるなら、お前の命はない。今すぐ失せるか、ここで氷の串刺しになって死ぬか、一秒以内に選べ」[/Whisper][/A]
玲司の額に、冷や汗が一筋、静かに流れ落ちた。
彼のあらゆる攻撃を防ぐ「絶対防壁」の能力をもってしても、目の前の、ただのマスターを名乗る男が隠し持っている魔力の底が、まったく見えない。
玲司は、引き金にかけた指を、屈辱を滲ませながらゆっくりと戻した。
[A:九条 玲司:冷静]「……選択を誤るなよ、終わりの魔導士。お前がかつて世界を滅ぼしかけた大罪人であることを、我々は一瞬たりとも忘れてはいない」[/A]
呪詛のような、不吉な捨て台詞を残し、玲司は冷たい雨が吹きすさぶ闇の中へと姿を消した。
第4章:真夜中のランデヴー

玲司を一時的に退けたものの、この場所も長くは持たない。
橙夜は結月の身の安全を完全に確保するため、完全に夜の帳が降りた、人通りのない錆びついた裏路地へと彼女を連れ出した。
降り注ぐ激しい雨は、いつしか、淡い青色の光を帯びて世界を濡らしている。
二人が並んで歩く錆びついたアスファルトの隙間から、消えかけていた世界の「残り香」であるはずの幻視の花々が、次々と奇跡のように咲き乱れていく。
[A:瀬尾 結月:喜び]「すごい、です……。見てください、橙夜さん。世界が、こんなに綺麗に」[/A]
結月が、白く細い指先で指し示す先。
錆びた水道管から溢れ出た無数の水滴が、重力を完全に失ったかのように、ふわふわと宙へ浮かび上がっていた。
冷たい月光を反射して、まるで夜空に散りばめられた大粒の真珠のように輝く。
不法投棄された古い手回し式のオルゴールからは、ネジも巻かれていないのに、天上のものとは思えないほど美しく澄んだワルツの旋律が流れ出していた。
[A:蓮見 橙夜:冷静]「魔法とは、世界がかつて持っていた、優しくて、少しだけ悲しい記憶の残骸なんだ。君がそれに、無意識に一時的な命を与えている」[/A]
静かに歩きながら語る橙夜の、冷たくも横顔。
その切れ上がった琥珀色の瞳、右手首を覆う白い包帯。
そのすべてが、結月の胸の奥を激しく、息ができないほどに締め付けた。
[Think]この人の隣にいたい。この人が、私の世界のすべてだ。[/Think]
それは、熱病のように侵されていく激しい執着。
自分の取るに足らない命など、この冷徹で、哀しいほどに美しい男のためなら、いつでも捧げられるという狂おしいほどの恋慕だった。
[Sensual]
[A:瀬尾 結月:愛情][Whisper]「橙夜さん……私、あなたのためなら……何にでもなります。あなたの邪魔をするものなら、私が……」[/Whisper][/A]
彼女はそっと、橙夜の白い包帯が幾重にも巻かれた右手を、自身の熱を帯びた両手で包み込んだ。
細く白い指先が、彼の肌の乾いた温もりを、そしてその奥に確かに存在する、消えない、歪な火傷の傷跡の感触を確かめるように、深く、這わせ、優しく撫で上げていく。
橙夜はそれを拒まず、ただ静かに、彼女の濡れた青い瞳を、深淵を覗き込むように見つめ返した。
[/Sensual]
しかし、その至高の熱が混ざり合う瞬間の、最中。
[Pulse]ドクン――![/Pulse]
結月の胸の奥から、禍々しいまでの、強烈な青い光が皮膚を透かして放たれ始める。
[A:瀬尾 結月:絶望][Shout]「ああぁぁぁぁぁ――っ, 熱い、身体が、裂ける――!?」[/Shout][/A]
心臓を直接焼き焦がされるような激痛に、結月は絶叫し、冷たい雨の濡れたアスファルトの上へと、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
第5章:硝子の呪縛、青い深淵

[A:蓮見 橙夜:驚き]「結月――!」[/A]
橙夜が咄嗟に彼女の華奢な身体を抱き起こす。
結月の呼吸は激しく乱れ、その白い首筋には、ひび割れた青い硝子のような、美しくも禍々しい結晶の紋様が急速に侵食しつつあった。
橙夜は彼女の額に手を当て、自らの感覚を同調させ、その意識の深淵、魂の最奥へと意識をダイブさせる。
そこで、彼はあまりにも残酷な、かつて自分が仕組んだ世界の真実と対峙することになった。
[Think]そんな、馬鹿なことが……。これは、私がかつて封じた術式、そのものか……!?[/Think]
かつて、彼が世界からあらゆる魔法を消滅させる大災害「終焉の調和」を引き起こした際、
全魔力を凝縮した結晶体「崩壊の核」を、彼は当時、赤子に過ぎなかった結月の魂の奥底に封印し、隠蔽したのである。
結月こそが、彼が自ら作り出し、世界の追跡から隠した「最悪の最終兵器の容れ物」だった。
彼女の成長とともに、その器に溜まった魔力は臨界点に達し、今や内側から彼女の肉体をガラスのように結晶化させて破壊しようとしている。
[A:瀬尾 結月:絶望][Blur]「私……橙夜さんの、ただの、お荷物だったんですね……。私のせいで、みんなが消えて……。私なんて、最初から生まれなければ……」[/Blur][/A]
血の混じった涙を流し、自らの存在を呪う結月。
彼女の細い右腕は、すでに確かな体温を失い、透き通った冷たい青い結晶へと変貌を遂げていた。
[A:九条 玲司:冷静]「そこまでだ、終わりの魔導士」[/A]
背後の闇から響く、冷徹極まりない声。
振り返ると、数十人の重武装した「遺物管理監」の特殊隊員を引き連れた九条 玲司が、冷酷な眼差しで二人を見下ろしていた。
第6章:世界を敵に回して

