第一章: 雨音と血の調香室
地下室の凍てつく石壁を、無数の雨粒が容赦なく叩きつける、重く濁った不協和音が支配していた。
煤けたガス灯の頼りない橙色の光が、湿った澱んだ空気の中で、まるで消えかけの命のように細かく揺らいでいる。
ルドヴィカ・ノイマンは、硝煙と香料、そして微かな鉄サビの香りが複雑に入り混じった己の指先を、狂おしげに凝視していた。
指先が小刻みに激しく震え、極細のピンセットに挟まれた琥珀色の調香瓶が、今にも床へ滑り落ちそうになる。
その手の震えを止める術を、彼はすでに失っていた。
濡れそぼった漆黒の髪が額に不快にはりつき、その奥にある虚ろな灰色の瞳は、世界の何一つとしてまともに映していない。
たっぷりと雨水を吸い込んだ重い黒の外套が、彼の細い身体を容赦なく冷徹な床へと引きずり込もうと、重力を増していく。
西洋風の瀟洒なアンティークシャツは、胸元のボタンが焦燥感を示すように不格好に掛け違えられ、酷く乱れていた。
その隙間から覗く、凍りついたように青白い首元には、かつて肉を深くねじ切ったかのような、あまりにも痛々しい絞殺痕が残る。
赤黒く盛り上がったその醜い傷跡に、感覚の麻痺した冷たい指先が、なぞるように優しく触れた。
いつの間にか、泥と雨水に汚れた白いレース刺繍のドレスを纏う少女が、音もなく彼の背後に佇んでいる。
ハーフアップに美しく結われた、燃えるような金髪が、陽の光の届かない薄暗い地下室の中で不自然なまでの光彩を放つ。
セシリア・アイルハルトは、あまりにも澄み切った、底の知れない翡翠色の瞳を妖しく細めて微笑んだ。
彼女の細く白い指先が、ルドヴィカの首元に残る古い傷跡を、まるでお気に入りの玩具を慈しむように、ねっとりと愛撫する。
セシリア・アイルハルト「まだそんな偽物の雨を追いかけているの、ルドヴィカ」
彼女の冷え切った身体から、鼻腔を鋭く刺すような、ひやりとした死の匂いが立ち上る。
それは、調香室の暗い隅に転がっている、シーツを被せられた身元不明の死体から漂う、生々しい肉の腐臭と不可思議に混ざり合っていた。
ルドヴィカ・ノイマン「この雨の匂いの中に、きみがいる。それだけが、僕の世界のすべてだ……」
なぜだ。なぜ、これほどまでに愛おしく、気高く美しい彼女から、肉の腐りゆく悍ましい悪臭が漂う。
セシリア・アイルハルト「思い出さなくていいのよ、ルドヴィカ。私とこの雨だけが、あなたの真実」
セシリアは彼の耳元へと唇を寄せ、絶対的な拒絶を許さない、魂を甘く麻痺させる子守唄を囁きかける。
その瞬間、彼の脳裏に鋭いガラスを突き立てられたような激しいノイズが走り、首の絞殺痕が焼けるように熱く脈打った。
自身の脳に刻まれた記憶が、何者かの手によって都合よく、あまりにも美しく塗り潰されている。
その強烈な違和感と悍ましい恐怖が、ルドヴィカの細い喉を容赦なく締め付けた。
ドンドンドンドンドンドン!
