瑠璃色のパラドックス
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瑠璃色のパラドックス

第一章 欠けた未来のひとかけら

古書の黴とインクが混じり合う匂いが満ちる図書館で、僕、蒼(ソウ)は生きていた。静寂を愛し、物語の影に隠れるように日々を過ごす僕には、秘密がある。誰かを本気で愛してしまうと、その相手の『絶対的な未来』が、鮮明な映像として脳裏に流れ込んでくるのだ。そして代償のように、僕自身の未来は、完全に真っ白な霧に閉ざされてしまう。

その日、彼女――陽菜(ヒナ)は、一輪の向日葵のように僕の世界に現れた。

「あの、ハーブの本を探しているんですけど……」

少し掠れた、柔らかな声。窓から差し込む午後の光が彼女の髪を透かし、きらきらと金の粒子を撒き散らしていた。僕が案内した植物図鑑の棚で、彼女は目を輝かせ、花々の名前を愛おしそうに指でなぞる。その無垢な仕草に、僕の心の奥で、錆びついていた何かがぎしりと音を立てた。

恋に落ちたのは、一瞬だった。

世界から音が消え、彼女の笑顔だけがスローモーションで映し出される。その瞬間、僕の視界の隅に、いくつもの未来が閃光のように駆け巡った。新しく開いたらしい小さな花屋の店先でエプロンを結ぶ陽菜。夕暮れの公園のベンチで、穏やかに本を読む陽菜。海辺ではしゃぐ、少しだけ大人びた陽菜。どれもが温かく、幸福に満ちていた。

だが、同時に僕自身の未来は完全に消失した。明日、自分が何をしているのかさえ、全く思い描けなくなった。そして、胸を締め付ける決定的な事実。彼女の幸せな未来の、どの場面にも、僕の姿は影も形もなかった。彼女が微笑みかける先、隣にいるはずの場所は、不自然なほどぽっかりと空いている。まるで、そこにいるはずの誰かが、世界から消し去られたかのように。

その夜、僕の部屋の机の上に、掌ほどの大きさの透明な石がひとつ、音もなく現れた。未来石だ。陽菜の未来を視るたびに生まれる、未来の断片。瑠璃色の光を宿したその石を覗き込むと、花屋で笑う彼女の姿が精巧なジオラマのように映し出される。だが、やはり彼女の隣は『空虚な空間』として歪んでいるだけだった。

僕は、祈るように自身の右手のひらを見つめた。この世界では誰もが、生まれた時から利き手に『魂の伴侶』の顔を宿している。真実の愛に巡り合うまで、それは霧の中の肖像画のようにぼんやりとしか見えない。僕の手のひらにも、見知らぬ女性の顔が淡く浮かんでいる。陽菜とは、全く似ていない、誰かの顔が。

愛する人の未来に、僕はいない。

僕の運命の相手は、彼女ではない。

この二つの残酷な真実が、瑠璃色の石の中で静かにきらめいていた。

第二章 運命に逆らうワルツ

陽菜と過ごす時間は、僕の灰色だった日常を鮮やかな色彩で塗り替えていった。僕たちは他愛ない話をして笑い合い、時に黙って同じ空を見上げた。彼女の隣にいると、未来が見えないことの不安さえ、心地よい微睡みの中に溶けていくようだった。

「蒼さんの手、いつも手袋をしているのね」

公園のベンチで、陽菜が不思議そうに言った。僕が革の手袋で隠した右手を、彼女の指先がそっと撫でる。その温かさに心臓が跳ねた。

「……冷え性なんだ」

下手な嘘をつくと、彼女は「ふふっ」と小さく笑い、僕の手を両手で包み込んだ。彼女の手から伝わる熱が、僕が隠している運命の輪郭を、皮膚の内側から炙り出すようだった。

彼女と会うたびに、僕の部屋には未来石が増えていく。どれもが陽菜の幸せな未来を映していたが、同時に僕の不在を証明する、残酷なオブジェでもあった。僕はその石たちを箱の奥にしまい込み、見ないようにした。

ある日、僕は特に鮮明な未来を視た。来週の土曜日、陽菜が一人で海へ行き、寂しげな表情で水平線を見つめている未来。彼女の瞳には、諦めのような色が浮かんでいた。

「僕が、彼女を悲しませている?」

その未来を回避したかった。僕は彼女を誘った。

「今度の土曜日、水族館に行かないか」

僕の誘いに、陽菜は心の底から嬉しそうに微笑んだ。

当日、水族館の巨大な水槽の前で、陽菜は子供のようにはしゃいでいた。色とりどりの魚の群れが、彼女の瞳の中で光の渦を描く。その笑顔を見ているだけで、僕は満たされた。運命は変えられるのかもしれない。淡い期待が胸に芽生えた。

だが、家に帰ると、机の上には新しい未来石が生まれていた。恐る恐るそれを覗き込む。そこには、水族館からの帰り道だろうか、アパートの窓辺に一人佇み、以前よりもずっと深く、どうしようもない哀しみを湛えた瞳で月を見上げる陽菜の姿が映っていた。

回避しようとすればするほど、彼女の未来はより暗い色調へと収束していく。まるで、僕という存在が、彼女の幸福を蝕む毒であるかのように。僕は、自分が彼女の運命に不協和音を奏でる、ただの異物でしかないことを悟った。

