第一章 純色の調律師
来栖奏(くるすかなで)の世界は、澄み切った色で構成されていた。人々は生まれながらに固有の感情の「色」を放ち、その純度が社会的地位から住居、配給される食事に至るまで、人生のすべてを決定する。奏は、その色を管理し、社会の調和を維持するエリート階級《調色師(トーン・マイスター)》の中でも、若くして最高位の一つ手前まで上り詰めた逸材だった。
彼のオーラは、一点の曇りもない完璧な《ロイヤルブルー》。冷静、知性、論理性の象徴。その青い光は、彼が歩くたびに周囲の空間を静謐な空気で満たした。人々は彼に畏敬の念を抱き、その完璧な純色に憧れた。奏自身も、自らの色を、そしてこの完璧に統制された社会システムを誇りに思っていた。感情の混濁は社会のノイズであり、それを排除し、誰もが安定した純色を保てるように導くことこそが、調色師の使命だと信じて疑わなかった。
その日、奏はセクター7の定期走査を行っていた。そこは、濁色(だくしょく)の者たちが集う、いわば社会の澱(おり)のような地区だ。くすんだ茶色、淀んだ緑、灰色がかった紫。様々な感情の残滓が混じり合った濁色は、見る者に不快感と倦怠感を与える。奏は防護フィルター越しにその光景を眺めながら、淡々とデータを記録していた。彼のロイヤルブルーが、この濁った世界で唯一の秩序であるかのように輝いていた。
その時だった。システムの網膜ディスプレイに、観測史上ありえない警告が表示された。
【エラー:識別不能なスペクトルを検出。カテゴリー・ノン(存在せず)】
奏の視界の隅、廃墟ビルの屋上に、小さな人影があった。少女だ。彼女から放たれている光は、青でも赤でも、どの単色にも分類できなかった。それは、まるでプリズムが光を分解したような、虹色のオーラだった。しかし、濁色とは明らかに違う。悲しみも喜びも、怒りも安らぎも、あらゆる感情の色が溶け合っているのに、信じられないほどの透明度と輝きを保っている。それはシステムが「存在しない」と断定する、矛盾した光だった。
少女がふと、こちらを振り返った。距離があるにもかかわらず、その瞳がまっすぐに奏を射抜いた気がした。その瞬間、奏の完璧なロイヤルブルーが、ほんのわずかに、紫がかって揺らいだ。動揺――彼が最も忌み嫌う感情の混濁だった。
「対象を確保。カテゴリー・ノンを『バグ』と仮定し、解析および『修正』を開始する」
奏は冷静を装い、自分自身にそう命じた。だが、胸の奥で生まれた小さなさざ波は、彼の知らない色の予感を孕んでいた。
第二章 混濁のプリズム
少女はヒカリと名乗った。彼女は保護施設に収容されたが、奏は「特別な観察対象」として、自らが直接担当することにした。目的はただ一つ、彼女の放つ虹色のバグを解析し、無害な純色へと「修正」すること。奏は透明な隔壁越しに、ヒカリとの対話を始めた。
「君の色は、システムの想定外だ。社会の調和を乱す可能性がある。なぜ、そんな色をしている?」
奏のロイヤルブルーが、静かな圧力を放つ。だが、ヒカリは怯むことなく、不思議そうに首を傾げた。
「色? 私の色って、どんな色?」
彼女には、自分の色が、他人の色が、見えていないようだった。この世界ではありえないことだ。色の見えない人間は、社会システムの根幹を理解できない欠陥品として扱われる。
奏は苛立ちを覚えながらも、観察を続けた。ヒカリは、奏が差し入れた味気ない栄養食を口にしては「美味しい!」と満面の笑みを浮かべた。その瞬間、彼女のオーラは暖かな橙色を強くした。かと思えば、窓の外で雨に濡れる野良猫を見て、悲しそうな顔つきになり、オーラには深い青が滲んだ。喜び、悲しみ、怒り、好奇心。彼女の感情はころころと変わり、そのたびに虹色のオーラは万華鏡のように表情を変える。それは奏にとって、理解不能で、非効率で、ひどく不純なものに思えた。
ある日、奏はセクター7でのヒカリの生活記録映像を見ていた。彼女は濁色の老人たちに囲まれ、屈託なく笑っていた。歌を歌い、拙い踊りを披露する。すると、不思議なことが起きた。ヒカリの虹色の光に触れた老人たちの、淀みきっていた濁色が、ほんの少しだけ、彩度を取り戻していくのだ。まるで、乾いた土に水が染み込むように。彼らの顔には、忘れ去られていた微かな笑みが浮かんでいた。
映像を止めた奏は、自分の胸に手を当てた。心臓が奇妙なリズムを刻んでいる。ロイヤルブルーのオーラが、またしても不安定に揺らめいていた。システムは、混色は非効率で、社会の安定を損なうノイズだと定義する。だが、目の前で起きている現象は、その真逆だった。ヒカリの混色は、他者の濁色を癒し、活性化させている。
「調和とは、純粋な単色で世界を塗りつぶすことではなかったのか……?」
奏は初めて、自らが信奉してきた世界の完璧さに、小さな亀裂が入るのを感じていた。隔壁の向こうで、ヒカリが鼻歌を歌っている。その無邪気なメロディが、奏の築き上げてきた堅固な論理の壁を、少しずつ溶かしていくようだった。
第三章 偽りのユートピア
