灰色の世界の彩織師(さいしょくし)

灰色の世界の彩織師(さいしょくし)

0 5120 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 褪せた赤と無色の少女

世界は、ゆっくりと色を失いつつあった。かつて空は紺碧に、森は深緑に燃えていたと古書にはあるが、俺の知る空は薄汚れた鼠色で、森は濃淡の違う灰色の影でしかなかった。俺、リノの仕事は「彩織師」。人々が忘れてしまった、あるいは失ってしまった僅かな色彩を、布に織り込むことだ。

俺の工房には、先祖が遺した貴重な「色の欠片」が保管されている。煤けたガラス瓶に詰められた、砂粒のような顔料。今日は、その中でも特に貴重な『夕暮れの赤』を数粒だけ乳鉢で擦り、水で薄めて糸を染め上げる。出来上がるのは、本物の夕暮れには到底及ばない、ただの「褪せた赤」。それでも、人々はこの僅かな色を求めて、なけなしの銀貨を握りしめてやってくる。色とは、この世界では希望そのものであり、最も高価な贅沢品なのだ。

染め上げたばかりの赤い糸を機にかけ、トントンと小気味よい音を立てて布を織り進める。集中していた意識が、工房の扉が軋む音でふと途切れた。見ると、そこに一人の少女が立っていた。年の頃は十歳ほどだろうか。着ている貫頭衣は、何度も洗いすぎて繊維が痩せ、もはや何色だったのかも判別できない。だが、何より異様だったのは、彼女の髪と瞳だった。色素という色素が完全に抜け落ち、雪のように真っ白な髪と、光を吸い込むような、底なしの無色透明な瞳をしていた。

「……何か用か。見ての通り、うちは貧乏人が冷やかしで来るような店じゃない」

俺はぶっきらぼうに言った。少女は怯えたように少し身をすくめたが、逃げ出そうとはしない。ただ、じっと俺の織っている布を見つめていた。その視線に、飢えのような、渇望のようなものが宿っているのを感じる。

「……きれい」

か細い声が、工房の静寂に溶けた。その言葉に、俺の心の何かが少しだけ和らぐ。だが、次の瞬間、俺は息を呑んだ。少女が、おずおずと差し出した指先で、織りかけの布にそっと触れたのだ。

その瞬間、信じられないことが起きた。

俺が丹精込めて染め上げた『褪せた赤』が、少女の指が触れた一点から、まるでインクが水に滲むように、急速に色を失っていく。赤は薄まり、ピンクになり、やがて完全な灰色へと変わってしまった。ほんの数秒の出来事だった。俺の貴重な仕事が、一瞬にしてただの色のない布切れに成り果てた。

「な……にをした!」

俺の怒声に、少女はびくりと肩を震わせ、自分の指先と灰色になった布を交互に見て、青ざめた。いや、彼女の顔に色はないから、ただ表情が強張っただけだ。

「ごめ、なさい……わたし……」

少女は後ずさり、そのまま工房から逃げるように駆け出していった。呆然と立ち尽くす俺の手元には、心臓のように一部分だけが完全に色を失った、不気味な模様の布だけが残されていた。あれは一体、何だったんだ? 触れるだけで色を奪う? そんな存在が、この枯渇した世界にいるというのか。俺の日常を覆す、静かで、しかし決定的な出来事だった。

第二章 色を喰らう者

あの忌まわしい出来事から三日経った。俺は工房に引きこもり、灰色になった布を睨みつけていた。怒りと、それ以上に大きな謎が胸の中で渦巻いていた。そんな時、扉の外で微かな物音がした。警戒しながら扉を開けると、そこにあの白い少女がうずくまっていた。よほど空腹なのか、力なくぐったりとしている。

俺は舌打ちし、扉を閉めようとした。だが、閉まりかけた扉の隙間から見えた、彼女の無色の瞳に宿る深い孤独に、なぜか足が止まった。結局、俺はため息一つついて、固くなったパンと水の入った椀を彼女の前に置いてやった。少女は、俺が差し出したパンを、まるで生まれて初めてご馳走にありついたかのように、夢中で頬張った。

彼女は自分の名前を「シロ」とだけ言った。それ以外の記憶はないらしい。話を聞けば、彼女は行く先々で気味悪がられ、追い払われてきたという。彼女が触れるもの、彼女が長く留まる場所は、僅かに残っていた色彩さえもが薄れてしまうからだ。彼女は、生きるために無意識に周囲の色を「喰らって」いたのだ。

