第1章: 3万円の鼓動
ポケットの中で、世界一無機質な脈動が走った。
地下鉄のホーム。レンは画面上の通知を指先で弾く。銀行アプリが吐き出した「30,000」という数字。依頼完了の前払い金。
誰かの孤独を埋めるための、端金だ。
「次の現場は、斎場か」
安物の喪服は、彼自身の皮膚よりも馴染んでいる。ネクタイを締める所作に淀みはない。鏡に映る男は、慈悲深く、理知的で、そして何の中身もない能面のような顔をしていた。
今回の役柄は『喪主』。
設定は『都内の大企業に勤める、親孝行で理想的な一人息子』。
依頼主は匿名。備考欄には奇妙な一文。
『私の葬儀で、一番前の席に座っていてください』
指定された斎場は、都心から電車で二時間。寂れた地方都市特有の、カビと線香の匂いが染み付いたホール。
受付の老婆が、レンを見るなり目を見開く。
「ああ、やっと……やっと来てくれたのね」
枯れ木のような手が、レンの袖を掴む。ねっとりと伝わる体温に、反射的に身を引こうとする神経を、プロとしての条件反射が縫い留める。
「遅くなって申し訳ありません」
計算された角度の会釈。沈痛さと知性を滲ませたバリトン。
そのままホールへ足を踏み入れた。
祭壇の中央。
白菊の海に溺れるようにして飾られた遺影。
レンの足が凍りつく。
呼吸が止まる。
心臓が肋骨を内側から殴りつけた。
そこにいたのは、十年前、彼が「クソババア」と吐き捨てて背を向けた、実の母親だった。
逃げろ。
脳内の警報が鳴り響く。
踵を返そうとした瞬間、背後で重い扉が閉じた。ドン、という鈍い音が、退路を断つ号砲のように響く。
「湊(みなと)くん、おかえり」
「立派になって……トミさん、ずっと待ってたんだよ」
親族たちの声。罵声でも石礫でもない。どろりと温かい、蜂蜜のような歓迎。
視界が歪む。遺影の母は、あの日と同じ、眉間に深い縦皺を刻んだまま不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
だが、その瞳だけが静かに、逃げ惑う息子を射抜いていた。
指先を太腿に突き立て、痛覚で正気を繋ぎ止める。
これは仕事だ。
ただの、三万円の劇だ。
肺の中の空気をすべて入れ替え、ゆっくりと祭壇へ歩み寄る。
母の遺影に向かい、完璧な所作で手を合わせた。
第2章: 虚構の聖母
通夜振る舞いの席には、湿った熱気が充満していた。
瓶が触れ合う音、咀嚼音、故人を偲ぶという名目の宴。
レンは上座で、機械的にグラスを傾ける。喉を焼くアルコールだけが、ここにある唯一の現実だ。
「湊くんの仕送りで、トミさん、新しい着物を買ったって自慢してたよ」
「毎晩電話をくれる優しい息子だって」
赤ら顔の親族が肩を叩く。レンの頬が微かに引きつる。
仕送りなど一度もしていない。着信拒否すら解除していない。
母が近所に吹聴していたのは、レンの知る現実とは真逆の『虚構』だった。
厳格で、ヒステリックで、口を開けば呪詛を吐き続けていた女。それがここでは「息子を信じ、待ち続けた聖母」に書き換えられている。
膝の上で拳を握りしめる。
母もまた、嘘つきだったのか。それとも、ボケて妄想に逃げ込んだのか。
「さあ、喪主様。みなさんに一言」
促され、立ち上がる。天井の蛍光灯がスポットライトのように彼を射抜く。
口から、滑らかな台詞が自動的に紡ぎ出される。
「母は……厳しくも、愛のある人でした」
嘘だ。あったのは支配と否定だけだ。
「仕事が忙しく、なかなか帰郷できないことを、いつも気遣ってくれました」
嘘だ。この窒息しそうな閉鎖空間から逃げ出したかっただけだ。
「……母の息子で、幸せでした」
その一言が、胸の奥で何かを軋ませた。
ガラスにひびが入る鋭い痛み。
会場からはすすり泣きが漏れ、ハンカチで目頭を押さえる者たちの姿。
完璧だ。
誰も疑っていない。
これが、三万円で買われた『理想の息子』の仕事だ。
宴が終わり、静寂が戻った実家。
レンは線香の番をしながら、母の寝室に入った。
十年前と変わらない、古めかしい桐のタンス。
遺品整理の真似事でもしなければ、間が持たない。
引き出しを開ける。防虫剤の樟脳の匂い。
一番下だけ鍵がかかっている。仏壇の裏に隠された小さな鍵を、レンは知っていた。かつて菓子が隠されていた場所だ。
鍵穴に差し込む。
カチリ。
乾いた金属音が、深夜の部屋に響き渡った。
第3章: 命の領収書
宝石もへそもくりもない。
あったのは、一冊の茶色い封筒と、通帳が一冊。
封筒の差出人名に、全身の血が逆流した。
『株式会社ファミリー・アクト』
レンが所属する代行業者。
震える手で中身をぶちまける。
『依頼内容:私の葬儀での喪主代行』
『指名キャスト:No.402(レン)』
『備考:あの子が家に帰るための、言い訳を作ってやってください』
ミミズがのたうち回るような、乱れた筆跡。
母は知っていたのだ。息子が嘘で塗り固められた人生を切り売りしていることを。
大企業のエリートなどではなく、他人の家族ごっこをする『何でも屋』に成り下がっていることを。
その上で、客として息子を雇った。
「仕事」という名目がなければ、二度とこの敷居を跨がないことを見越して。
過呼吸になりそうな息遣いで、通帳を開く。
『1月 電気代 引落』
『2月 ガス代 引落』