ヒカリという存在は、奏にとって解くべき方程式から、理解したい謎へと変わっていた。彼は彼女の虹色のスペクトルを解析するため、中央データベースの深層へのアクセスを申請した。最高位の調色師にのみ許される、禁断の領域。システムの根幹に関わる古文書(アーカイブ)が眠る場所だ。
アクセスが許可され、膨大なデータが彼の網膜ディスプレイに流れ込んできた。彼は、この社会システムが構築された黎明期の記録を追った。そこにあったのは、衝撃的な真実だった。
かつて、この世界の人々は、誰もがヒカリのような虹色のオーラを持っていた。感情は豊かで、複雑で、それゆえに時として暴走した。憎しみが戦争を、悲しみが暴動を、嫉妬が犯罪を生んだ。「感情の大災害」と呼ばれる時代の末期、疲弊しきった人々は、絶対的な安定を求めた。
そこで立ち上がったのが、初代最高調色師であり、奏が最も尊敬する伝説の人物だった。彼は、人間の複雑な感情こそが不幸の根源であると結論づけた。そして、人間の感情から危険な「混色」因子を抜き取り、精神を安定させる単一の「純色」へと調律する、巨大なシステムを創り上げたのだ。人々は自ら、感情の多様性を捨て、管理される平和を選んだ。濁色は、そのシステムからこぼれ落ちた、不完全な調律の成れの果てだった。
つまり、奏が今まで「バグ」であり「異常」だと思っていたヒカリの色こそが、人間が本来持っていた、ありのままの姿だったのだ。そして、奏自身を含む「純色」の持ち主たちは、システムによって感情を去勢された、いわば人工的な存在だった。
画面の最後に、初代最高調色師の言葉が記されていた。
『我々は楽園を創った。悲しみも憎しみもない、静謐なるユートピアを。その維持のためには、いかなる犠牲も厭わない。たとえ、我々が人間でなくなるとしても』
奏は全身から力が抜けるのを感じた。足元が崩れ落ち、信じていた世界が音を立てて砕けていく。彼が捧げてきた人生、彼の誇りだったロイヤルブルー。それは、偽りの平和のために作られた、美しい檻の色に過ぎなかった。彼の完璧な青に、初めて絶望という名の深い灰色が混じり、濁流のように渦を巻いた。
第四章 心の色を描くとき
数日後、奏は最高評議会に召喚された。ヒカリの存在が、ついに上層部の知るところとなったのだ。議題は一つ。「カテゴリー・ノン《ヒカリ》の即時消去について」。消去とは、物理的な殺害ではない。彼女の虹色のオーラを、特殊な電磁パルスで完全に漂白し、無色の存在――感情のない、ただ生きているだけの抜け殻にすることだ。
議長が、冷徹な純白の光を放ちながら奏に問う。
「来栖調色師。君の見解を聞こう。対象はシステムへの脅威か?」
奏は静かに立ち上がった。評議会のメンバーたちが放つ、赤、黄、緑、紫の完璧な純色が、彼を品定めするように見つめている。彼らの視線は、もはや奏には色の羅列にしか見えなかった。
彼は目を閉じ、ヒカリの顔を思い浮かべた。屈託なく笑い、些細なことで涙ぐみ、怒り、そして歌う少女。彼女の虹色は、なんと豊かで、生命力に満ちていたことか。それに比べて、この議場を埋め尽くす純色は、なんと空虚で、死んでいるように見えることか。
奏は、ゆっくりと目を開けた。
「脅威ではありません」
彼の声は、静かだが、揺るぎなかった。
「彼女は……希望です」
その瞬間、奏のオーラが激しく揺らめいた。完璧だったロイヤルブルーに、苦悩の灰色が走り、決意の赤が燃え上がり、そしてヒカリへの慈しみのような柔らかな金色が混じり合う。それは不格好で、不純で、システム的には完全な「濁色」だった。だが、それは紛れもなく、来栖奏という一人の人間が、初めて自分自身で紡ぎ出した、本物の「心の色」だった。
「我々は間違っていた!」奏は叫んだ。「安定と引き換えに、我々は人間であることを捨てた! 感情の豊かさを、多様性を、生きるということを忘れてしまったんだ! 彼女の色を見てください! あれこそが、我々が失った、本来の輝きだ!」
彼はヒカリの生活記録を議場のメインスクリーンに投影した。濁色の老人たちに笑顔が戻る光景、雨に濡れる猫を憂うヒカリの優しい眼差し、そして、彼女が歌うたびに周囲に広がる、暖かな光の波紋。
評議会は静まり返った。誰もが、その映像に、そして今まで見たこともない複雑な色を放つ奏の姿に、釘付けになっていた。彼らの完璧な純色にも、微かな、本当に微かな揺らぎが見えるようだった。
奏の処遇は保留となった。社会がすぐに変わるわけではないだろう。だが、投じられた一石は、静謐すぎた水面に、確かに波紋を広げた。
調色師の職を解かれるであろう奏は、保護施設からヒカリを連れ出した。二人でセクター7の丘に立ち、沈みゆく夕日を眺める。空は、燃えるような赤から、優しい橙、そして深い藍色へと、無限のグラデーションを描いていた。それは、どんな純色よりも美しく、複雑で、そして温かかった。
「きれい……」ヒカリが呟いた。
「ああ、きれいだ」奏も応えた。
彼のオーラは、もう完璧なロイヤルブルーではなかった。様々な色が混じり合った、名もなき色。だが彼は、その不完全な自分の色を、初めて誇らしく思った。偽りの楽園の終わり。それは、本当の世界で、本当の心で生きる、始まりの合図だった。夕焼けの光が、二人の虹彩に静かなレゾナンスを響かせていた。