サイレンスの福音

サイレンスの福音

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第一章 砕けた和音

空は、壮大な交響曲の残響でできていた。人々が「ソラ」と呼ぶそれは、古代の音響建築士たちが奏でた大気のフーガであり、その青色は深遠なチェロの低音が結晶化したものだと教えられてきた。僕、リヒトの生きるこの世界では、音は形を持つ。旋律は壁となり、和音は橋を架け、リズムは街路の敷石となる。そして僕は、その音を紡いで世界を構築する、音響建築士だった。

若くして「至宝」とまで呼ばれるようになった僕には、しかし、誰にも明かせない秘密の瑕疵があった。僕が紡ぐ音には、どれほど完璧を期しても、必ず微かな、耳障りな不協和音が混じるのだ。それは僕にしか聞こえないほど些細な音の歪み。だが、完璧な調和を至上とするこの世界で、その歪みは僕の魂を静かに蝕む呪いだった。

その日、僕は都市国家アリアの中心に聳え立つ「調和の塔」の修復という、またとない栄誉ある仕事に就いていた。数世紀にわたり都市の構造を支え、天候すらも制御するこの塔は、創世の和音そのものが結晶化したと言われる神聖な建造物だ。経年劣化で微細なひび割れが生じた最上部の尖塔を、僕の音で補修する。長老たちの期待を背に、僕は純金の音叉(チューナー)を構えた。

目を閉じ、意識を集中させる。脳内に完璧な修復の旋律を描き、それを指先から空間へと解き放った。澄み切ったソプラノの音色が、水晶のようにきらめきながら空間に定着し、塔の亀裂を埋めていく。完璧だ。誰もがそう息を呑んだ瞬間だった。

キィン、と。

僕の耳の奥でだけ、あの忌ましい不協和音が鳴った。それはいつもより鋭く、深く、まるでガラスを爪で引っ掻くような不快な響きだった。その瞬間、僕が紡いだばかりの水晶の旋律が、まるで砂糖菓子のように脆く崩れ、光の粒子となって霧散した。だが、異変はそれで終わらなかった。僕の不協和音に共鳴するかのように、僕が修復していた尖塔全体が、音もなく、光もなく、ただ静かに――消滅したのだ。

そこには、ぽっかりと虚空が口を開けていた。音が失われた空間。僕たちが「沈黙」と呼び、最も忌み嫌う、無の領域。塔の修復現場に、ありえないはずの「沈黙」が生まれた。集まった人々から悲鳴が上がるより早く、僕の心臓は氷のように冷たくなっていた。僕の呪いが、ついに世界を壊し始めたのだ。

第二章 沈黙の歌い手

僕はアリアを追放された。罪状は「神聖なる塔への冒涜」。死刑を免れたのは、これまでの功績と、長老会の一人が僕に別の任務を与えたからだ。「辺境の『無音地帯』へ行き、その原因を調査せよ」。それは事実上の永久追放に等しかった。無音地帯は、いかなる音も定着せず、物質化しない呪われた土地。そこへ行くことは、音響建築士としての死を意味した。

無音地帯は、想像を絶する場所だった。色彩のない灰色の砂と岩が広がるばかりで、風の音すら存在しない。ここでは僕の音響建築術は無力だった。奏でた音は空間に響くことなく、ただ虚しく吸い込まれて消える。僕は打ち捨てられた観測小屋で、絶望と共に日々を過ごしていた。自分の存在価値が、音と共に消え失せていくのを感じながら。

そんなある日、僕は一人の女性に出会った。灰色の風景の中、彼女は風化した岩に腰掛け、何かをじっと「聴いて」いるようだった。長く白い髪、色素の薄い瞳は何も映していない。彼女は盲目だった。名をセレーネと名乗った彼女は、この無音地帯でたった一人で暮らしているという。

「あなたの音、とても騒がしいのね」

初めて交わした言葉は、僕の心を抉った。この場所では音は消えるはずだ。

「僕の音など聞こえるはずがない。ここは無音地帯だ」

「いいえ、聞こえるわ。あなたの中から。ずっと鳴り響いている。…綺麗じゃない音」

やはり、この呪いは僕の内側に巣食っているのか。自嘲の笑みが漏れた。だが、彼女は続けた。

「でも、その中に一つだけ、とても綺麗な色がある」

「……色?」

「そう。ほとんどの音は濁った灰色に見えるけど、時々きらめくの。瑠璃色と、夜明けの金色が混ざったみたいな、誰も持っていない、特別な色が」

セレーネは共感覚者だった。音を色や形として「見る」ことができるのだという。彼女にとって、アリアの街は色と光に満ちた騒々しい場所で、この静寂こそが安らぎなのだと語った。僕は恐る恐る、ポケットから小さな音叉を取り出して鳴らしてみた。澄んだ音色。だが、僕の耳には、やはりあの微かな不協和音がまとわりついている。

「ああ、まただ」僕が顔をしかめると、セレーネはうっとりとした表情で虚空を見つめていた。

「今のが、その色。なんて美しいの……。あなたの言う『不協和音』が、それなのね」

僕が人生をかけて消し去ろうとしてきた欠陥。呪い。世界の調和を乱す瑕疵。それを、この盲目の女性は「美しい」と言った。その言葉は、僕の中で固く凍りついていた何かに、小さなひびを入れた。僕は初めて、自分の呪いと向き合う勇気が湧いてくるのを感じていた。