シロが工房に居座るようになってから、俺の悩みは尽きなかった。彼女が壁に寄りかかれば壁の染みが薄くなり、俺の服の袖に触れればそこだけが白く色褪せた。工房に保管していた貴重な「色の欠片」も、日に日に輝きを失っていく気がしてならなかった。このままでは、俺の商売も立ち行かなくなる。

だが、追い出すことはできなかった。色のない世界で、さらに色を奪う存在として生まれた少女。その孤独は、俺には痛いほど想像できたからだ。俺もまた、失われた色を追い求める孤独な彩織師なのだ。

ある夜、俺は古い羊皮紙の地図を広げていた。それは、世界のどこかにあるという「原色の泉」の場所を示した地図だった。泉からは赤、青、黄の三原色が無限に湧き出し、世界に色彩を与えていたという、もはやお伽話に近い伝説だ。

「これを、探してるの?」

背後からシロが覗き込んできた。俺は慌てて地図を隠そうとしたが、ふと、ある考えが頭をよぎった。もし、この伝説が真実なら? もし、その泉にシロを連れて行けば、彼女の呪いのような体質を治せるのではないか? そして、世界に色を取り戻せるのではないか?

「シロ。旅に出るぞ」

「……どこへ?」

「色を探しにだ。お前と、この世界のための色をな」

俺の言葉に、シロの無色の瞳が、ほんの僅かに潤んだように見えた。それはきっと、気のせいだっただろう。だが俺は、その瞬間、この無謀な旅に出ることを固く決意していた。

第三章 原色の繭と世界の真実

俺とシロの旅は過酷を極めた。錆色の川を渡り、灰色の森を抜け、色彩の抜け殻のような街をいくつも通り過ぎた。人々は希望を失い、その瞳は街の風景と同じくらいにくすんでいた。シロがいるだけで、俺たちの周囲はさらに色褪せていく。それでも俺たちは、互いを支え、励まし合いながら、地図に示された最果ての地を目指した。

旅を通じて、俺はシロの知らなかった一面を知った。彼女は、色のない世界しか知らないはずなのに、俺が話す古書の物語に出てくる「空の青」や「夕焼けの赤」を、まるで見てきたかのようにうなずき、瞳を輝かせた。彼女の心の中には、豊かな色彩の世界が広がっているかのようだった。俺は、この少女を救いたいと、心の底から願うようになっていた。

そして数ヶ月後、俺たちはついに目的地である「霧深き谷」の最奥にたどり着いた。伝説によれば、この谷のどこかに「原色の泉」があるはずだった。しかし、そこに泉はなかった。谷の中心に鎮座していたのは、巨大な、乳白色に輝く巨大な「繭」だった。表面は滑らかな陶器のようで、内部から淡い光が脈打つように漏れている。

「……泉じゃ、ない……」

俺が愕然と呟いたその時、隣にいたシロが突然苦しみ始めた。

「うっ……あぁっ……!」

胸を押さえてうずくまるシロ。彼女の体から、これまで見たこともないほど濃密な光の粒子――いや、「色の粒子」が溢れ出し、渦を巻いて目の前の繭に吸い込まれていく。シロの体がみるみるうちに希薄になり、半透明になっていく。

「シロ! しっかりしろ!」

俺が彼女の肩を掴もうとした瞬間、脳内に直接、誰かの声が響き渡った。それは荘厳で、古く、そして慈愛に満ちた声だった。

『よくぞ、ここまで彼女を連れてきてくれた。彩織師の末裔よ』

声は、あの繭から発せられているようだった。混乱する俺に、声は世界の真実を語り始めた。

「原色の泉」などというものは、初めから存在しない。あれは、この繭を守るための偽りの伝説。そして、シロこそが、世界から失われたすべての色をその身に宿す「器」なのだと。

この世界は、定められた寿命を終えようとしていた。世界が色を失っていたのは、魔法や生命活動で消費していたからではない。古い世界の色が、次の世界を創造するための「種子」であるシロの元へと、還流していたからに他ならなかった。シロが色を奪っていたのではない。世界が、シロに色を返していたのだ。

