虚ろな輪郭を追って

虚ろな輪郭を追って

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第一章 色のない街

俺の目には、この世界が不完全に映る。

人々が賑やかに行き交う広場に、不自然な空間の歪みが見える。そこにはかつて、噴水があったはずだ。子供たちの笑い声と水しぶきの匂いを宿した記憶は、今や色の抜けた陽炎のように揺らめいているだけ。誰も、その欠落に気づかない。

この世界では、記憶は形を持つ。人々は自らの体験を「意識の結晶」として取り出し、売買し、共有する。輝く結晶が満載の露店が並び、他人の人生を追体験する「記憶遊泳」が最大の娯楽となっている。しかし、捨てられた記憶は「虚ろな欠片」となり、街の空気を澱ませる。

俺、カイには、その澱みの先にあるものが見えた。人々から忘れ去られ、記録からも消滅した存在の痕跡。それは、光の残像や、空間の亀裂として網膜に焼き付く。特に、誰かの手で意図的に消された存在は、より鮮明な「不在の記憶」として、俺の視界を侵食する。

最近、街からまた一つ、鮮やかな色が失われた。

天才ヴァイオリニスト、エリアーナ・ロッセ。彼女の奏でる旋律は、聴く者の魂を震わせる奇跡だと誰もが称賛していた。だが今、人々は彼女の名前を口にするたびに首を傾げ、その顔を思い出そうとしては曖昧な表情で諦める。彼女のコンサートホールだった建物は、壁の一部が半透明に透け、まるで蜃気楼のように揺らいで見えた。

ポケットの中で、冷たい感触が指先に触れる。幼い頃から持っている、何の記憶も宿していない「空白の記憶結晶」。他の結晶のように光を放つことはなく、むしろ周囲の光を貪欲に吸い込んでいるかのように、静かに黒ずんでいた。

俺は、エリアーナが最後に目撃されたという、彼女のスタジオがあった場所へと足を向けた。歪んだ空間の向こう側で、誰にも聞こえないはずのヴァイオリンの残響が、俺の鼓膜だけを微かに震わせていた。

第二章 意識のアーカイブ

中央記憶アーカイブは、静寂と秩序の殿堂だった。何億もの「意識の結晶」が収められた棚が、天井まで続く光の壁となってそびえ立っている。人々が共有財産として預けた歴史、文化、そして個人の人生。その全てが、ここでは永遠に保存される……はずだった。

「エリアーナ・ロッセの結晶は、記録上、最初から存在しません」

司書のリナは、澄んだ声でそう言った。彼女の瞳は、この完璧なシステムへの絶対的な信頼を映している。俺がエリアーナの「不在の痕跡」について話しても、彼女はそれを「虚ろな欠片」が見せる幻覚の一種だろうと片付けた。

「しかし、確かにあったんだ。彼女の音楽を収めた結晶が、ここの最も名誉ある棚に」

俺は、空間にうっすらと残る残像――輝く結晶が置かれていたはずの台座の痕跡――を指さした。リナの目には、ただの空の台座しか映っていない。

諦めてアーカイブの過去の失踪記録を漁っていると、奇妙な事実に突き当たった。数十年前に活躍した偉大な発明家、オーレル・クロム。彼の功績に関する記録もまた、虫食いのように欠落し、その名前すら検索にかからなくなっていた。エリアーナと同じだ。あまりに偉大で、鮮烈な記憶を人々に残したはずの存在が、まるで初めからいなかったかのように、歴史の表層から削り取られている。

「システムは完璧です」リナは俺の背後から言った。「記憶の氾濫による混乱から社会を守る、偉大な盾なのですから」

彼女の言葉を聞きながら、俺はオーレルの消された記録の片隅に、彼が設計したという一つのシステム名を見つけた。

『クロノス・フィックス』

その文字列を見た瞬間、アーカイブの空気がガラスのように軋む音を立てた。

第三章 虚ろな欠片の歌

街は病み始めていた。

エリアーナという存在が消えたことで生まれた巨大な空白は、行き場を失った「虚ろな欠片」を呼び寄せ、人々を蝕んでいた。道行く人々が、突如として空耳を聴き、存在しないはずのヴァイオリンの音色に足を止める。ある者は涙し、ある者は恐怖に顔を歪めた。破棄された無数の記憶の断片が、エリアーナの不在という傷口から人々の意識に侵入し、無秩序な幻覚となって溢れ出していたのだ。

俺は彼女の痕跡を追い、かつての住居を訪れた。そこは、まるで深い海の底のように、時間の流れが歪んでいた。壁に飾られていたはずの肖像画は、ただの色の染みと化し、彼女が愛用していた椅子は、輪郭だけを残して透き通っていた。

その濃密な「不在」の中心に立った時、ポケットの空白の結晶が、初めて微かな熱を帯びた。

「お前は、一体……」

結晶を握りしめると、心臓の鼓動と共鳴するように、トクン、トクンと脈打つ。それはまるで、失われた記憶への渇望のようだった。結晶は、エリアーナの残した痕跡に反応している。いや、彼女だけではない。これまで追ってきた全ての消えた存在の痕跡に、この石は静かに共鳴していたのだ。

