嘘つきノアと77.4MHzの死神

嘘つきノアと77.4MHzの死神

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第1章: 欺瞞の英雄

ノイズ混じりの「月光」が、埃っぽい地下壕の澱んだ空気を震わせている。

赤く灯る『ON AIR』のランプ。それが、この密室における唯一の太陽だった。

「おはようございます、市民の皆様。本日の第7区は、雲ひとつない快晴。気温は摂氏24度、絶好の散歩日和です」

ノアは唇を歪める。マイクに乗せる声だけは、蜂蜜のように甘く、滑らかに。

直後、頭上の大地が激震した。

コンクリートの天井から、白い粉雪のような塵が舞い落ちる。コーヒーカップの水面に波紋が走り、レコードの針が一瞬、不穏な音を立てて飛んだ。

「……おや、少し風が強いようですね。洗濯物が飛ばされないよう、ご注意を」

すべてが、出鱈目だった。

地上では今、鉄の雨が降り注いでいる。第7区の空は黒煙で塗り潰され、太陽などとうの昔に死に絶えた。

散歩に出た老婆は瓦礫の下で圧死し、宙を舞っているのは洗濯物ではなく、人間の手足だ。

それでもノアは、軍から渡された原稿を無視し、自らが紡ぐ「平和」を電波に乗せる。

パニックを防ぐための麻酔。暴動を抑え込むための鎮魂歌。

彼は知っていた。この放送を信じて防空壕から顔を出した少女が、昨夜、焼夷弾の餌食になったことを。

ノアの指先が震え、手元の原稿用紙をくしゃりと握りつぶす。

喉の奥からせり上がる嗚咽を、強引に飲み込んだ。

マイクの風防に、鼻先が触れる。

「素晴らしい一日を。……どうか、そのままで」

曲を変える。軽快なジャズが流れ出す。

ノアはヘッドフォンをずらし、コンソールに突っ伏した。

壁の向こう、厚さ三メートルの土砂越しに、遠雷のような爆撃音が響く。

自分の声が、人を殺している。

その事実だけが、冷たい汗となって背筋を伝い落ちた。

第2章: 聴く殺し屋

スコープ越しの世界は、円形に切り取られた地獄だった。

崩れ落ちた教会の尖塔。

エリアスはそこに巣食う猛禽類のように、身じろぎもせず眼下の瓦礫を睨んでいた。

指先は、ライフルのトリガーに触れている。

冷え切った鉄の感触だけが、生の実感だった。

イヤホンから流れる声が、鼓膜を優しく撫でる。

周波数77.4MHz。

敵国の通信兵が流す、馬鹿げた嘘放送。

エリアスはその「周波数」を愛していた。

『今日のラッキーカラーは青。空の色です』

スコープが、瓦礫の山を滑る。

灰色の世界で、そこだけ色彩が飽和していた。

崩れたパン屋の跡地。ひび割れた壁の前に、その少年はいた。

ノアだ。

彼は半壊した水道管から滴る水を、煤けた空き缶に集めている。

そして、瓦礫の隙間に咲いた名もなき黄色い花へ、恭しく水を注いだ。

距離、800メートル。

風、微風。

引き金を数ミリ引けば、少年の頭蓋はザクロのように弾け、嘘は止まる。

この戦争すら、終わるかもしれない。

だが、エリアスの指は凍りついたように動かない。

殺すことへの躊躇ではない。

この声が消えた後に訪れるであろう、完全なる「静寂」への恐怖だ。

ノアが空を見上げた。

まるで、800メートル先の殺意に気づいたかのように。

エリアスは息を呑む。

レンズ越しに視線が絡み合う錯覚。

少年の喉仏が動くのが見えた。美しいと、認識してしまった。

エリアスはゆっくりと指をトリガーから外し、ライフルを抱きかかえるようにして座り込んだ。

心臓の音が、ラジオのノイズと重なって、不協和音を奏でていた。

第3章: 聖者の失墜

扉が破られる音は、爆撃よりも恐ろしかった。

地下壕になだれ込んできたのは、敵兵ではない。