この繭は、次の世界が生まれるための揺り籠。シロがこの繭に還ることで、古い世界は完全に終わりを迎え、そして、彼女が宿したすべての色を糧にして、全く新しい、色彩に満ちた世界が誕生するのだという。

俺は、凍りついた。

俺がやっていたことは何だったんだ? シロを救う? 世界を救う? 笑わせる。俺は、この世界の終焉を告げる存在を、その終着点までご丁寧に案内してきただけの間抜けな道化だったのだ。俺が守りたかった少女は、この灰色の世界にとっての、優しき破壊者であり、まだ見ぬ新世界の創造主だった。俺の信じてきた正義も、目的も、希望も、ガラガラと音を立てて足元から崩れ落ちていった。

第四章 心に織る色

「……リノ」

か細い声に、俺は我に返った。半透明になりかけたシロが、俺を見上げて微笑んでいた。その顔は苦痛に歪んでいたが、瞳は不思議なほど穏やかだった。

「ごめんね。ずっと、だましてたみたい」

「……お前は、知っていたのか」

「ううん。今、わかったの。ここが、わたしの還る場所だって。そして、わたしが何なのかも」

俺は選択を迫られていた。このままシロが繭に還るのを見届けるのか。それは、この世界の完全な終焉を意味する。俺が生きてきた、たとえ色褪せていても愛着のあるこの世界が、完全に消滅する。だが、それを止めれば、シロは色の器としての役目を果たせず、苦しみ続けることになる。新しい世界も生まれない。

俺はずっと、失われた色を取り戻すことばかり考えてきた。だが、シロとの旅で、もっと大切なものを見つけたはずだ。色のない灰色の森で交わした言葉の温かさ。色のない街で分け合ったパンの味。何より、シロという存在そのものが、俺にとって何よりも鮮やかな「色」になっていた。

世界の再生という大義か、目の前の少女の命か。いや、違う。これは、シロ自身の物語なのだ。俺が決めていいことじゃない。

「シロ。お前は、どうしたい?」

俺は、震える声で尋ねた。俺の問いに、シロは少し驚いたように目を見開き、それから、ふわりと笑った。それは、俺が今まで見たどんな色よりも美しい笑顔だった。

「わたし、還る。リノが教えてくれたから」

「……俺が?」

「うん。『心』っていうものを教えてくれた。嬉しい、悲しい、温かい……そういう、目に見えないたくさんの色を。だから、次の世界には、ただの赤や青だけじゃない、リノがくれたこの『心の色』も一緒に織り込んであげたいの」

シロの瞳から、一粒、きらりと光る雫がこぼれ落ちた。それは、この世界で初めて見る、本物の「涙」だった。雫が地面に落ちると、そこから小さな青い花が、奇跡のように一輪咲いた。

シロはゆっくりと立ち上がり、繭に向かって歩き出す。そして、繭に触れる寸前、俺を振り返った。

「ありがとう、リノ。わたしの、たったひとりの彩織師さん」

その言葉を最後に、シロの体は眩い光の奔流となって繭に吸い込まれた。繭は一際強く輝いた後、静寂を取り戻した。同時に、俺たちの世界から、最後の光が消えた。空も、森も、川も、そして俺の目の前に咲いた青い花さえも、すべての色が失われ、世界は完全な白と黒の濃淡だけで構成された、一枚の絵画となった。

絶望的な静寂。しかし、不思議と俺の心は空っぽではなかった。シロと過ごした日々の記憶が、失われたすべての色よりも鮮やかに、胸の中で燃えていた。

俺は故郷の工房に戻った。そこもまた、モノクロームの世界の一部と化していた。俺は機に向かい、白い糸と黒い糸を手に取った。もう、布に色を織り込むことはできない。

それでも、俺は織り始めた。トントン、と。白と黒の糸だけで、布を織る。

それは、シロという少女がいた証。彼女が俺に教えてくれた「心の色」の物語。そして、いつか生まれるであろう新しい世界への、祈りを込めた手紙。

俺の織る布に、色はない。だが、それを見る者がいれば、その心の中にだけ、かつてこの世界にあったはずの鮮やかな色彩と、これから生まれるであろう無限の色彩の夢を、見ることができるだろう。

世界は終わったのかもしれない。あるいは、始まったばかりなのかもしれない。俺は、色のない世界で、ただ一人、心の色を織り続ける。シロの記憶という、決して褪せることのない輝きを道標にして。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る