雨脚はさらにその強さを増し、世界の終わりを告げる嵐のようになっていく。
玲司は漆黒のコートを風にはためかせ、鋭く尖った氷のブルーの瞳を怜悧に光らせた。
[A:九条 玲司:冷静]「その少女は世界の存続、および数千万人の安全を脅かす、即時排除すべき特異点だ。これ以上の温情は無用。システム、光刃展開」[/A]
[System]《術式・光刃ノ檻:展開》[/System]
玲司の背後に、虚空を埋め尽くすように、数式で編まれた無数の光の刃が展開される。
それは空間すらも切り裂く、冷酷な国家の秩序の牙。
[A:九条 玲司:冷静]「世界のために、ここで死んでもらう」[/A]
無数の光刃が、雨を切り裂き、容赦なく結月の心臓へと射出された。
その瞬間。
橙夜の脳内で、精緻に保たれていた理性の糸が、激しく弾け飛んだ。
[A:蓮見 橙夜:狂気][Shout]「お前たちに、私のすべてを、彼女を奪わせるものかァァァ――!!」[/Shout][/A]
橙夜は右手首の白い包帯を、自らの爪で肉ごとむしり取った。
赤黒いケロイド状の火傷の痕が露出し、そこから黒赤の魔力が、暴風となって周囲を薙ぎ払う。
自らの残り少ない寿命を燃料とし、過去に封印した、禁忌の全魔力を完全に解放する。
[Magic]《終焉のハルモニア・禁極解放》[/Magic]
[Flash]ドゴォォォォン――!![/Flash]
真夜中の夜空が、禍々しい青い業火によって埋め尽くされる。
玲司が放った必殺の光刃は、橙夜の周囲に展開された圧倒的な魔力の暴力によって、塵一つ残さず粉砕された。
[A:蓮見 橙夜:狂気][Shout]「彼女を殺して世界を救うというなら! 私は今この場で、その世界を二度と再起不能なまでに滅ぼし尽くしてやる!!」[/Shout][/A]
凄まじい衝撃波が周囲のビル群を激しく震わせ、窓ガラスが次々と砕け散り、光る破片となって降り注ぐ。
それと呼応するように、臨界を迎えた結月の身体から、青い魔力の奔流が津波となって噴き出した。
[Pulse]ドクン! ドクン![/Pulse]
押し寄せる青い光の波。
触れたアスファルトが、街灯が、そびえ立つビルが、次々と美しくも不気味な「結晶」へと変貌していく。
周囲一帯は、生命の気配を拒絶する、幻想的な結晶の森へと姿を変え始めていた。
第7章:凍れる結晶の森

すべてが青い結晶に侵食され、風の音すらも失われ、時間の流れすらも凍りついたかのような完全な静寂が訪れる。
街の中央広場。
そこには、そびえ立つ巨大な結晶の大樹が、冷たい月光を浴びて青白く、息を呑むほど美しく輝いている。
ここに取り残されたのは、橙夜、結月、そして激突の衝撃で深手を負い、膝をついた玲司の三人だけだった。
結月は、すでに身体の半分が結晶化し、きしきしと、ガラスが軋む音を立てる。
[A:瀬尾 結月:喜び][Blur]「もう十分です、橙夜さん。私のために、あなたが削られて、壊れていくのを見るのは、何よりも嫌……。だから、私の手で、私を殺してください」[/Blur][/A]
彼女は優しく、慈愛に満ちた表情で微笑んでいた。
その哀切極まる姿を見て、玲司は胸を直接突かれたように、そのブルーの目を見開く。
彼の脳裏に、かつて魔法のテロによって家族を奪われ、瓦礫の中でただ泣くことしかできなかった幼き日の自分。
そして、徐々に冷たくなっていった妹の小さな手が鮮烈にフラッシュバックする。
[Think]私は、一体何のために戦ってきた? 秩序を守るため? 目の前の、このか弱い少女を、かつての妹のような犠牲者を、またこの手で生み出すためなのか……!?[/Think]
玲司の国家への狂信、冷徹な規律が、激しい自己矛盾の中で引き裂かれ、崩壊していく。
[A:九条 玲司:怒り][Tremble]「一人の、目の前の少女すら救えず、犠牲にして……何が国家の秩序だッ!!」[/Tremble][/A]
玲司は、吐血しながらも、掠れた声で咆哮し、自らの愛銃を地面へと投げ捨てた。
第8章:等価交換の夜に霧散す