第三章 砕け散る未来

その未来は、警告音のように突然僕の頭に響いた。

けたたましいブレーキ音。人々の悲鳴。交差点に突っ込んでくるトラック。そして、その前に立ち尽くす陽菜の姿。

僕は全てを投げ出して走り出した。思考よりも先に、体が動いていた。間に合え。間に合え。心臓が張り裂けそうだった。

人波をかき分け、僕は陽菜の腕を掴む。

「危ない!」

彼女を力一杯歩道へ突き飛ばしたのと、僕の体に鉄の塊が激突する衝撃は、ほぼ同時だった。

意識が薄れていく。世界が赤と黒に明滅する中、僕は陽菜の『絶対的な未来』の全てを走馬灯のように視ていた。僕と出会わなかった場合の、本来の未来。そこには、僕の手のひらに浮かぶ顔の女性――陽菜の親友だ――に紹介された男性と結ばれ、穏やかに笑う陽菜がいた。僕が存在しないことで完成される、完璧な幸福のパノラマ。

僕が彼女を愛し、そばにいることを選んだからこそ、彼女の未来は歪み、悲劇へと向かっていたのだ。僕が消えること。それこそが、彼女の幸福のための、唯一の絶対条件だった。

次に目を開けた時、僕は消毒液の匂いがする白い部屋にいた。

「……蒼さん」

ベッドの傍らで、泣きはらした瞳の陽菜が僕を見つめていた。幸い、僕は軽傷で済んだらしい。

彼女が、僕の右手を握っていることに気づく。事故の衝撃で、いつもつけていた手袋はどこかへ消えていた。僕のむき出しの掌が、彼女の目に晒されている。

陽菜は、僕の手のひらに浮かぶ顔をじっと見つめていた。そして、諦めたように、しかし静かに言った。

「この人じゃ、ないのね」

もう、嘘はつけなかった。僕は全てを話した。未来を視る力のこと。彼女の未来に僕がいないこと。僕の手のひらには、別の誰かがいること。僕がそばにいればいるほど、彼女の未来が不幸に染まっていくこと。

一言話すたびに、僕の心はガラスのように砕けていった。

話し終えた僕を、陽菜は震える腕で、強く、強く抱きしめた。

「それでも……」

彼女の声は、涙で濡れていた。

「それでも、私はあなたがいい。未来なんて、いらない。私は、あなたがいる今が欲しい」

その言葉は、僕が抗い続けてきた運命そのものを、優しく肯定する光だった。

第四章 君の掌に、僕の顔を

陽菜の言葉が、僕の魂の羅針盤になった。運命に抗うのではなく、この愛を全うしよう。僕が消えることで彼女が幸せになるという絶対的な未来を、僕自身の意志で受け入れよう。そう決意した。

僕たちは、残された時間を慈しむように過ごした。不思議なことに、僕が決意して以来、未来石は一つも生まれなくなった。代わりに、僕の体は少しずつ、その輪郭を失い始めていた。指先が、光にかざすと淡く透けて見える。その変化に気づいているのは、世界で陽菜だけだった。

最期の日は、穏やかな夕暮れと共に訪れた。僕たちは、初めて出会った頃によく話した、海が見える丘のベンチに座っていた。

「綺麗だね、夕日」

陽菜が、いつもと同じように微笑む。だが、彼女の瞳には、僕の体が夕陽に溶けていく様子がはっきりと映っていた。

足元から、体が光の粒子になっていく。痛みはなかった。ただ、世界との境界が曖昧になっていくような、不思議な浮遊感があった。

「ありがとう、陽菜。君を愛せて、幸せだった」

「私もだよ、蒼さん。私も、幸せだった」

彼女は泣かなかった。ただ、僕がこの世界に存在した証を、その美しい瞳に焼き付けるように、じっと見つめてくれていた。

消えゆく僕の視界から、陽菜以外の全てが色を失い、透明になっていく。世界が、陽菜と僕だけの空間になる。

ふと、僕は自分の右手に視線を落とした。

そこには、信じられない光景が広がっていた。霧に包まれていたはずの『魂の伴侶』の顔が、寸分の狂いもなく、くっきりと鮮明に浮かび上がっていたのだ。

それは、穏やかに微笑む『僕自身の顔』だった。

ああ、そうか。

僕が探し求めていた魂の伴侶とは、他の誰かではなかった。愛する人の幸福のために、自らの存在さえも捧げることのできる『自己犠牲の愛』。その愛を体現した僕自身こそが、僕の魂が求める、唯一無二の伴侶だったのだ。

薄れゆく意識の最後に、僕は陽菜の左手のひらを見た。彼女の掌にもまた、鮮明になった伴侶の顔が浮かんでいる。

そこにいたのは、紛れもなく、僕――蒼の顔だった。

僕たちは、互いにとって、真の魂の伴侶だったのだ。

僕は心からの微笑みを浮かべ、光の粒子となって完全に消えた。

残された世界。陽菜の目には、もう僕以外の全ての風景が、淡く透明に見えている。だが、彼女の心には、僕と過ごした日々の鮮やかな記憶が、永遠に熱を帯びて輝いていた。

彼女の足元に、僕が遺した最後の一つになった未来石が、瑠璃色に光っている。

石の中には、丘のベンチで一人、穏やかに微笑む陽菜の姿が映っていた。

そして、その空虚だったはずの隣の空間には、ただ一つぶだけ、夕陽よりも温かい光の粒子が、彼女に寄り添うように、優しく瞬いていた。

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