その部屋は、時の博物館だった。壁という壁を埋め尽くす、数百の時計。柱時計が荘厳な音を予告し、置き時計が精緻な歯車を覗かせ、懐中時計がガラスケースの中で静かに眠る。ここは国内随一のアンティーク時計コレクター、黒川剛三の城であり、聖域だった。
その聖域に、今、けたたましいサイレンが不協和音を奏でていた。城の主、黒川が、コレクションルームの中央で冷たくなっていたのだ。
「死亡推定時刻は、昨夜の午後10時から11時の間。後頭部を鈍器で一撃。ほぼ即死でしょう」
現場を指揮する田所警部が、手帳をめくりながら言った。彼の視線の先には、一人の老人がいる。時任譲(ときとう ゆずる)。白髪を綺麗に撫でつけ、老眼鏡の奥から鋭い光を放つその男は、かつて「神の指を持つ」と謳われた伝説の時計師だった。昨夜は黒川に招かれ、この屋敷に滞在していた客の一人だ。
「午後10時から11時、ですか」時任は静かにつぶやいた。「その時間、私たちは全員、階下の談話室におりましたな」
時任の言葉に、他の滞在客たちも頷く。黒川のビジネスパートナーである高遠綾子、黒川に家宝の時計を奪われたと主張する青年・西園寺誠、そして黒川のコレクションを管理する気弱なキュレーターの長谷部健介。彼ら全員に、完璧なアリバイが存在した。
捜査は難航した。凶器は見つからず、部屋は内側から鍵がかかった密室状態。何より、盤石なアリバイが捜査員の前に壁となって立ちはだかった。
時任は、警察の許可を得て、再びコレクションルームに足を踏み入れた。ひんやりとした空気が肌を刺す。暖房が切られた部屋は、まるで冬のようだった。彼は無言で、壁にかけられた時計たちを一つ一つ眺めていく。田所警部は、老人の奇妙な行動をいぶかしげに見守っていた。
「時任さん、何か気になることでも?」
「……ええ、少し」時任は、壁に掛かったひときゅう美しいレギュレータークロックを指さした。「田所警部、この部屋の時計はすべて、長谷部くんが寸分の狂いもなく合わせています。しかし、あの一台だけ……ほんのわずかに、進んでいる」
「進んでいる?それが何か?」
「ええ。機械式時計にとって、最大の敵は二つ。衝撃と、そして……温度です」
時任は、ゆっくりと全員をコレクションルームに集めた。窓の外では、冷たい雨が降り始めている。
「犯人は、この中にいます」
時任の言葉に、緊張が走る。
「警察の割り出した死亡推定時刻は、間違いです。犯人によって巧妙に操作されたものです」
彼は言葉を続けた。「犯行は、もっと早い時間……おそらく午後8時頃に行われた。その時刻、我々にはアリバイがない」
「馬鹿な!検視の結果と違う!」田所警部が声を荒らげる。
「ええ。だからこそ、犯人はこの部屋の『温度』を利用したのです」
時任は、部屋の隅にある空調のパネルを指さした。
「犯人は犯行時、この部屋の暖房を最大まで上げました。おそらく40度近い高温だったでしょう。遺体の死後硬直は、高温下では早く始まります。そして犯行後、犯人は暖房を切り、窓をわずかに開けて部屋を急激に冷やした。検視官は、発見時の冷たい遺体の状態から、死亡時刻を実際よりもずっと遅い時間に算出してしまったのです」
息を飲む一同。完璧なアリバイは、砂上の楼閣のように崩れ去った。
「しかし、そのトリックは一つの痕跡を残しました」時任は、先ほど指摘したレギュレータークロックを再び見つめた。「古い機械式時計の心臓部であるテンプは、急激な温度変化に極めて弱い。特に高温に晒されれば、ひげゼンマイが伸び、時計は『進む』のです。他の時計もわずかに狂っているでしょう。しかし、最も精密なこの時計の狂いが、犯人の偽装工作を雄弁に物語っていた」
時任の視線が、一人の人物に注がれる。
「こんな真似ができるのは、時計の特性を熟知し、そして……コレクションを守るためなら、時計を危険に晒すことさえ厭わない人物だけだ」
「長谷部くん。君ですね」
青白い顔で震えていたキュレーターの長谷部が、ゆっくりと顔を上げた。その目には、絶望と、奇妙なほどの達成感が浮かんでいた。
「……あの人は、時計を愛していなかった。ただの金儲けの道具としか見ていなかったんです。あの美しいクロノグラフたちを、汚い欲望から解放してあげたかった……!」
長谷部の悲痛な叫びは、時を止めた部屋に吸い込まれていった。被害者の手に握らされていた壊れた懐中時計は、黒川への侮蔑の念を込めて長谷部が置いたものだった。
事件は解決した。だが、時任の心には、晴れない霧が残っていた。時を愛しすぎた男が、時を操って罪を犯し、自らの時を止めてしまう。皮肉な運命の歯車に、彼はただ静かに思いを馳せるだけだった。
部屋の時計たちが、まるで鎮魂歌のように、それぞれの音で静かに時を刻み続けていた。
沈黙のクロノグラフ
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