第一章 残光のスペクトル
俺の目には、世界が光のスペクトルとして映る。人々は皆、その身から微かな光を放っている。社会がその人物の労働をどれだけ『価値あるもの』と見なしているかを示す、残酷なまでの可視化。それが『労働価値』の光だ。黄金に輝く者は賞賛され、鈍い鉛色の光を放つ者は見えない壁の向こうに追いやられる。そして俺だけが、その光の持つ微妙な色合いと、その奥に潜む本質を読み取ることができた。
雑踏を歩けば、光の洪水が押し寄せる。金融地区で働く男たちのギラギラとした黄色の光、建設現場で汗を流す者たちの力強い銅色の光、そして情報端末を叩き続けるオペレーターたちの無機質な白色光。彼らは皆、自らの『存在ポイント』を稼ぐために光を燃やしている。この世界では、労働によってのみ存在は許される。ポイントが尽きれば、その身体は次第に透き通り、誰の記憶にも残らず、ただ消滅する。
俺はコートのポケットに手を入れた。指先に触れる、ひやりとしたガラスの感触。『希薄の砂時計』だ。親友だったカイが、その存在の最後に残した唯一の形見。
彼の光は、誰よりも鮮やかで、純粋な蒼穹の色をしていた。古い機械を愛し、壊れたガラクタに新たな命を吹き込む彼の仕事は、社会的な評価は低く、得られるポイントも僅かだった。それでも、彼の指から生み出される光は、どんな黄金よりも美しかった。
だが、彼は消えた。誰よりも早く。その矛盾が、俺の胸に冷たい棘のように突き刺さったままだ。
その日、俺は街の広場でそれを見た。豪奢な椅子に腰かけ、ただ空を眺めているだけの女。その全身から溢れ出すのは、直視するのも憚られるほどの、圧倒的な黄金の光。労働の気配すらない彼女が、なぜこれほどの光を維持できるのか。その光はあまりに完璧で、揺らぎがなく、まるで生命の温かみを欠いた工芸品のようだった。俺の中で、カイの死から続く長い疑念が、確信へと変わる音がした。
第二章 黄金のパラドックス
女の名はオーレリア。特権階級だけが住む天空都市『サンクトゥス』の住人だった。俺は数日かけて彼女の行動を追い、ようやく言葉を交わす機会を得た。サンクトゥスの麓にある、一般民が立ち入ることを許された唯一の庭園。噴水の音だけが響く静かな場所だった。
「何の用だ、下層の者」
彼女の声は、その光と同じように温度がなかった。
「あんたの光は偽物だ」俺は単刀直入に切り出した。「労働から生まれる光には、必ず揺らぎがある。疲労、喜び、迷い……そういうものが色合いに滲み出る。だが、あんたの光にはそれがない」
オーレリアの眉がわずかに動いた。俺の言葉の意味を測りかねているようだった。
「何を言っている。私は生まれた時からこうだ。これが私という存在の証明だ」
「存在は労働で得るものだろう。あんたは一日中、何もしないで座っているだけじゃないか」
「……したくなければ、する必要はない。私のポイントは、減らないから」
その無邪気なまでの断言に、俺は奥歯を噛み締めた。彼女は知らないのだ。自分が立つその場所が、どれだけ多くの消え去った者たちの犠牲の上に成り立っているのか。彼女の揺るぎない黄金は、誰かの揺らぎ、誰かの絶望を吸い上げて輝いているに違いなかった。
第三章 希薄の砂時計
俺はポケットから、カイの砂時計を取り出した。手のひらに乗せると、オーレリアが訝しげな目を向ける。
「これは、ある友人の名残だ。彼は『劣性遺伝子(レッサー)』で、生まれつき存在ポイントを得る効率が悪かった。それでも、誰よりも誠実に働いていた」
俺が砂時計に意識を集中させると、内部の砂が淡い蒼い光を放ち始めた。ガラスの表面に、過去の情景が陽炎のように投影される。油に汚れた手で、錆びついたオルゴールのゼンマイを慎重に修理するカイの姿。彼の額には汗が光り、その瞳は真剣そのものだった。やがて、澄んだ音色が響き渡ると、彼の口元に満足げな笑みが浮かぶ。その瞬間、彼の全身から放たれる蒼い光は、夜空で最も明るい星のように輝いた。
映像は次々と切り替わる。迷子の子供の手を引き、母親を探して街を歩く姿。雨漏りする隣家の屋根を、自分のポイントを削ってまで修理する姿。そのどれもが、社会的にはほとんど『価値』のない労働だった。しかし、そこに宿る光は、オーレリアの黄金よりも遥かに、遥かに尊く見えた。
やがて、映像の中のカイの身体が、少しずつ透き通っていく。それでも彼は笑っていた。最後の瞬間まで、彼は誰かのために働き続けた。そして、光の粒子となって霧散した。
オーレリアは息を呑んだまま、動かずにいた。彼女の完璧な黄金の光が、初めて微かに揺らいだのを俺は見逃さなかった。その瞳に浮かんだのは、恐怖と、そして初めて知る痛みだった。
「……これが、消えるということなの?」
「ああ。そして、あんたの光は、彼のような人間たちの『残滓』で出来ている」
彼女は震える手で、自らの腕に触れた。まるでそれが自分のものではないかのように。やがて顔を上げた彼女の瞳には、確かな決意の色が宿っていた。「……サンクトゥスの中心へ案内するわ。真実を、私も知らなければならない」
第四章 調律官の真実
サンクトゥスの中心、『存在の泉』は、静謐と冒涜が同居する場所だった。巨大なドーム状の施設の中心には、眩い黄金の液体が満たされた泉があった。その液体は、絶えず壁面のパイプから流れ込んでいる。パイプの先は、下層の世界。存在ポイントが枯渇した者たちが希薄化する、その最期の瞬間のエネルギー、『存在の残滓』を回収するシステムに繋がっていた。
「見事だろう。無価値な存在を再利用し、世界の秩序を維持する、完璧な循環システムだ」
背後から、冷たい声が響いた。そこに立っていたのは、純白の衣服をまとった男。システムの管理者、『調律官』だった。
オーレリアは恐怖に顔をこわばらせた。
「私たちは……私たちは、死者の上で生きていたというのですか!?」
「死者ではない。希薄化した者たちだ。彼らは遺伝的に、この世界を維持するには非効率だった。我々はこの不平等を是正し、全体の幸福を最大化しているに過ぎん」
調律官は俺を見た。その目は、俺の能力のことも見抜いているようだった。
「君の友人、カイと言ったか。彼の残滓は実に素晴らしかった。彼の労働価値は純粋で、最高純度のエネルギーとして、今もこの泉の核となっている。彼は死してなお、この世界に貢献しているのだ。誇るべきだろう」
その言葉が、俺の中の最後の何かを焼き切った。
貢献? 誇るべき?
