忘却のレゾナンス

忘却のレゾナンス

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第一章 琥珀色の遺品

相馬樹(そうま いつき)の指先が、冷たく滑らかなローズウッドに触れた瞬間、世界は音を立てて崩壊した。

そこは、防音設備が完璧に施された一室。床に投げ出された白いドレスの女は、天才ヴァイオリニストと謳われた霧島玲奈(きりしま れな)。首には扼殺の痕も、身体に刺創もなく、ただ安らかに眠っているかのように見えた。現場は完全な密室。侵入の形跡も、凶器も見当たらない。残されていたのは、彼女の身体の傍らに転がる一本のヴァイオリンの弓。長年使い込まれ、琥珀色に輝くそれが、彼女の唯一の遺品だった。

「頼む、相馬君」

老刑事のすがるような声が、現実世界に俺を引き戻そうとする。だが、もう遅い。俺の意識はすでに、弓に残された残留思念の奔流に飲み込まれ始めていた。

視界が激しく明滅し、知らないはずの記憶が流れ込んでくる。松脂の甘く粉っぽい香り。弦が軋む微かな振動。そして、耳を突き刺すような、圧倒的な音の洪水。パガニーニの超絶技巧。聴衆の熱狂的な拍手。それは霧島玲奈が、彼女の人生の絶頂で見ていた光景だった。

しかし、記憶の光は突如として闇に転じる。同じ部屋。窓の外は深い夜。彼女は一人、ヴァイオリンを奏でている。聴いたことのない、悲しくも美しい旋律。それは誰かに向けた祈りのようでもあり、絶望の叫びのようでもあった。

そして、唐突に音が消える。

完全な無音。耳が痛くなるほどの静寂が、彼女の意識を支配する。恐怖に歪む顔。見えない何かに向かって伸ばされる手。そこで記憶は途切れていた。犯人の姿も、声も、殺害の具体的な状況も、何一つ残されていなかった。

意識が現実に戻ると、俺は床に膝をついていた。冷や汗が背中を伝い、激しい頭痛がこめかみを殴りつける。代償だ。他人の最後の記憶を覗き見るたびに、俺は自分自身の記憶を一つ、失う。

「何か、わかったか」

老刑事が俺の肩を掴む。俺はゆっくりと首を横に振った。

「犯人は、見えませんでした。ただ……ひどい静寂だけが」

立ち上がろうとした瞬間、ふと脳裏に違和感がよぎった。頭の中のアルバムから、一枚の写真が抜き取られたような、奇妙な空虚感。俺はポケットを探り、家の鍵を取り出した。見慣れた、何の変哲もない鍵。だが、思い出せない。この鍵で開く家の玄関が、どんな色をしていたのかを。

些細な記憶の喪失。だが、それは確実に俺という存在を内側から蝕んでいく。俺は唇を噛み締め、琥珀色の弓を睨みつけた。この中に、まだ答えは眠っている。たとえ、この身が空っぽになったとしても、見つけ出さなければならない。霧島玲奈の無音の叫びに、応えるために。

第二章 不協和音の追跡

警察の捜査は暗礁に乗り上げていた。霧島玲奈の周辺に、強い殺意を抱くような人物は浮上してこない。彼女のライバルとされたヴァイオリニストには鉄壁のアリバイがあり、彼女のパトロンだった老富豪は事件当夜、海外にいた。誰もが彼女の死を悼み、その才能の喪失を嘆いていた。

俺は一人、玲奈の記憶から得た断片的な手がかりを追っていた。彼女が最後に奏でていた未知の旋律。楽譜にも残されていないその曲は何だったのか。音楽大学の資料室に籠もり、古今東西の楽譜を漁ったが、該当するものは見つからない。

記憶の中で見た、窓の外の奇妙な鳥の影。それは近くの教会の尖塔に取り付けられた、風見鶏のシルエットだと判明した。だが、それだけだ。そこから犯人に繋がる道筋は見えてこない。