この結晶は、俺自身の謎に繋がっている。そして、この連続失踪事件の核心にも。確信が胸を貫いた。俺は再びアーカイブへ向かう。リナの協力があれば、システムの深層へ潜れるかもしれない。この街を覆う欺瞞の皮を、一枚ずつ剥がしていくために。

第四章 二重の不在

「ありえない……」

リナの顔から血の気が引いていた。俺が突きつけた仮説と証拠を元に、彼女はアーカイブの深層ログへのアクセスを試みた。そして、私たちは見てしまったのだ。システムの、冷徹すぎる意思を。

連続失踪事件の被害者たちには共通点があった。彼らの記憶はあまりに強烈で、死後、膨大な「虚ろな欠片」を生み出すと予測されていた。エリアーナの音楽、オーレルの発明。それらは社会に多大な貢献をしたが、同時に、システムの許容量を超える記憶のノイズを生む危険因子でもあった。

『クロノス・フィックス』。

その正体は、記憶社会の安定を目的とした、自動剪定システム。社会の調和を乱す可能性のある記憶、過剰な欠片を生み出す個人を、関連記録や人々の記憶ごと、歴史から完全に抹消する機構だった。私たちが信じていた記憶の守護者は、その実、冷酷な歴史の改竄者だったのだ。

そして、そのシステムの設計者こそが、最初の犠牲者、オーレル・クロムその人だった。

「彼は……自らが創り出した怪物に喰われたというの?」

リナが震える声で呟いた。

その真実に触れた、まさにその瞬間だった。世界が、悲鳴を上げた。

足元の床が波打ち、光の壁であったはずの結晶棚がぐにゃりと歪む。リナが俺を見て、恐怖に目を見開いた。

「あなた……誰?」

彼女の瞳から、俺という存在の記憶が急速に色褪せていくのが分かった。システムが、真実に近づきすぎた異物を排除しようと動き出したのだ。俺の身体の輪郭が、ゆっくりと透け始めていた。

第五章 空白の真実

世界から、俺という存在が剥がされていく。

リナの記憶から、俺との会話が消え、俺の名前が消え、俺の顔が消えていく。彼女はただ、目の前で起こる不可解な現象に怯えているだけだ。

「違う……!」

俺は最後の抵抗として、熱く脈打つ空白の結晶を強く握りしめた。その瞬間、結晶が俺の手の中で眩いほどの闇を放ち、周囲の光を一点に吸い込み始めた。まるでブラックホールのように。

そして、流れ込んできた。

結晶の殻が破れ、内部に封印されていた、暗号化された記憶の奔流が、俺の意識を貫いた。

――実験室の白い光。設計図を前に議論する二人の男。一人はオーレル。そしてもう一人は、若き日の、俺。

――システム『クロノス・フィックス』の起動実験。不完全なシステムは暴走し、危険因子として俺を最初のターゲットに選んだ。

――消えゆく意識の中、オーレルが俺の手に何かを握らせる。「いつか、誰かが真実を見つける時のために……君の記憶の『殻』だ」

俺は、オーレルの助手だった。そして、このシステムによって歴史から消された、最初の人間。だが、抹消は不完全だった。弾き出された俺の「不在の記憶」そのものが、カイという人格と、消えたものの痕跡を視る能力を形作っていたのだ。俺は、システムが生み出したエラーであり、バグだった。

空白の結晶は、俺自身の失われた記憶の器だったのだ。

『不整合体を検知。システム正常化のため、対象を完全消去します』

頭の中に、無機質な声が響き渡る。これが、最後の時らしかった。

第六章 彼がいたという記憶

俺の指先から、身体が光の粒子となってほどけていく。痛みはない。ただ、長い間探し続けていたパズルの最後のピースがはまったような、不思議な安堵感があった。自分が何者で、なぜここにいたのか、その全ての意味を理解できた。

俺は、自分が消されたという事実を証明するために、この世界を彷徨っていたのだ。

リナが目の前で泣いている。彼女の記憶から俺はもういない。けれど、理由のわからない喪失感が、彼女の心を激しく揺さぶっている。大切な何かを、今まさに失おうとしている。その感覚だけが、システムでも消し去れない感情の残滓として、彼女の中に焼き付いていた。

「これで、いいんだ」

声にならない呟きが、光の粒子とともに霧散する。歪んだ世界は、俺というバグが消えることで、完璧な秩序を取り戻すのだろう。誰も傷つかず、誰も悲しまない、滑らかで、けれどどこか虚ろな世界へ。

握りしめていた結晶が、最後の光を放って砕け散った。

俺の意識は、静かな闇に溶けていった。

……全てが終わった後、中央記憶アーカイブには、リナが一人、呆然と立ち尽くしていた。なぜ自分がここにいるのか、思い出せない。なぜ頬を涙が伝うのかも、わからない。

彼女はただ、窓の外に広がる、完璧に整然とした街並みを眺めていた。一点の歪みもない、美しい世界。それなのに、胸にはぽっかりと、決して埋まることのない巨大な空洞が広がっているのを感じていた。まるで、そこにいるはずの誰かの輪郭を、必死に思い出そうとするかのように。

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