地下調香室の重厚な鉄の扉が、その場の偽りの静寂を無惨に引き裂くように、激しく狂おしくノックされた。
第二章: 木漏れ日と暴かれる死者

きらきらと眩いばかりに輝く雨上がりの光が、濡れた並木道の木の葉をまばゆい黄金色に染め上げていく。
ルドヴィカは、セシリアの細く、血液の通わぬ冷徹な手を強く握りしめ、濡れた石畳の上をあてもなく歩いていた。
足元の水たまりに反射する極彩色の光は、まるで子供用の絵本に描かれたおとぎ話のように、不自然なほど美しい。
だが、どれほど強い陽光が降り注ごうとも、彼の肌は、差し込む太陽の温もりを微塵も感じ取れずにいた。
光が、僕を避けている。それとも、僕自身が光を拒絶しているのか。この世界は、あまりにも冷たい。
不意に、目の前の眩しい光が遮られ、背の高い男の長く不吉な影が、路面の上にどこまでも伸びてくる。
完璧に整えられた銀髪を後ろに撫で付けた男が、冷徹な琥珀色の瞳で、哀れむように二人を見下ろしていた。
異端を狩る審問官の象徴である、重厚な深紅のロングコートが、生温かい風に吹かれてパタパタと翻る。
その腰には、数多の血を吸ってきたことを物語る、冷たい光を宿した銀の細剣が静かに、だが確実に収まっていた。
ユーグ・ヴァロー「いつまでその醜悪な幻影とままごとを続けるつもりだ、ルドヴィカ」
ユーグ・ヴァローの硬質で、慈悲の欠片もない低い声が、美しい並木道の風景を薄いガラスのようにひび割れさせる。
ルドヴィカ・ノイマン「ユーグ……なぜ、邪魔をする。僕たちは、ただ……」
ユーグ・ヴァロー「歪んだ現実に縋る者は、神の光によってその幻影を暴かれ、断罪される」
ユーグの細長い指先が銀の細剣の柄にかけられ、静寂の中にゾッとするほど鋭い金属音が鳴り響いた。
ユーグ・ヴァロー「ルドヴィカ、お前が愛しているその女は、5年前に死んだ抜け殻だ」
「お前自身が、その手で首を絞めて殺したはずの死体だ」
世界が、真っ赤に爆ぜた。
頭蓋骨を強引に叩き割るような激痛が、ルドヴィカの細い脳を暴力的に蹂躙し尽くす。
美しいはずの黄金の木漏れ日が、瞬時に燃え盛る地獄の業火のような、おぞましい赤黒い色へと変貌していく。
確かに握っていたはずのセシリアの手が、急激に水分を失って縮み、カサカサとしたどす黒い木の枝のように変色していく。
セシリア・アイルハルト「私を忘れないで、ルドヴィカ。私があなたに与えた優しい嘘を拒まないで」
ボロボロと崩れゆく彼女の身体が、最後の抵抗を見せるように、すがりつく力でルドヴィカの胸にしがみついてきた。
天を仰げば、降り注いでいるのは温かい太陽の光などではなく、泥を湛えた血のように赤い雨だった。
第三章: 光雨の大聖堂

半分崩落した古い大聖堂のステンドグラスから、極彩色の光が濁流のように、狂った色彩となって差し込む。
天井の崩れた大穴から容赦なく降り注ぐ冷たい雨が、ルドヴィカの濡れた漆黒の髪をさらに酷く濡らした。
脳裏にこびりついていた偽りの泥が、冷たい雨水によって一気に洗い流されていく。
思い出した。飢えと、狂気と、救いようのない絶望に満ちていた、あの地獄の夜を。
5年前のあの日、生きる気力すら失いかけた暗闇の中で、セシリアは確かに微笑んでくれたのだ。
飢え死にする寸前だった己を生かすために、自らを殺して肉を喰らえと懇願した彼女の首を、この手で絞めた。
首に残る醜い傷跡は、その直後に己の愚かな命を絶とうと、自ら天井に縄をかけた際についた未遂の名残。
セシリアという愛おしい存在は、彼の完全に壊れた精神が、あの雨の匂いから創り出した「都合のいい呪い」だった。
ルドヴィカは狂ったように笑いながら、目の前に佇む金髪の幻影の首に、再びその両手をかけた。
指先が、彼女の冷え切った、骨と皮ばかりの喉元に、ミシミシと音を立てて食い込んでいく。
セシリア・アイルハルト「それでいいの、ルドヴィカ。私をもう一度殺して、あなたの記憶の中で永遠にして」
彼女の濁りのない翡翠色の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、冷たい雨水と混ざり合って白磁の頬を伝い落ちる。
ドクン、ドクンと、ルドヴィカの細い胸が張り裂けんばかりに激しく波打った。
ルドヴィカ・ノイマン「この雨の匂いの中に、きみがいる!それだけが、僕の世界のすべてだ!」
指先に限界以上の力を込め、骨が軋む音とともに、彼女の呼吸を完全に停止させる。
同時に彼は、生気を失いゆく死者の冷たく乾いた唇に、深く、貪るような冷たい、そして狂おしい接吻を交わした。
背後でユーグが銀の細剣を構え、その愚行と自死を止めようと、凄まじい踏み込みで迫ってくる。
だが、もう遅い。二人の倒錯した愛は、すでにこの世界の退屈な条理を遥かに超えていた。
パリィィィン!!!
