透明な時間の守り人
第一章 欠けたピース
僕、高槻ユウキの人生は、まるで薄いすりガラス越しに世界を眺めているようだった。喜びも、悲しみも、確かに感じるはずなのに、その輪郭はいつも曖昧で、誰かと心の底から繋がれたという確かな手触りを知らない。人々が「思い出」と呼ぶものの温かさが、僕の指の間からはいつも砂のようにこぼれ落ちていく。
その日、僕は数年ぶりに再会した親友のアキラと、駅前の古い喫茶店にいた。琥珀色の照明が、彼の屈託のない笑顔を優しく照らしている。
「ユウキ、覚えてるか? 高校の文化祭の時、お前が作ったあの巨大な張りぼての龍! あれ、途中で首がもげて大騒ぎになったよな!」
アキラが腹を抱えて笑う。その楽しげな声が店内に響き渡り、僕の心にも温かい波紋が広がった。そうだ、確かにそんなことがあった。無我夢中で作った龍の、不格好で、けれど愛おしい姿。仲間たちと夜通し作業した、あの熱っぽい空気。
「ああ、覚えてるよ。あれは傑作だったな、色んな意味で」
僕も声を上げて笑った。心の底から、本当に。その瞬間、世界がふわりと浮き上がるような、奇妙な感覚に襲われた。目の前のコーヒーカップの縁が滲み、アキラの笑い声がほんの少しだけ遠のく。
一瞬の眩暈。すぐに視界は元に戻った。
「……で、何だっけ?」
アキラが、眉をひそめて首を傾げた。「いや、ごめん。今、何の話でこんなに笑ってたんだっけな……まあ、いっか!」
彼はそう言って、また別の話題を始めた。僕は相槌を打ちながら、胸の奥に引っかかった小さな棘の正体を探っていた。今の、この微かな断絶。僕の周りでは、いつもこんな風に、何かが静かに欠けていく。
家に帰り、本棚の隅に立てかけてあった古いアルバムを開いた。アキラとの再会が、僕を過去へと誘っていた。色褪せた写真の中に、懐かしい顔が並ぶ。文化祭の打ち上げ、皆で肩を組んで笑っている。アキラがいる。ミカも、ケンジも。
…でも、そこにいるはずの僕の姿だけが、どこにもなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように、僕が立つべきだったスペースは、背景の壁紙と、隣で笑うアキラの腕だけを写していた。心臓が冷たい手で掴まれたような気がした。これは、ただの記憶違いなんかじゃない。僕の日常は、僕が気づかないうちに、静かに侵食されていた。
第二章 秒針なき囁き
写真の一件以来、僕の世界は不確かなものになった。眠れぬ夜、僕は書斎の引き出しの奥にしまい込んでいた古い日記帳を手に取った。何か手がかりがあるかもしれない、そんな淡い期待を抱いて。
パラパラとページをめくっていくと、一箇所だけ、質感の違う紙が挟まっていることに気づいた。それはインクが古びて茶色く滲んだ、日記のページの切れ端だった。僕の筆跡ではない。けれど、その文字の運びには、不思議な既視感を覚えた。
『彼女の淹れるココアの香りは、降りしきる雪の匂いがした。冷たい世界で、たった一つの確かな温もりだった』
誰だ。この「彼女」とは。僕には、そんな記憶はない。だが、文章を読んだ瞬間、胸の奥が甘く、そして切なく締め付けられた。まるで失われた自分の感情を、遠い場所から垣間見るように。
混乱したまま、僕は祖父の形見であるアンティークの懐中時計を手に取った。銀細工の蓋を開けると、文字盤の上で時を刻むべき秒針はなく、長針も短針も、永遠に十二時を指したまま止まっている。祖父は「この時計はな、過ぎた時間じゃなく、心に残った時間を計るんだ」と、子供の僕に笑って聞かせた。
その言葉の意味を、今なら少しだけ理解できる気がした。僕は日記の切れ端と、自分の写っていない写真を思い浮かべながら、冷たい金属の感触を確かめる。
その時だった。
カチリ、と音がしたわけではない。けれど、時計が微かに震えた。ガラスの風防が、月光を吸い込んだかのように淡い光を放ち始める。僕は息を飲んだ。光の中に、像が結ばれていく。
雪が舞う公園のベンチ。赤いマフラーをした少女が、湯気の立つマグカップを僕に差し出して、はにかむように笑っている。その隣には、間違いなく高校時代の僕がいた。その光景は一瞬で消え、時計はまた沈黙のオブジェに戻った。
涙が、理由もなく頬を伝っていた。知らないはずの記憶。しかし、あの温もりと、雪の匂いだけは、確かに僕の魂が覚えていた。
第三章 空白の浸食
懐中時計が見せた幻影は、僕を世界の真実へと導く、残酷な道標だった。
僕は街を歩きながら、これまで見過ごしてきた異常に気づき始めた。人々で賑わう交差点の真ん中で、一瞬だけ全ての音が消える。ショーウィンドウに映る街並みの一部が、まるで絵の具を洗い流したかのように、ふっと色彩を失う。