カイのあの優しい笑顔も、汚れた手も、その全てが、この醜い黄金の燃料にされたというのか。
怒りが思考を塗り潰す。俺はカイの砂時計を強く握りしめると、力の限り『存在の泉』の中心にある制御装置へと投げつけた。
「やめろ!」
調律官の叫びも虚しく、ガラスが砕け散る甲高い音が響いた。カイの純粋な蒼い光が、凝縮された黄金のエネルギーと接触する。次の瞬間、世界が白い光に包まれた。
第五章 解放と代償
轟音と共に、システムは崩壊した。泉から溢れ出した黄金の奔流は、その輝きを失いながら霧散し、サンクトゥスを覆っていた人工的な光が、まるで夜明けの霧のように消えていく。
オーレリアの全身を包んでいた圧倒的な黄金の光が、砂のように剥がれ落ちた。その下に現れたのは、彼女本来の光。それは月明かりのようにか細く、儚い、淡い銀色の光だった。彼女は自らの手を見つめ、初めて己の存在の輪郭に触れたかのように、静かに涙を流した。
変化は、世界中で同時に起こっていた。特権階級の黄金は消え、レッサーたちの鉛色も消えた。誰もが等しく、同じ強さ、同じ色合いの、穏やかな光を放ち始めた。不平等は消え去った。
だが、それは新たな絶望の始まりでもあった。システムの庇護がなくなった世界では、人々は生まれ持った『本質的な存在量』に応じて、存在ポイントを等しく分かち合うことになった。そして、誰もが等しく、ゆっくりと、確実に、その存在を希薄化させ始めたのだ。
究極の平等がもたらしたものは、緩やかに共有される、死への行進だった。
第六章 分かち合う光
数ヶ月が過ぎた。世界から、かつての喧騒と輝きは失われていた。誰もが自らの終わりを意識し、街は静寂に包まれていた。だが、その静けさは、絶望だけの色ではなかった。
人々は変わった。かつては隣人の光の強さを妬み、自分の光を少しでも強く見せようと見栄を張り、心をすり減らしていた。だが今は、誰もが同じように儚い光しか持たない。だからこそ、人々は互いの光を慈しむようになった。
食料を分け合う家族。老人の手を引く若者。壊れたおもちゃを、見返りを求めずに修理する男。自分の存在ポイントを他人に譲ることはできない。だが、限られた時間を、少しでも温かく、共に生きようとする意志が、そこにはあった。社会的な『価値』ではなく、ただそこに『在る』という事実そのものが、何よりも尊いのだと、誰もが気づき始めていた。
俺は、かつてカイが住んでいた下層の地区を歩いていた。そこで、子供たちに囲まれているオーレリアを見つけた。彼女は、古い絵本を読み聞かせている。彼女の銀色の光は以前よりずっと弱々しくなっていたが、その表情は、サンクトゥスにいた頃には決して見せなかった、穏やかな喜びに満ちていた。彼女は今、自らの労働で、消えゆく時間を確かに生きていた。
第七章 始まりの終わり
カイが好きだった丘の上に来た。ポケットの中の砂時計は、もう光らない。砕けたガラスの破片が、カラカラと虚しい音を立てるだけだ。
システムを破壊した俺を、英雄と呼ぶ者もいれば、世界を滅ぼした悪魔と罵る者もいる。どちらも正しいのかもしれないし、どちらも間違っているのかもしれない。ただ一つ言えるのは、もう誰も、誰かの犠牲の上で生き永らえることはないということだ。
夕日が地平線に沈んでいく。その光は、まるで世界中の人々の、淡く温かい存在の光が一つに集まったように、どこまでも優しく燃えていた。不平等な永遠よりも、平等な有限を。カイ、お前が望んだ世界は、こんな皮肉な形で見つかったよ。人々は、滅びに向かうこの世界で、初めて本当の意味で互いを必要とし、愛し始めたんだ。
「これで、よかったんだよな」
俺は空に向かって、誰にともなく呟いた。返事はなかった。ただ、頬を撫でる風が、友の声のように、どこか懐かしく響いた。