最期の化粧

最期の化粧

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第一章 施術室の影

消毒液とホルマリンの臭いが、鼻腔の奥にへばりついて離れない。

深夜二時。

地下にある復元処置室は、世界から切り離されたように静まり返っている。

俺、高村賢人(たかむら けんと)は、冷たいステンレス台の上の「依頼人」と向き合っていた。

交通事故で顔半分を失った少女。

その損傷を、特殊なワックスと化粧品で埋めていく。

生前と変わらぬ安らかな表情を作るのが、俺の仕事だ。

納棺師としての技術の中でも、特にこの「復元」には神経を使う。

「……よし」

筆を置く。

少女の顔は、まるで眠っているかのように綺麗になった。

遺族が最後に対面した時、少しでも救いになればいい。

そう願いながら手袋を外した時だった。

チカッ。

天井の蛍光灯が、不穏な音を立てて明滅した。

空調が動いているはずなのに、空気が急激に澱み始める。

背筋に、氷柱を差し込まれたような悪寒が走った。

(まただ……)

最近、この感覚が頻繁に起こる。

視界の隅に映る、黒い影。

焦げ臭いにおい。

俺は息を殺し、ゆっくりと振り返る。

誰もいない。

ただ、入口のドアのガラス窓に、べっとりと脂ぎった手形がついていた。

内側から。

「誰だ!」

虚勢を張って声を出すが、声帯が震えているのが自分でも分かった。

返事はない。

代わりに、部屋の隅にあるダクトから、ズズ……ズズ……という音が響く。

何かが、濡れた雑巾を引きずるような音。

それが徐々に近づいてくる。

心臓が早鐘を打つ。

逃げ出したい衝動を抑え、俺は道具を片付けるふりをした。

幻覚だ。

疲れているんだ。

そう自分に言い聞かせる。

だが、嗅覚は誤魔化せない。

鼻をつくのは、肉が焼け焦げたような、強烈な異臭。

カツン。

足元に何かが転がってきた。

黒く炭化した、口紅のケース。

俺の呼吸が止まる。

見覚えがあった。

あれは、三年前。

俺がプレゼントしたはずの、限定色のルージュ。

「うそだろ……」

顔を上げると、目の前に「それ」は立っていた。

全身が焼け爛れ、皮膚が垂れ下がった女。

かつて白かったであろうワンピースは、煤と血で黒く染まっている。

髪はチリチリに燃え尽き、頭皮が剥き出しだ。

だが、何よりも恐ろしいのは、その顔だった。

目も鼻も口も、すべてが熱で溶け落ち、ただの肉塊と化している。

『ケ……ン……ト……』

肉塊の奥から、空気が漏れるような音がした。

俺の名前を呼んでいる。

「ひっ!」

腰が抜け、床に尻餅をつく。

怪物は、ゆっくりと俺に手を伸ばしてきた。

その指先からは、膿と血が滴り落ちている。

『キ……レ……イ……ニ……シ……テ……』

絶望的な恐怖が、俺の理性を塗りつぶしていった。

第二章 逃げ場のない罪悪感

俺は処置室を飛び出し、非常階段を駆け上がった。

肺が焼き切れそうだ。

何度も後ろを振り返るが、誰も追っては来ない。

だが、あの焦げ臭いにおいは、俺の服に染み付いて取れなかった。

自宅マンションに帰り着き、鍵を二重にロックする。

電気を全てつけ、テレビの音量を上げた。

それでも、震えが止まらない。

洗面所で顔を洗う。

鏡に映る自分の顔は、青ざめ、目元には濃い隈ができている。

「美咲(みさき)……」

口から漏れた名前。

三年前の火災事故。

俺の婚約者だった美咲は、燃え盛るアパートに取り残されて死んだ。

俺は仕事で現場にいなかった。

駆けつけた時には、彼女は既に搬送された後だった。

遺体安置所で対面した彼女は、あまりにも無惨な姿だった。

復元師としてのプライド。

愛する人への想い。

その両方をもってしても、俺は彼女を「直す」ことができなかった。

損傷が激しすぎたのだ。

俺は、包帯でぐるぐる巻きにされた彼女を、そのまま棺に入れるしかなかった。

『一番綺麗な姿で、見送ってほしかったな』

生前、彼女が冗談めかして言っていた言葉が、呪いのように俺を縛り付けている。

「ごめん……ごめん、美咲」

俺が無力だったから。

俺がもっと早く駆けつけていれば。

謝罪の言葉を繰り返す。

その時。

バチンッ!