それは「空白の時間」。人々が共有する日常への愛着や記憶が希薄になることで生まれる、世界の綻び。誰も気づかないうちに、僕たちの世界から「昨日」が、「当たり前」が、静かに消え去ろうとしていた。
僕の能力は、この現象と深く関わっているに違いない。
僕は、誰かと感情が最高潮に達した瞬間、その人物から「記憶の欠片」を吸い取ってしまう。だが、それは単なる略奪ではなかったのかもしれない。
懐中時計は、その後も何度か光を放った。アキラと河原で殴り合いの喧嘩をした後の、夕焼け空。妹のミオが、コンクールで入賞して泣きながら抱きついてきた時の、彼女の髪の匂い。それらは全て、彼らの記憶からは抜け落ち、僕の中に曖昧な残像として蓄積されていた。
そして、それらの瞬間は、いずれも「空白の時間」に飲み込まれ、消え去る寸前だったのだ。
僕は、無意識のうちに、失われゆく大切な人々の日常を、自分という器に避難させていた。その代償として、彼らの記憶から僕という存在が少しずつ削り取られ、僕自身もまた、その繋がりを実感できなくなっていた。静かな孤独の正体は、これだったのだ。
僕は、世界の綻びを縫い合わせるための、名もなき針だった。そして、使い続けた針が摩耗するように、僕の存在もまた、限界を迎えようとしていた。
第四章 真実と代償
その夜、嵐のように雨が窓を叩いていた。僕は部屋で、光を放ち続ける懐中時計を握りしめていた。ガラスの向こう側で、無数の光景が明滅している。それは、僕が吸い取ってきた記憶の断片であり、同時に、この世界が失いかけた「幸せな日常」そのものだった。
そして、僕は見てしまった。
日記の切れ端の主を。それは、僕と全く同じ顔をした、しかし少しだけ年上の青年だった。彼は、僕と同じように孤独を抱え、それでも誰かを守ろうとしていた。「前の」僕だ。彼は、その存在の全てを賭して「空白の時間」の進行を食い止め、最後の記録としてあの日記の切れ端を遺し、そして…消えた。僕という存在に、その役目を託して。僕らは、世界が忘れ去った日常を守るために、輪廻のように存在を繰り返す「守り人」だったのだ。
真実に打ちのめされている僕の背後で、玄関のドアが激しくノックされた。アキラだった。
「ユウキ! いるんだろ! 最近のお前、本当におかしいぞ! 何を一人で抱え込んでるんだよ!」
ずぶ濡れのアキラが、僕の肩を掴んで揺さぶる。その瞳には、本気の心配と、苛立ちが浮かんでいた。彼の熱い感情が、僕の能力を激しく刺激する。ダメだ、これ以上は。これ以上アキラと向き合えば、彼の中から僕に関する大切な記憶まで、根こそぎ吸い取ってしまうかもしれない。
「ごめん…」
僕の口から漏れたのは、そんなか細い声だけだった。
「ごめんじゃねえよ! 俺たち親友だろ! 何があったか話せよ!」
アキラの叫びが、僕の心を貫いた。話したい。全てを打ち明けて、助けを求めたい。だが、それは彼を、彼の日常を、僕自身の手で壊すことと同じだった。
僕は、奥歯を噛み締めた。
もう、決めるしかなかった。この哀しい連鎖を、僕の代で終わらせる。
第五章 きみのいる世界
僕はアキラを振り払い、懐中時計を胸に強く押し当てた。
「ごめんな、アキラ。でも、ありがとう」
僕が今まで溜め込んできた、全ての記憶の欠片――アキラと笑い合った日の光、ミオがくれた温もり、雪の公園で微笑んだ少女の笑顔、そして僕が守りたかった全てのささやかな日常――それら全てを解放することを、強く、強く願った。
僕の存在と引き換えに、これらの記憶を、本来あるべき場所へ。
懐中時計から、目が眩むほどの優しい光が溢れ出し、僕の体を包み込む。体が透き通っていく感覚。僕という個を形成していた輪郭が、世界に溶けていく。アキラの驚愕の表情が、光の中で滲んでいくのが見えた。彼の記憶からも、僕という存在が今、消えていく。
さよなら、僕のたった一人の親友。
光が収まった時、僕は見知らぬ路地に立っていた。僕を知る者は、もうこの世界のどこにもいない。
穏やかな春の午後。僕は、あの喫茶店の窓際の席に座るアキラとミカ、ケンジの姿を、通りの向かいからそっと眺めていた。彼らは楽しそうに笑い合っている。その日常は完璧に繋がり、もうどこにも綻びはない。彼らの会話に、僕の名前が上ることは永遠にない。
ふと、アキラが窓の外に視線を向けた。僕と目が合ったような気がした。彼は少しだけ不思議そうな顔で首を傾げると、何かを思い出すように空を見上げた。
「…なんだか、すごく大切で、懐かしい夢を見ていたような気がするな」
隣のミカが「変なアキラ」と笑う。
その光景を見届け、僕は静かに背を向けた。胸の中には、寂しさよりも、不思議な充足感が満ちていた。
誰も僕を覚えていない世界。しかし、僕が愛した人々が笑っている世界。
それで、充分だ。
手の中には、もう何も映さず、ただ静かに時を止めたままの古い懐中時計が、最後の繋がりを示すように、微かな温もりを宿していた。