極限まで切り詰められた生活の痕跡。冬場だというのにガス代は数百円。暖房すらつけていない。
スーパーのレシートは、見切り品の惣菜ばかり。
そして、毎月のわずかな年金の残りは、別の口座へ移されていた。
備考欄に、鉛筆のメモ書き。
『ミナト 依頼料』
ページをめくる。過去へ。
十年前、十五年前、二十年前。
『ミナト ゲームボーイ』
『ミナト 修学旅行』
『ミナト 大学入学金』
子供の頃から欲しがっていたもの。必要だったもの。
その横に書かれた金額は、母が自分の命を削って捻出したものだった。
最後のページ。
残高は、レンへの依頼料と葬儀費用を差し引いて、きっかり「0」になっていた。
「あ……」
喉の奥から空気が漏れる。
視界が暗転し、その場に崩れ落ちた。
これは愛ではない。もっと壮絶で、おぞましい執念だ。
寿命を、食費を、暖かさを、すべて現金に換え、最後に息子を一度だけ「買う」ために費やした。
手の中の三万円が、鉛のように重く、焼け付くように熱い。
それは母の骨であり、肉であり、血だった。
畳に額をこすりつけ、指で畳を搔きむしる。
爪が剥がれ、血が滲む。
「ふざけるな……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
第4章: 塩辛い後悔
吐き気が止まらない。
台所のシンクにしがみつき、胃液を吐き戻す。
罪悪感が物理的な質量を持って、内臓を雑巾のように絞り上げていた。
逃げなければ。
今すぐ東京へ戻り、別の誰かになりすまさなければ、自分が粉々に砕けてしまう。
裏口から出ようとサンダルを突っ掛けた時、勝手口のガラス戸が叩かれた。
「湊くん、いるかい?」
隣家の老婆。手にはラップのかかった鍋。
「お母さんね、あんたが帰ってきたら食べさせてくれって。救急車で運ばれる前に、これだけ作って……」
受け取った手が震える。冷え切った鍋底から、微かな出汁の香り。
具は不格好な大根と、少し焦げた油揚げ。
十年前、家を出る朝。「味が濃すぎる」と文句を言って、シンクに流し捨てた味噌汁と同じだった。
鍋を抱えたまま、床に座り込む。
温め直す気力もない。お玉ですくい、冷たい汁を口に運ぶ。
舌先に触れた瞬間、強烈な塩気が広がった。
しょっぱい。
とてつもなく、しょっぱい。
「……まずいよ、母さん」
堰が切れた。
目から、堰き止められていた十年間が溢れ出す。
ポタポタと、味噌汁の中に涙が落ちる。塩辛い汁が、さらに塩辛くなっていく。
演じる必要などなかった。
脚本も、演出も、嘘も、ここにはない。
ただ、冷たい味噌汁と、どうしようもない後悔だけがあった。
獣のように咽び泣きながら、味噌汁を喉に流し込む。
大根は硬く、喉につかえる。
それでも彼は、母の命そのもののようなそれを、一滴残らず胃袋に詰め込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
誰もいない台所で、壊れたレコードのように謝罪だけが繰り返された。
第5章: 白紙のカーテンコール
翌朝。雨上がりの空は、痛々しいほどに青かった。
縁側に座り、スマートフォンのSIMカードを抜く。
小さなチップを指先で挟み、力を込める。
パキリ、という乾いた音。それは二つに割れた。
これで、代行業者とも、今までの自分とも連絡はつかない。
『レン』という役者は死んだ。
背後でふすまが開く。親族たちが骨上げのために集まってきたのだ。
立ち上がり、彼らに向き直る。
顔は酷くむくみ、目は充血していた。もはや「エリート息子」の面影はどこにもない。
「皆さん、聞いてください」
声は嗄れていた。
「僕は、大企業に勤めてなんかいません。東京で、その日暮らしの便利屋をしています。母を安心させるような立派な息子じゃありませんでした。ただの、見栄っ張りで、親不孝な嘘つきです」
沈黙が落ちた。
畳の目を数えるような、長い静寂。
やがて、一番年長の伯父が、ふうっと煙草の煙を吐き出した。
「知ってたよ」
レンが顔を上げる。
「トミさんから聞いてた。『あの子は不器用だから、きっと苦労してる。でも、あの子が元気ならそれでいいんだ』ってな」
伯母も、小さく笑った。
「あんたが送ってきたっていうブランド物のバッグ、あれ、トミさんが自分で通販で買ったやつだろ? タグがついたままだったよ。でもね、あんなに嬉しそうに自慢されたら、誰も何も言えないじゃないか」
全員が、知っていた。
母の優しい嘘に、全員が共犯者として付き合っていたのだ。
この下手くそな芝居の観客は、最初からレン一人だった。
目頭が熱くなる。だが、もう涙は流さなかった。
祭壇の前。
母の遺影は、朝日を浴びて、昨日よりも少しだけ柔らかい表情に見えた。
レンは遺影の前に座り、深く頭を下げた。
「さようなら」
喉まで出かかった別れの言葉を飲み込む。
それは違う。終わりにするための言葉ではない。
顔を上げ、遺影の母と目を合わせる。
不器用に、口角を持ち上げる。
十年ぶりの、仮面ではない、湊としての素顔で。
「……ただいま、母さん」
風が吹き抜け、庭の木々を揺らす。
ざあっと鳴る葉音が、まるで拍手のように降り注ぎ、見えない幕を下ろしていく。
レンは立ち上がった。手にはもう台本はない。
ここから始まるのは、誰も結末を知らない、彼自身の人生だ。