家中の電気が一斉に消えた。

テレビの画面もブラックアウトする。

静寂が戻る。

いや、違う。

すぐ背後から、あの音が聞こえる。

ズズ……ズズ……。

「なんで……ここが……」

振り返ることができない。

首筋に、熱い息がかかる。

『ワタシ……ミニクイ……?』

耳元で囁かれる、怨嗟の声。

恐怖で胃の中身が逆流しそうだ。

彼女は俺を恨んでいる。

綺麗な顔に戻してくれなかった俺を。

見苦しい姿のままあの世へ送った俺を。

ヌチャリ。

肩に、濡れた感触。

視線を落とすと、焼け焦げた手が俺の肩を掴んでいた。

爪が皮膚に食い込む。

痛い。

熱い。

「やめろ……来るな……!」

俺は手を振り払い、リビングへと這いずった。

暗闇の中に、彼女の気配が充満している。

窓ガラスに映る稲光が、一瞬だけ部屋を照らした。

部屋の至る所に、彼女がいた。

天井に張り付いている。

ソファの下から顔を出している。

カーテンの陰に立っている。

すべて、あの焼け爛れた顔で、俺を見つめている。

『ケント……ナオシテ……』

『カワイク……シテ……』

『アイシテ……』

無数の声が重なり合い、鼓膜を圧迫する。

俺は頭を抱え、床にうずくまった。

これは罰だ。

愛する人を救えず、最期まで綺麗にしてやれなかった俺への、永遠の罰なのだ。

第三章 魂の修復

意識が朦朧とする中で、俺はふと気づいた。

彼女は、俺を殺そうとしているわけではないのかもしれない。

ただ、すがっているのだ。

プロの復元師である俺に。

かつて愛した男に。

俺は震える足で立ち上がった。

恐怖はある。

だが、それ以上に胸を締め付けるのは、彼女への哀れみと、断ち切れない愛情だった。

「……分かった」

暗闇に向かって、俺は声を絞り出した。

「やるよ。美咲、お前の顔を」

気配が一箇所に集束する。

ダイニングテーブルの椅子。

そこに、彼女は座っていた。

俺は仕事鞄を取りに行き、テーブルの上に道具を広げた。

暗がりの中だが、目が慣れてくると輪郭が見える。

彼女の顔は、やはり凄惨だった。

直視するだけで、理性が削られるような恐怖を感じる。

だが、俺は逃げない。

震える手で、筆を取る。

「痛かったよな……熱かったよな」

語りかけながら、俺は彼女の「頬」に触れた。

冷たいはずの霊体なのに、指先には火傷しそうなほどの熱を感じる。

それは彼女の残留思念、消えない痛みの記憶。

ファンデーションを塗る。

崩れた皮膚の凹凸を、丁寧に埋めていく。

恐怖心は、作業に没頭するにつれて薄れていった。

代わりに込み上げてくるのは、涙だった。

「この色、好きだったよな」

アイシャドウを乗せる。

彼女が好きだった、淡いピンク色。

筆先が触れるたび、焼け焦げた黒い肌が、記憶の中の透き通るような白さへと変わっていくような錯覚を覚えた。

実際に物理的な変化が起きているわけではない。

だが、俺の目には、確かに彼女の生前の面影が浮かび上がってきていた。

唇を描く。

あの日、プレゼントしたルージュと同じ色で。

「……綺麗だ」

俺は心からそう呟いた。

たとえ肉体が滅び、魂が形を失っても、俺が愛した美咲はここにいる。

恐怖というフィルターを外した時、そこにあったのは、ただひたすらに自分の姿を恥じ、愛されたいと願う、切ないほどの乙女心だった。

『ケント……』

声が変わった。

空気が漏れるような不気味な音ではない。

鈴を転がすような、懐かしい声。

俺の手が止まる。

目の前の怪物は、もう怪物ではなかった。

優しく微笑む、あの日の美咲がそこにいた。

彼女はゆっくりと立ち上がり、俺の頬に手を添えた。

その手は、もう熱くも痛くもなかった。

ひんやりとして、それでいて温かい、不思議な感触。

『ありがとう。やっと、会えたね』

彼女の目から、真珠のような涙がこぼれ落ちる。

『私、自分の顔が怖くて……ケントに嫌われるのが怖くて……ずっと隠れていたの』

「嫌うわけないだろ……!」

俺は彼女を抱きしめようとした。

だが、腕は空を切った。

彼女の体が、光の粒子となって崩れ始めていたのだ。

『綺麗にしてくれて、ありがとう。これで、行けるわ』

「待てよ! まだ……言いたいことが!」

『愛してる』

その言葉を最後に、光は弾けた。

部屋の照明がパッと点く。

テレビの砂嵐が消え、静かなニュース番組が流れ始めた。

テーブルの上には、使いかけの化粧道具と、あの黒く焦げた口紅だけが残されていた。

俺はその場に泣き崩れた。

だが、その涙はもう恐怖によるものではない。

窓の外では、いつの間にか雨が止み、白み始めた空が広がっている。

俺は口紅を握りしめ、深く息を吸い込んだ。

最期の仕事は終わった。

彼女はもう、鏡を恐れることはないだろう。

俺もまた、前を向かなければならない。

心の中に、彼女の笑顔という、色褪せない遺影を焼き付けて。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 高村賢人 (Kento Takamura): 遺体の生前の姿を取り戻す「復元師」。技術は一流だが、自分の心に空いた穴は修復できずにいる。臆病だが、根底には深い愛情を持つ男。
  • 美咲 (Misaki): 賢人の亡き婚約者。火災事故で顔を焼かれ死亡。死後、自分の醜い姿を恥じ、賢人に拒絶されることを恐れながらも、彼に触れたいという矛盾した願いを持つ怨霊と化した。

【考察】

  • 「化粧」という行為の二面性: 本作における化粧は、単に表面を装うものではなく、死者の尊厳を取り戻し、生者の記憶の中にある「その人らしさ」を固定化する儀式として描かれている。賢人が恐怖を乗り越えて施す化粧は、物理的な修復を超えた「魂の鎮魂」を意味する。
  • ホラーと愛の境界線: 美咲の霊は当初、典型的な「モンスター」として描かれるが、その行動原理(近づきたい、触れたい)は生前と変わらぬ愛情に基づくものである。恐怖は「理解できないもの」への反応であり、賢人が彼女の意図(綺麗にしてほしい=愛してほしい)を理解した瞬間、ホラーは純愛へと反転する。
  • 「鏡」のメタファー: 作中で鏡は、美咲にとっては「直視できない醜い現実」を映すものであり、賢人にとっては「罪悪感でやつれた自分」を映すものである。ラストで美咲が成仏することで、賢人もまた鏡(過去の自分)と向き合う勇気を得たことが示唆されている。
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