煤と血にまみれ、眼球を怒りで血走らせた「市民」たちだった。

「嘘つき!」

「お前のせいで、娘は!」

「ここから出せ! 青空なんてどこにもないじゃないか!」

罵倒は瞬く間に暴力へと変わる。

放送機材が床に叩きつけられ、真空管が砕け散る。

マイクスタンドで殴打されたノアの額から、鮮血が噴き出した。

肋骨が軋む音。誰かの革靴が、ノアの細い指を踏み砕く。

痛みよりも先に、安堵があった。

ああ、ようやく裁かれる。

地獄へ落ちる許可が下りたのだ。

群衆がさらに凶器を振り上げた瞬間、乾いた銃声が狭い室内に反響した。

天井の照明が弾け飛び、火花が散る。

悲鳴を上げて逃げ惑う市民たち。

硝煙の向こうに立っていたのは、敵軍の軍服を着た男――エリアスだった。

男は無言でノアを担ぎ上げ、裏口の通路へと走る。

安全な廃墟の一角にノアを降ろすと、エリアスは水筒の水を差し出した。

ノアは腫れ上がった唇で水を啜り、折れた指を庇いながら問う。

「……どうして、敵の僕を」

エリアスは無表情のまま、包帯を取り出し、ノアの手当を始める。

その手つきは、恐ろしいほどに手慣れていた。

「君の声が、必要だった」

それだけの理由で。

ノアは自嘲気味に笑い、懐から一枚の写真を取り出した。

軍服を着た、屈託のない笑顔の青年。

「僕には……兄さんがいたんだ。最前線にいる。僕の放送を聞いて、勇気をもらっていると言っていた。兄さんのためにも、僕は嘘をつき続けなきゃならなかった」

エリアスの手が止まる。

包帯を巻く指先が、わずかに強張った。

長い沈黙。

廃墟の隙間風が、ヒュオと鳴く。

「その男なら、知っている」

エリアスの声は、氷点下の冷たさだった。

彼はポケットから、血で錆びついた認識票(ドッグタグ)を取り出し、ノアの膝に落とす。

金属音が、鼓膜に突き刺さる。

そこに刻まれた名前は、まぎれもなく兄のものだった。

「最期の瞬間、彼は震えていた。『弟の声が聞きたい』と譫言を言っていたよ」

エリアスはノアの目を見つめたまま、淡々と告げた。

その瞳には、慈悲も悪意もなく、ただ残酷な事実だけがあった。

「眉間を撃ち抜いて、黙らせてやったのは俺だ」

ノアの口から、言葉にならない音が漏れる。

世界が、音を立てて崩れ落ちていく。

救い主は、仇だった。

肺の中の空気がすべて毒ガスに変わったかのように、呼吸ができない。

ノアは認識票を握りしめ、声なき絶叫を上げた。

第4章: 瓦礫の二重奏

壊れた送信機からは、焦げた絶縁体の臭いが漂っている。

ノアは震える指で、回路をハンダ付けしていた。

痛み止めなどない。折れた指の激痛よりも、胸の穿たれた穴の方が遥かに痛かった。

部屋の隅では、エリアスが缶詰の豆を温めている。

奇妙な、あまりにも歪な共同生活。

ノアはエリアスを殺したいほど憎んでいた。

だが、エリアスが持ってきた一枚のレコード――ドビュッシーの『月の光』――が回るたび、その殺意は鈍く濁った。

「……接続、完了」

ノアが呟くと、スピーカーから「ザザッ」というノイズが吐き出された。

エリアスがスプーンを止め、こちらを見る。

「何を放送する気だ。もう、聴く人間などいない」

「いいえ。いるはずです」

ノアはマイクのスイッチに手をかけた。

スイッチはまだOFFのままだ。

「君が聴いている」

エリアスは目を細め、立ち上がった。

そして、ノアの隣に座り込む。

敵同士の体温が、触れ合う距離。

エリアスの指には、銃だこができている。ノアの指は、インクで汚れている。

「俺は、君の嘘を許さない」

エリアスが言った。

「だが、あの冷たい瓦礫の中で、君の声だけが熱を持っていた。それもまた事実だ」

