第1章:完璧で冒涜的な救済

雨の降る深夜。
「いやだ、痛い、助けてえぇっ!」
女の喉から、張り裂けんばかりの絶叫がほとばしる。フローリングをかきむしり、剥がれた爪から滲む血も構わずに暴れ狂う。
紡(ツムギ)は冷え切ったブラックコーヒーのカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
疲労がべったりと張り付いた三白眼。ランプの灯りを弾く、くすんだ銀髪。だらしなく開いた黒いシャツの襟元から、病的に白い鎖骨が覗く。
右手の中指にはめたアンティークの指抜きを、親指で弾く。カチリ、と硬い音が鳴った。
[A:紡(ツムギ):冷静]「……痛かったね。もう大丈夫。僕が綺麗に、縫い直してあげるから」[/A]
ツムギは跪き、床でのたうち回る女の胸元へ、躊躇なく右手を突き入れた。
物理的な肉体と衣服をすり抜け、ずぶり、と不快な湿音が響き渡る。引き摺り出したのは、ヘドロのように黒く濁り、鼻をつく腐臭を放つトラウマの塊。
背後で、衣擦れの音が微かに聞こえた。
[A:繭(マユ):冷静]「……はい。先生の、言う通りに」[/A]
艶やかな黒のボブヘア。光を一切反射しない漆黒の瞳。白いワンピースの胸元に結ばれた異常なほど赤いリボンが、繭(マユ)の透き通るような顔色の悪さを際立たせている。
細く白い指先が、空を引くように動く。きらり。月光を固めて紡いだような精霊の銀糸が、ツムギの手に渡された。
[Magic]《記憶の縫合》[/Magic]
指抜きが銀糸を弾く。空虚な傷口を塞ぐように、ツムギの指先が目にも留まらぬ速さで空を舞う。
結び目がきつく締められた瞬間。
「……あ、れ……?」
女の口から、ピタリと悲鳴が消え失せた。
ゆっくりと身を起こす。泥のような過去を根こそぎ抜き取られ、空洞になった顔には、虚ろで不気味な笑みが張り付いていた。
「痛くない……。何も、痛くない」
数分後。仕立屋の重い木扉が閉まる。
窓越しに雨の夜の街を眺めていたツムギの耳に、[Impact]けたたましいブレーキ音と、肉の潰れる鈍い破裂音[/Impact]が届いた。
窓の向こう。雨の降り仕切るアスファルトの上で、先ほどの女が大型トラックに撥ね飛ばされ、首があらぬ方向へ折れ曲がっている。
だが。
大量の血と内臓を吐き出しながら、女はふらふらと立ち上がった。
折れてぶら下がる首のまま、幸福に満ちた満面の笑みを浮かべて。そのまま暗闇の中へ、軽い足取りで歩き去っていく。
ツムギは冷めたコーヒーをすすり、感情の読めない目で静かに伏し目がちになった。
第2章:すり減った正義と忘却の渇望

カラン、と寂れたドアベルが鳴り響く。
安物のタバコの煙と、雨に濡れた獣のような匂いが店内に流れ込んできた。
ヨレヨレのトレンチコートのポケットに両手を突っ込んだまま、無精髭の男が土足で踏み込んでくる。
[A:灰原(ハイバラ):怒り]「……この街は狂ってる。……俺の頭も含めてな」[/A]
刑事の灰原(ハイバラ)。鋭い眼光の奥には、今にも切れそうなほど張り詰めた危うい糸が潜んでいる。
コートの袖口にこびりついているのは、赤黒く変色した血のシミ。
[A:灰原(ハイバラ):冷静]「今日だけで三人だ。自分の腹を刃物でえぐりながら笑ってるイカレ野郎どもを、無理やり取り押さえた。痛みを忘れた化け物どもが、そこら中で増殖してやがる」[/A]
[A:紡(ツムギ):冷静]「彼らは痛みを忘れて、幸せになっただけだね。何も間違っていないよ」[/A]
