第一章 星屑のタイムカプセル
水野蒼(みずのあおい)の世界から、色が消えて一年が経った。恋人だった桐谷朔(きりたにさく)が、夜空へ旅立ってしまったあの日から。本棚に並ぶ背表紙も、窓辺に置いた観葉植物の緑も、すべてが薄墨を一枚隔てたようにくすんで見える。図書館司書という仕事だけが、かろうじて彼女を社会に繋ぎとめていた。
朔の一周忌を終えた日の夕方、チャイムが鳴った。ドアを開けても誰もいない。足元に、見慣れない小さな段ボール箱が置かれていただけだった。差出人の名前はなく、ただ「水野 蒼様」と、見慣れた、少し癖のある丸い文字が記されている。心臓が跳ねた。それは、間違いなく朔の筆跡だった。
震える手で箱を開ける。中には、クリーム色の封筒が数十通、麻紐で束ねられていた。一番上に乗せられた一枚のカードには、こう書かれていた。
『一年後の君へ。
驚かせてごめん。これは、君に宛てたタイムカプセルだ。
一日一通、封筒に書かれた日付の通りに読んでほしい。約束だよ。
朔より』
蒼は息を呑んだ。今日の日付が書かれた封筒を、おそるおそる手に取る。封を切り、折り畳まれた便箋を広げた。インクの匂いが微かに鼻をかすめる。
『蒼へ。
今日はきっと、朝から冷たい雨が降るだろうね。
僕がいなくて、君はまた世界を灰色に塗りつぶしているんじゃないかな。
もし雨が上がったら、ベランダに出てみて。東の空に、きっと綺麗な虹がかかっているはずだから。
それを見つけたら、僕からの最初のプレゼントだと思って。』
蒼は窓の外を見た。予言通り、しとしとと冷たい雨がアスファルトを濡らしている。馬鹿みたいだ、と頭の片隅で冷静な自分が呟く。死んだ人間が、未来の天気を当てられるはずがない。偶然だ。そう思い込もうとしても、心臓の鼓動は速まるばかりだった。
夕方、雨が嘘のように上がった。茜色に染まり始めた空に、蒼は吸い寄せられるようにベランダへ出る。湿った風が頬を撫でた。そして、東の空を見上げた瞬間、彼女は息を止めた。
ビルの向こうに、七色の光のアーチが、くっきりと架かっていた。まるで、朔が空に描いた巨大な微笑みのように。忘れていたはずの涙が、堰を切ったように頬を伝った。それは悲しみの涙ではなかった。一年ぶりに感じる、温かい何かが心に灯った証だった。灰色だった世界に、ほんの少しだけ、色が戻った気がした。
第二章 インクに込めた道しるべ
その日から、朔の手紙は蒼の日常になった。毎朝、目覚めるとすぐに今日の日付の封筒を開けるのが、厳かな儀式となった。手紙の内容は、どれもささやかな「お題」のようなものだった。
『今日は、駅前の古書店に行ってみて。詩集の棚の下から三段目、右から五番目の本を手に取ってごらん。懐かしい栞が挟まっているはずだ。』
半信半疑で向かうと、そこには確かに、二人が旅行先で買った押し花の栞が挟まった古い詩集があった。
『角のカフェのチーズケーキが食べたいな。君の分と、僕の分と、二つ。僕の分は、君が美味しく食べてくれよ。』
久しぶりに訪れたカフェの店主は、「おや、お久しぶり。彼も一緒かい?」と尋ね、蒼は一瞬言葉に詰まった後、「ええ、心の中に」と、はにかんで答えることができた。一人で二つのケーキを食べるのは少し寂しかったが、朔の好きだった濃厚なチーズの味が、口の中に優しい思い出を広げた。
手紙に導かれるまま、蒼は少しずつ家の外に出るようになった。朔と歩いた並木道、初めて映画を観たミニシアター、星が綺麗に見える丘。一つ一つの場所が、朔との記憶を鮮やかに蘇らせる。それは辛い作業であると同時に、凍りついていた蒼の心をゆっくりと溶かしていくプロセスでもあった。
手紙は時々、蒼の心を正確に見透かしているかのような言葉を投げかけてきた。仕事で落ち込んだ日には、『うまくいかない日もあるさ。君は君のペースでいいんだよ』と励まされ、孤独に押しつぶされそうになった夜には、『目を閉じてみて。僕が隣にいるのがわかるだろ?』と囁きかけてくる。
蒼は、朔がまだどこかから自分を見守ってくれているのだと、本気で信じ始めた。この手紙は、彼が遺した魔法なのだと。彼の死によって止まってしまった蒼の時間は、インクで綴られた彼の言葉によって、再びカチ、カチ、と微かな音を立てて動き始めていた。世界はゆっくりと、本来の色を取り戻しつつあった。
第三章 シリウスの告白
季節が巡り、初冬の風が吹き始めた頃。その日の手紙には、いつもと違う緊張感が漂っていた。
『蒼へ。
今日まで、僕のわがままに付き合ってくれてありがとう。
今日は、君に一番伝えたかったことがあるんだ。
僕たちが初めて出会った場所を、覚えているかい?』