ノアは涙を流しながら、それでも笑おうとした。

兄を殺した男。自分を生かした男。

その矛盾を受け入れたとき、ノアの中で「嘘」は「祈り」へと昇華された。

「最後に一度だけ。誰のためでもない、僕たちのための放送をしましょう」

外では、遠くから履帯の軋む音が近づいてくる。

終わりの時間が、秒読みを開始していた。

第5章: 沈黙よりも美しいノイズ

バリケード代わりの家具が吹き飛び、爆風が部屋を洗った。

敵軍の総攻撃が始まったのだ。

エリアスはライフルを構え、窓辺に立つ。

かつての友軍を撃つのに、躊躇はない。

彼はただ、背後のノアを守るための「壁」になった。

発砲音。ボルトを引く金属音。薬莢が床に落ちて奏でる、乾いたリズム。

「ノア、始めろ!」

エリアスの怒号とともに、ノアは『ON AIR』のスイッチを入れた。

77.4MHz。

最後の放送が始まる。

「……こちらは、第7区放送局。これが最後の放送です」

ノアの声は、かつてないほど澄んでいた。

天気予報も、勝戦のニュースもない。

「救援は来ません。私たちはここで死にます」

真実の言葉は、なんて重く、そして軽いのだろう。

ノアはコンソールに手を伸ばし、レコードプレイヤーの針を落とす。

ピアノの旋律が、銃声の狭間を縫って流れ出した。

「でも、世界はまだ美しい。瓦礫の隙間に花が咲くように。敵同士が、こうして背中を預け合えるように」

銃弾が窓枠を削り、エリアスの肩を貫いた。

血飛沫が舞う。

それでもエリアスは倒れない。

彼は振り返り、血に染まった歯を見せてニヤリと笑った。

「いい曲だ」

ドォン、という衝撃とともに、壁が崩れ落ちた。

兵士たちの怒号が、すぐそこまで迫っている。

曲がクライマックスを迎える。

高らかに鳴り響くピアノの連打。

エリアスが崩れ落ちた。

その体には、無数の穴が開いていた。

ノアはマイクを抱きしめたまま、倒れたエリアスに手を伸ばす。

その手は、もう温かい。

「愛していました。……さようなら」

ノアの指先が、エリアスの頬に触れる。

その瞬間、部屋に閃光が満ちた。

放送が途絶えた後。

突入した兵士たちが見たのは、瓦礫の中で寄り添うように息絶えた二人の遺体と、針が飛んでもなお回り続けるレコードだけだった。

『月の光』の最後の余韻が、プツリ、プツリというノイズに変わる。

その放送を聞いていた数千の兵士たちは、敵も味方も関係なく、数分間だけ銃を下ろしたという。

瓦礫の空の下、世界は奇跡のような静寂に包まれていた。

それは恐らく、彼らがついた最初で最後の、永遠に解けない美しい嘘だった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • ノア (Noah): 「欺瞞の聖者」。美しい声で地獄を天国と偽る放送兵。その嘘は、絶望に抗うための唯一の武器であり、自身を蝕む毒でもある。
  • エリアス (Elias): 「聴く殺し屋」。真実(死)をもたらす狙撃手。ノアの嘘を憎みながらも、その声に含まれる「生への執着」に救済を見出す。

【物語の考察】

  • 嘘と真実の反転: 前半、ノアの「嘘」は悪として描かれるが、最終的にその嘘(放送)だけが、敵味方の区別をなくし、戦場に静寂をもたらす「真実」へと昇華する。
  • 77.4MHzの象徴: 決して交わるはずのない二人が接触できる唯一の領域(サンクチュアリ)。
  • レコードのノイズ: 物語の最後、音楽がノイズに変わる瞬間は、二人の命が尽きたことの暗喩であると同時に、彼らが「歴史というノイズ」の一部として永遠に残ることを示唆している。
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