ツムギの声は、どこまでも平坦で温和だ。
だが、灰原の奥歯がギリリと嫌な音を立てる。彼自身もまた、凄惨な殺人現場の記憶から逃れるため、何度もこの店で癒やしを乞うてきた。その結果、彼の倫理のタガは外れかけ、世界が酷く現実感を失い始めている。
[A:灰原(ハイバラ):狂気][Tremble]「じゃあ、なんで俺の耳元で、あの肉片になったガキの泣き声が止まらねぇんだよッ!」[/Tremble][/A]
[Flash]鋭い金属音。[/Flash]
灰原が隠し持っていたサバイバルナイフを引き抜き、自らの左腕を躊躇なく切り裂いた。
ブシャリ、と鮮血が壁に飛び散る。
肉が割れ、白い骨が覗く。しかし灰原の顔に苦痛の色はない。ただ焦点の合わない目で、己の血溜まりを見つめている。
[A:灰原(ハイバラ):狂気][Shout]「もっと忘れさせろ! 俺の脳味噌から全部引きずり出して、縫い潰せぇッ!」[/Shout][/A]
血まみれの腕を振り上げ、灰原が獣のような唸り声を上げてツムギに飛びかかった。
第3章:呪わしき暴露と拒絶の絶叫

灰原の凶刃が、ツムギの首筋へ迫る。
その瞬間。静寂そのものだった白い影が、二人の間に滑り込んだ。
[A:繭(マユ):冷静]「先生がそう言うなら、私は痛くありません」[/A]
マユが両腕を広げ、ツムギを庇う盾となる。
[Impact]ザァァァッ![/Impact]
鈍い肉の裂ける音。ナイフの刃がマユの不自然に赤いリボンを断ち切り、胸元の白いワンピースを斜めに大きく切り裂いた。
「あっ……」
ツムギの喉から、間の抜けた音が漏れる。
マユの胸元。そこには、かつてツムギが施した極彩色の縫い目があった。
刃がその銀糸をプツリと切断した瞬間、空間の温度が急激に下がる。
[Glitch]ギ……ギギギ……ッ[/Glitch]
解けた縫い目から、どす黒い瘴気が噴火のように吹き上がる。
それは、マユがかつて受けていた凄惨な虐待の記憶。焼け焦げた肉の匂い。錆びた鉄の味。骨を砕かれる鈍い音。ツムギが無かったことにして覆い隠していただけの、腐敗しきった真実の泥。
圧縮されていたどろどろの泥沼が店中に溢れ返り、圧力で窓ガラスが内側から粉々に砕け散る。
[A:繭(マユ):絶望][Shout]「あ、あああ……アアアアアァァァァッ!」[/Shout][/A]
正気を取り戻したマユが、全身の毛穴から血の混じった泥を吹き出しながら絶叫した。
両手で自らの顔を力任せにかきむしり、喉から赤い血の泡を飛ばす。
[A:繭(マユ):絶望][Shout]「痛いッ! 痛い痛い痛い! 触らないで! 来ないでぇっ!」[/Shout][/A]
手を伸ばそうとしたツムギを、マユは怯えきった獣のような目で睨みつけ、激しく拒絶した。
ツムギの指先が、空を掻いて力なく止まる。
魔法は、彼女を癒やしてなどいなかった。ただ傷口の奥深くに蓋をして、痛みを美しく腐らせていただけだった。
第4章:自己犠牲という名のエゴ

マユの喉が裂けるような悲鳴が、雨音を切り裂いて響き渡る。
ツムギの足元から、急速に床が抜け落ちていくような悍ましい感覚。三白眼が限界まで見開かれ、指抜きの嵌まった手が小刻みに震え続ける。
[Think]……僕が、彼女を救ったんじゃなかった。[/Think]
心の穴が塞がれていたのは、僕の方だ。傷ついた人間を無痛の綺麗な人形に仕立て上げ、自分に依存させることでしか、息ができなかった。ただの醜いエゴ。