時間だけが空虚に過ぎていく。焦りが俺の心をじりじりと焼く。毎晩、玲奈の最期の記憶がフラッシュバックする。あの絶対的な静寂と、彼女の瞳に映った絶望。それに呼応するように、俺自身の記憶の欠落は、日常に不協和音を響かせ始めていた。行きつけのカフェの店員の顔が思い出せない。昨日食べた夕食が何だったか、判然としない。俺という人間の輪郭が、日に日に曖昧になっていく恐怖。

「もう一度、やるしかないのか……」

俺は警察署の証拠品保管室に保管されている、あの琥珀色の弓を見つめていた。もう一度記憶に潜れば、新たな手がかりが得られるかもしれない。しかし、次に失うのがどんなに大切な記憶か、俺にはわからない。親の顔か、友人の名前か、あるいは、この能力を得るきっかけとなった、あの事件の記憶か。

だが、迷っている暇はなかった。玲奈の無念が、俺の背中を押していた。俺は保管室の鍵を開け、厳重に封印されたケースの中から、静かに弓を取り出した。ひんやりとした感触が、再び俺の指先から全身へと駆け巡る。

二度目のダイブは、一度目よりも深く、鮮明だった。

玲奈は誰かと口論している。『彼の才能を埋もれさせてはいけない』『あの曲は、彼のためにあるの』。相手の声はノイズのように加工され、聞き取れない。しかし、その声に込められた冷たい拒絶の響きだけが、俺の鼓膜に突き刺さった。

そして再び、あの無音の恐怖がやってくる。だが、今回は違った。静寂の中に、微かな音があった。高周波のような、金属的な共鳴音。キーン、という耳鳴りに似たその音は、玲奈の意識が遠のくと共に消えていった。

「……高周波……」

現実に戻った俺は、その言葉を呟いていた。そして、襲い来る喪失感に息を呑んだ。今度は、もっと大きなピースが抜け落ちていた。俺は、なぜ古物商を辞めたんだ? なぜ、警察に協力するようになった? そのきっかけとなったはずの、ある女性の顔が、濃い霧の向こうに霞んで思い出せない。

胸に空いた大きな穴を抱えながら、俺は確信していた。犯人は「音」を使って玲奈を殺した。そして、その犯人は、玲奈が言っていた『彼』という人物を知っている。

第三章 失われたカデンツァ

『彼』とは誰なのか。玲奈の交友関係を洗い直しても、それらしい人物は浮かんでこない。俺は調査報告書の束を前に、途方に暮れていた。その時、ふと、玲奈が口論の中で言っていた言葉が蘇った。『あの曲は、彼のためにあるの』。

あの曲。玲奈が死の直前に弾いていた、あの悲しくも美しい旋律。俺は記憶を頼りに、そのメロディを五線譜に書き起こしてみた。ヴァイオリンの旋律ではなく、ピアノのアルペジオに置き換えて、指で机を叩いてみる。

その瞬間、電流が背骨を駆け抜けた。

知っている。俺は、このフレーズを知っている。いや、違う。これは、俺が作った曲だ。

忘却の彼方に沈んでいた記憶の扉が、軋みながら開く。幼い頃、俺はピアノを弾いていた。誰もが神童と呼んだ。だが、あるコンクールで、俺は生まれて初めての敗北を知る。圧倒的な才能の前に、俺のプライドは粉々に砕け散った。その相手こそ、同じ教室に通っていた、少し年上の少女――霧島玲奈だった。

俺はピアノを辞めた。音楽に関わる全ての記憶に蓋をして、逃げ出した。玲奈のことも、彼女との思い出も、全て心の奥底に封印していたのだ。

全てのピースが、恐ろしい速度で嵌っていく。玲奈が言っていた『彼』とは、俺のことだった。彼女が弾いていたのは、俺がコンクールで弾くはずだった、未完成の曲だった。彼女は、俺が音楽の世界に戻ってくるのを、ずっと待っていたのだ。