大聖堂を彩っていたすべてのステンドグラスが、内側からの狂気的な圧力に耐えかねて、一斉に爆散した。
無数の極彩色のガラス破片と、荒れ狂う豪雨が、彼らの視界を完璧なまでに遮断していく。
第四章: 雨上がりの檻
静寂が、廃墟となった広大な大聖堂を、冷酷なまでに支配していた。
先ほどまでの嵐は嘘のように去り、雲の切れ間から、本物の、温かく退屈な朝の光が差し込んでいる。
床の冷たい水たまりをどれほど探しても、そこにセシリアの美しい姿は、どこにも見当たらない。
ルドヴィカは瓦礫の上に両膝をついたまま、虚脱したように、泥と血に汚れた己の両手を見つめた。
その指先には、彼女の愛おしい温もりも、先ほどまで確かに感じていた首を絞めた生々しい感触も残っていない。
ただ、彼の足元に、中身が完全に空になった一つの調香瓶が、寂しげに転がっているだけだった。
瓶の口から零れ落ちた虹色の香水が、泥混じりの雨水と混ざり合い、朝日に照らされて静かに、だが確実に蒸発していく。
ユーグは冷酷な、一切の感情を排した瞳のまま、銀の細剣を音もなく鞘に収めた。
ユーグ・ヴァロー「彼女は消えた。お前はついに、偽りの楽園から引きずり出されたのだ。これからは罪人として生きろ」
だが、ルドヴィカは絶望の淵にありながらも、微塵も絶望などしていなかった。
彼の灰色の瞳には、かつてないほどに明確な、そして底の知れない昏い光が宿っている。
忘れない。僕が彼女を殺した。僕が彼女の命を喰らい、生き延びた。その大罪こそが、僕たちの永遠の絆だ。
自らの罪を完全に思い出したことで、セシリアという存在は、彼の狂った魂の内側へと永遠に刻まれた。
彼の脳裏には、あの悲しくも美しい、本物の血と雨の日の情景が、より鮮明に、色鮮やかに蘇っていた。
ルドヴィカ・ノイマン「……いいえ、彼女は消えていません。僕の中に、この香りと共に生き続ける」
ルドヴィカはゆっくりと立ち上がり、容赦なく差し込む朝日の眩しさに、細い目を細めた。
これは、美しく哀しい再生などではない。一生をかけて、彼女の香りを創り続けるという、終わりのない狂気の始まり。
泥臭く、どこまでも歪んだ自己救済の旅路へ、彼は力強く一歩を踏み出す。
彼が光の射す廃墟を去る背中に、冷たい、だがどこか甘い風が吹き抜けた。
彼の濡れた外套のポケットの奥から、誰もいないはずの虚無の空間から。
セシリア・アイルハルト「うふふ、いつでも一緒よ、ルドヴィカ」
彼女の、優しく、そしてこの上なく狂おしい笑い声が、去りゆく雨音に混じって、確かに響いた。