[A:灰原(ハイバラ):狂気]「ハッ……ハハハハハ!」[/A]
血まみれのナイフを握ったまま、灰原が突如として狂ったように笑い出す。
顔半分を黒い瘴気に侵食されながら、彼は自らの喉元に刃を押し当てた。
[A:灰原(ハイバラ):狂気]「これがテメェの化けの皮だ! 救いなんてねぇ……最初から、俺たちは地獄の底なんだよッ!」[/A]
[Flash]ブチッ。[/Flash]
躊躇なく横に引かれた分厚い刃が、灰原の頸動脈を無残に切り裂く。
真っ赤な飛沫がアーチを描き、ツムギの頬に生温かいしぶきをべったりと浴びせた。
灰原の巨体が崩れ落ち、赤い血の海が床へ急速に広がっていく。
床でのたうち回るマユ。狂笑を浮かべたまま死にゆく灰原。
部屋を満たす、致死量の黒い泥。
ツムギは血濡れの指抜きを見つめ、ひび割れた声で呟いた。
[A:紡(ツムギ):絶望]「……ごめんね。僕が、全部の痛みを着るから」[/A]
ポケットから、一握りの銀糸を引き出す。
それは誰かを縫うためではない。己の肉体を刺し貫くための、冷たく鋭い針の束。
第5章:泥濘の底で愛を編む
[Sensual]
ツムギは両手に握りしめた無数の銀糸を、自らの胸元へ容赦なく突き立てた。
[Impact]ゴシャッ![/Impact]
肋骨の隙間をすり抜け、心臓に直接杭を打ち込まれるような破滅的な激痛。
「ガハッ……!」
口から大量の黒い血を吐き出す。
部屋中に充満していたマユの記憶の瘴気、そして灰原の遺した狂気が、銀糸を伝ってツムギの体内に一気に流れ込んでくる。
脳髄が沸騰し、視界が赤と黒のノイズに激しく明滅する。全身の筋肉が痙攣し、呼吸の仕方を忘れたように肺がひきつった。
自我が弾け飛ぶ直前。
冷たく、酷く泥に塗れた小さな手が、ツムギの頬をそっと包み込んだ。
[A:繭(マユ):愛情][Whisper]「……先生。先生が痛いなら、私も痛くして」[/Whisper][/A]
視線を落とす。血と泥にまみれたマユが、ツムギの胸に突き刺さる銀糸の束を、自らの手で一緒に握りしめていた。
漆黒の瞳には、かつてないほどの熱を帯びた狂気の光が、ギラギラと宿っている。
[A:紡(ツムギ):愛情][Tremble]「マユ……だめだ、君まで……壊れ、る……」[/Tremble][/A]
[A:繭(マユ):愛情][Whisper]「いいえ。私が、先生を縫ってあげる」[/Whisper][/A]
マユの指先が、ツムギの血を吸って赤黒く染まった銀糸を操り、自らの胸元深くへと躊躇なく突き立てる。
ツムギの心臓と、マユの心臓。
決して交わることのないはずの二つの致命的な傷口が、一本の銀糸によって強引に縫い合わされていく。
[Pulse]ドクン。ドクン。[/Pulse]
鼓動が完全に同期する。
ツムギの味わう地獄の痛みがマユに流れ込み、マユの抱える底なしの絶望がツムギを激しく犯す。互いの痛覚を共有し、傷口の肉と肉をどろどろに溶かし合わせるような、おぞましくも甘美な接合。
「あ、あっ……ふ、あぁッ……」
痛みに耐えきれず漏れる吐息が、奇妙な熱を帯びて混ざり合う。
二人は絡み合うように、冷たい血の海へと倒れ込んだ。
傍らには、息絶えた灰原の死体が転がっている。
外の世界では雨が降り続き、理不尽が人々を蹂躙し続けるだろう。
だが、この血と銀糸に閉ざされた密室の底でだけは。
永遠に解けない糸で互いの肉と心臓を縛り付けた二人は、ただ静かに、壊れたような微笑みを交わし合っていた。
[/Sensual]