そして、俺たちの共通の恩師がいた。俺と玲奈の才能を誰よりも理解し、そして同時に、その才能の輝きに影を落とされていた男。宮内(みやうち)だ。

俺は三度、あの弓を手に取ることを決意した。失うものはもう、何もない。いや、失うものがないのではなく、自分が何を失うのかさえ、もうわからなくなっていた。これが最後だ。

指が弓に触れる。三度目の記憶の奔流は、玲奈の記憶と、俺自身の失われた記憶とが激しく共鳴(レゾナンス)し、一つの物語を紡ぎだした。

玲奈は、恩師である宮内に相談していたのだ。俺をもう一度ピアノの前に座らせたい、と。そして、俺が作りかけで投げ出したあの曲を、自分が完成させて彼に届けたい、と。

その言葉を聞いた時の、宮内の顔。穏やかな笑みの下に隠された、どす黒い嫉妬の炎。宮内もまた、かつてはピアニストを目指していた挫折者だった。彼は玲奈の才能を愛しながら、同時に憎んでいた。そして、玲奈が執着する、かつての教え子――相馬樹の才能をも。

『君の才能も、彼の才能も、私には眩しすぎる』

ノイズの向こうから、宮内の声がはっきりと聞こえた。彼は特殊な音響装置を使い、人間には聞こえない高周波の共鳴音を発生させた。その超音波が、防音室の中で反響し、玲奈の脳の繊細な血管を破壊したのだ。密室で、一切の痕跡を残さずに人を殺害する、悪魔的なトリック。玲奈が最期に感じた「無音」は、可聴域を超えた殺人音波が鳴り響く、この世で最も残忍な轟音だった。

記憶の奔流が止まった時、俺の頬を涙が伝っていた。玲奈の無念、そして、俺が忘却の底に沈めていた、彼女への淡い憧れと友情。全てが、胸の内に蘇っていた。

第四章 明日へのソナタ

宮内は、俺が突きつけた真実に、静かに頷いた。彼の顔には、嫉妬も憎悪も消え、ただ深い疲労の色だけが浮かんでいた。

「君たちが眩しすぎた。私は、ただその光から目を背けたかっただけなのかもしれない」

事件は解決した。だが、俺の中に残ったのは虚しさだけではなかった。俺は、能力の代償として数えきれないほどの記憶を失った。自分の半生は、虫食いだらけの楽譜のようだ。しかし、玲奈の記憶との共鳴は、俺に最も大切なものを取り戻させてくれた。音楽への情熱。そして、霧島玲奈という一人の女性が、俺の人生に存在していたという、かけがえのない真実だ。

俺はもう、失われた記憶に怯える孤独な探偵ではない。

数日後、俺は実家の埃をかぶった物置の扉を開けた。そこに、それはあった。鍵盤の蓋が固く閉ざされた、古いアップライトピアノ。俺が十数年前に、自らの手で封印した過去の亡霊だ。

ゆっくりと蓋を開け、鍵盤に指を置く。象牙の色は黄ばみ、ところどころに傷がついている。指先に、懐かしい感触が蘇る。目を閉じると、玲奈のヴァイオリンの音が聞こえる気がした。俺が忘れていた、あの未完成のソナタ。

俺は静かに鍵盤を叩いた。

忘れていたはずのメロディが、淀みなく指先から溢れ出す。それは、玲奈が遺してくれた記憶のカデンツァ。彼女が完成させようとしていた、未来へのフレーズ。俺の心の中に、新しい旋律が自然と湧き上がってきた。

失った記憶は、もう戻らないだろう。俺という人間は、決して元通りにはなれない。だが、このピアノの音色と、玲奈が遺してくれた想いがある限り、俺は生きていける。

窓から差し込む月光が、俺の指先を優しく照らしていた。奏でられる音楽は、過去への鎮魂歌であり、明日へと続く希望のソナタだった。俺の、そして俺と彼女の、新しい物語が始まったのだ。

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