玲司はよろめきながらも壁を伝って立ち上がり、結月の前に歩み寄る。
[A:九条 玲司:怒り][Shout]「私は国を裏切る! だが、お前たちを、ここで犬死にさせはしない!」[/Shout][/A]
[Magic]《absolute-barrier:極限限界展開》[/Magic]
玲司の全身の毛細血管が浮き上がり、彼の命そのものである銀の魔力が溢れ出す。
結月から放出される、星を滅ぼす暴走エネルギーを抑え込むように、銀の絶対防壁が彼女を優しく包み込んだ。
玲司の口から、鮮血がどっと溢れる。
橙夜は、その玲司の泥臭い姿を見て、初めて不敵な、美しい笑みをその端正な面に浮かべた。
[A:蓮見 橙夜:冷静]「実に見事な猟犬だ、九条玲司。お前のその命がけの覚悟、確かに受け取った」[/A]
橙夜は結月の、すでに指先まで冷たい結晶と化した手を、壊れ物を扱うように強く、熱く握り締める。
冷たいはずのガラスの肌が、今はどんな温もりよりも愛おしい。
[A:蓮見 橙夜:冷静]「結月。私のすべてを、私の存在のすべてを、君に捧げます」[/A]
橙夜は自らの残されたすべての寿命、結月と過ごしたこれまでの記憶、魔導士としての全魂、そのすべてを贄とし、等価交換の禁術を起動した。
[Magic]《全存在昇華・泡沫の祈り》[/Magic]
まばゆい、そして春の陽だまりのような温かい光が、結晶の広場を包み込んでいく。
結月の身体の結晶化が、砂が溶けるようにゆっくりと解けていく。
代わりに、橙夜の足元から、光の粒子となって夜空へと溶け始めていた。
[A:瀬尾 結月:悲しみ][Tremble]「橙夜さん! 嫌、嫌です! 私を一人にして、置いていかないで!」[/Tremble][/A]
[Sensual]
橙夜は、泣き叫ぶ結月の身体を、最後に強く、優しく抱きしめた。
彼の身体はすでに半分透き通り、触れる感触も消えかけている。
それでも彼は、彼女の涙で濡れた額に、最後の、そして最も深い愛を込めた柔らかな口づけを落とした。
その一瞬、彼女の肌を伝う微細な痙攣と、高鳴る互いの心音が、夜の闇に重なり合う。
[/Sensual]
[A:蓮見 橙夜:愛情][Whisper]「さようなら、私の愛した、普通の少女。淹りたての珈琲は、冷めないうちに……どうぞ」[/Whisper][/A]
その甘い言葉を最後に、蓮見 橙夜という存在は、光の塵となって夜空へ完全に消滅した。
第9章:残り香のワルツ
世界から、伝説の魔導士・蓮見橙夜の存在が綺麗に消え去る。
彼の因果律そのものが世界の法則から抹消され、人々の記憶からも、その名前と顔は消え去った。
彼が遺した最後の等価交換の奇跡により、世界を滅ぼしかけた結晶の暴走は、温かい「青い雨」へと姿を変え、乾いた街を優しく潤していく。
結月は、ただの「普通の少女」として、その世界に生き残った。
数年後。
かつて「篝火」と呼ばれた純喫茶は、名前を変えぬまま、今も静かに街の片隅に佇んでいる。
大学生となった結月は、カウンターの奥で、静かに、慣れた手つきで珈琲を淹れていた。
彼女の記憶の中に、あの黒髪の男の姿はない。
誰をここで待っているのか、どうして自分がこの店を続けているのか、彼女自身にもまったく分からなかった。
ただ、彼女の胸の奥には、名前も思い出せない誰かに命がけで愛されたという、消えない確かな温もりが、狂おしいほどの執着の残り香だけが、深く息づいていた。
結月はふと、雨の降る窓の外、灰色のアスファルトを見つめ。
手元にある、湯気の立ち上る磁器のカップを見つめて、無意識に、懐かしい言葉を紡ぐ。
[A:瀬尾 結月:冷静]「冷めないうちにどうぞ。魔法なんてものは、ただの残り火に過ぎませんから」[/A]
その、言葉が紡がれた、その瞬間。
彼女の目の前を、淡い青い光を放ちながら、一匹の美しい蝶が、優しく羽ばたいた。
結月の群青色の瞳に、光の粉がキラキラと反射する。
それはまるで、彼からの、時空を超えた永遠の愛のささやきのようだった。
世界がどんなに魔法を忘れても、彼らの結んだ絆だけは、誰にも奪えない永遠の奇跡として、この美しい雨の街に、ずっと息づき続けるのだから。