第三章 不協和音の福音

セレーネとの交流が、僕を変えていった。彼女は僕が奏でる不協和音を、福音のように聴いた。僕は彼女のために、様々な音を奏でた。僕が欠点だと思っていた歪んだ音を紡ぐたび、彼女は「紫色のオーロラが見える」「銀色の雨が降ってくる」と喜んだ。僕は生まれて初めて、ありのままの自分の音を肯定された気がした。

ある嵐の夜(音のない嵐だ。空が暗くなり、湿った空気が肌を撫でるだけだった)、観測小屋のランプが壊れ、僕たちは完全な闇に包まれた。狼狽する僕に、セレーネは静かに言った。

「リヒト、世界の本当の姿を、教えてあげる」

彼女が語り始めた物語は、僕が知る歴史のすべてを根底から覆すものだった。

「この世界はね、元々『沈黙』で満たされていたの。音も、光も、形もない。でも、穏やかで、すべてが溶け合って一つだった。私たちはそれを『真なる世界』と呼ぶわ」

セレーネの一族は、その真なる世界の記憶を代々受け継ぐ者たちだった。

「でもある時、異次元から『音』がやってきた。それは強力な力で、沈黙を侵食し、世界に『形』を与えた。山や川、そして私たち生物も、すべてはその『音』によって無理やり形作られたもの。豊かで美しい世界に見えるでしょう?でも、それは檻なのよ」

僕らの文明、芸術、生命そのものが、世界に対する侵略の結果だというのか。

「調和の塔は、その最たるもの。あれは都市を守る砦なんかじゃない。世界中に『調和した音』を響かせ続けることで、『沈黙』が本来の力を取り戻すのを防いでいる、巨大な封印装置なのよ。先人たちは、沈黙が持つ無限の可能性を恐れたの。形のない世界に還ることを」

僕は息を呑んだ。では、僕が起こした事故は……。

「あなたが塔で鳴らした『不協和音』。あれは、調和した音の檻に、初めて裂け目を作ったの。だから塔の一部は『沈黙』に還った。…本来の姿にね」

セレーネは僕の手を握った。その手は少しも震えていなかった。

「リヒト、あなたの不協和音は呪いじゃない。福音よ。それは、侵略者である『音』と、この世界の本来の姿である『沈黙』、その両方と唯一共鳴できる、奇跡の音なの。世界を、本来あるべき姿に還すための鍵なのよ」

僕が欠陥だと思っていたものは、世界の牢獄を破壊する鍵だった。完璧を求めてきた僕の人生そのものが、壮大な過ちだったのかもしれない。だが、不思議と絶望はなかった。むしろ、長年の呪縛から解き放たれたような、途方もない解放感が胸に広がっていた。

第四章 世界が生まれる音

僕はアリアに戻った。セレーネを伴って。長老会は僕の帰還に驚き、僕が連れてきた盲目の女を訝しんだ。僕は彼らにすべてを話した。世界の真実を、調和の塔の正体を、そして僕の不協和音が持つ意味を。

「戯言を!」長老の一人が叫んだ。「貴様は自らの失敗を正当化するため、物語を捏造しているに過ぎん!この豊かな物質文明を捨て、名もなき『沈黙』に還れと申すか!」

議論は平行線を辿った。彼らにとって、形あるものの喪失は、世界の終わりを意味した。だが僕には、セレーネが見せてくれた、沈黙の内に広がる穏やかで無限の世界がはっきりと見えていた。どちらが真の豊かさなのか。答えはもう、僕の中に出ていた。

僕は衛兵の制止を振り切り、調和の塔の中心へと走った。塔の中枢には、巨大な水晶の共鳴盤が鎮座し、都市全体を支える根源的な和音を絶えず奏でている。セレーネは僕の後ろで、静かに頷いた。

「リヒト、あなたの音を、世界に聴かせて」

僕は目を閉じた。かつてのように完璧な旋律を思い描くのではない。僕の内側でずっと鳴り続けていた、あの歪で、孤独で、誰にも理解されなかった不協和音。僕自身の魂の音。それを、今こそ誇りを持って解き放つ。

僕は深呼吸し、歌うように、叫ぶように、その音を空間に放った。

それは音楽ではなかった。世界のすべての調和を否定する、究極の不協和音。だが、それは不思議なほど心地よく、僕の全身に響き渡った。塔の共鳴盤が、悲鳴のようなきしみ音を上げて、ひび割れていく。壁が、床が、天井が、次々と結晶構造を失い、音のない光の粒子となって霧散していく。

アリアの街から、音が消えていくのが分かった。建物が形を失い、人々を支えていた旋律の橋が崩れ、空の青が薄れていく。世界の終わりだ、と誰かが叫んだ。だが、僕はセレーネの手を握りしめ、その光景を見つめ続けた。

やがて、すべてが消え去った。物質的な世界は終わりを告げた。だが、そこには虚無はなかった。代わりに、暖かく、穏やかな光の粒子が舞う、無限の空間が広がっていた。それは、セレーネが言っていた「真なる世界」。個々の形は失われたが、意識は溶け合い、互いの存在をより深く感じることができた。言葉はなくとも、想いは伝わる。音はなくとも、魂は共鳴する。

僕の隣で、セレーネが微笑んだのが分かった。彼女の瞳には、初めて世界の本当の光が映っているようだった。僕の不協和音は、世界を破壊したのではない。世界を、本来の優しい姿に還したのだ。

僕たちは、新しい世界が生まれる音を聞いていた。それは、完全な沈黙という名の、最も美しい音楽だった。物質的な豊かさと引き換えに、僕たちは魂の安らぎという、真の調和を手に入れたのだ。その選択が正しかったのか、答えは誰にも分からない。だが、舞い踊る光の中で、僕は確かに、生まれて初めて完璧な幸福を感じていた。

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