もちろん、覚えている。忘れるはずがない。蒼はコートを羽織り、街のプラネタリウムへと向かった。平日の昼間、ドームの中はほとんど人がいなかった。指定された席に座ると、やがて照明が落ち、満天の星が頭上に広がる。優しいナレーションが、冬の星座について語り始めた。おおいぬ座のシリウスが、ひときわ強く、青白く輝いている。
上映が終わり、場内が明るくなった時、蒼は隣の席にいつの間にか誰かが座っていることに気づいた。息を呑むほど、朔にそっくりな青年だった。ただ、朔の太陽のような明るさとは違う、どこか静かで穏やかな空気をまとっている。
「あなたが、水野蒼さんですね」
青年は静かに言った。
「初めまして。桐谷陸(りく)です。朔の、双子の弟です」
陸と名乗った青年は、全てを語り始めた。手紙は、確かに朔が書いたものだった。だが、それは事故の前に書かれたものではなかった。朔の本当の死因は、交通事故ではなく、進行性の難病だったのだ。彼は、自分の余命が長くないことを知った時、残される蒼のことだけを心配した。そして、自分の死後、蒼が一人で世界に閉じこもってしまわないように、未来の彼女を励ますための手紙を、来る日も来る日も書き溜めていたのだという。
「兄は、僕にこの手紙の束を託しました。『俺が死んだら、一年後から毎日、蒼に届けてやってくれ。あいつがまた笑えるようになるまで、そばで支えてやってほしい』って…」
陸の言葉に、蒼は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「じゃあ、雨が降ることや、虹がかかることを…?」
「僕が、毎朝天気予報を確認して、その日の天気に合った手紙を選んで、ポストに入れていました。古書店の栞も、カフェのことも…兄から聞いていた思い出の場所に、僕が事前に仕込んでおいたんです」
謎の全てが、一本の線で繋がった。それは魔法ではなかった。それは、朔の狂おしいほどの深い愛情と、その想いを引き継いだ弟の、あまりにも誠実で優しい献身が生み出した、人間による奇跡だった。
「兄は、あなたを愛していました。自分の死が、あなたの時間を止めてしまうことを、何より恐れていたんです。だから、自分の思い出を使ってでも、あなたを未来へ押し出したかったんだと思います」
蒼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、朔の死を悼む涙ではなかった。彼の計り知れない愛の深さに触れた、どうしようもないほどの感動と、感謝の涙だった。プラネタリウムの天井には、今はもう星は映っていない。それでも蒼の目には、どの星よりも強く輝く、朔の笑顔が見えていた。
第四章 あなたのいない明日へ
陸から、最後の一通だと手渡された封筒。家に帰り、蒼は震える手でそれを開いた。
『最後の蒼へ。
この手紙を読んでいるということは、君はもう陸に会って、全部知ってしまった後なんだろうな。驚かせたし、もしかしたら怒っているかもしれない。ごめん。
でも、これが僕にできる、精一杯の愛情だったんだ。
君と出会って、僕の世界は色鮮やかになった。君が笑うだけで、世界が輝いて見えた。だから、僕がいなくなった後も、君には輝いていてほしかった。僕の思い出に縛り付けるんじゃなく、それを乗り越えるための杖にしてほしかったんだ。
もう、僕からの手紙はない。
明日からは、君自身の足で、君自身の心で、未来を選んで歩いていくんだ。
たくさん笑って、時々怒って、いっぱい泣いて。新しい人に出会って、新しいものを好きになって。
僕のことは、時々でいいから、晴れた夜空を見上げた時にでも思い出してくれたら嬉しい。
君は、幸せになるために生まれてきたんだから。それを絶対に忘れないで。
愛してる。今までも、これからも。
さようなら、僕の光。
朔』
手紙を握りしめ、蒼は声を上げて泣いた。悲しみも、寂しさも、愛しさも、感謝も、全てがごちゃ混ぜになった涙だった。泣き尽くして、顔を上げた時、窓の外は優しい夕焼けに染まっていた。
数ヶ月後。
蒼は図書館の絵本コーナーで、子供たちの輪の中心にいた。生き生きとした声で物語を読み聞かせ、子供たちの笑い声が弾ける。彼女の表情は、一年前とは比べ物にならないほど明るく、柔らかい。
ふと、窓の外に広がる、どこまでも澄んだ青空に目をやる。
そこにはもう、朔の姿も、虹のアーチもない。けれど、蒼には分かっていた。彼はあの空に溶けて、光になって、自分をずっと見守ってくれているのだと。
彼女は心の中で、そっと呟いた。
「空の青さに、あなたの笑顔が溶けていく。さよなら、私の星。ありがとう、私の光」
悲しみは消えない。だが、それはもう蒼を縛る鎖ではなかった。過去という温かい光を胸に抱き、彼女は今、自分の足で、希望に満ちた明日へと、確かに歩き出していた。