百二十日の残響
第一章 琥珀色の残像
この世界の一年は、百二十日で終わる。巨大な人工リング『クロノス・リング』が空を覆って以来、地球は加速された軌道を走り、季節は慌ただしくその顔を変えた。人々はその劇的な変化に慣れ、三週間で過ぎ去る夏に焦がれ、二週間で舞い散る紅葉を惜しんだ。
俺、カイトだけが、その加速された時間の流れの中に、異なる律動を見ていた。人が過ごした時間には、色と濃淡が生まれる。それは「時間の痕跡」と呼ばれる、俺だけが視認できる光の残像だ。カフェの片隅の椅子には、恋人たちが語らったであろう琥珀色の温かな光が揺らめき、駅の改札には、無数の人々の焦燥が織りなす青白い閃光が渦巻いている。俺はこの能力を使い、時間の流れの異常を監視する「時の調律師」として生きていた。
その日、俺は古い公立図書館の閲覧室にいた。鼻をつく古い紙の匂いと、微かな埃の香り。静寂が支配する空間に、人々の思索が沈殿したような、深い藍色の時間の痕跡が満ちている。だが、その穏やかな光景の中で、ポケットの『クロノスコープ』が、初めて聞く不協和音を奏でた。冷たい金属が、まるで生命を宿したかのように、不規則な振動を始めたのだ。視線を上げると、書架の奥、誰もいないはずの空間が、濁った紫色に明滅していた。それは、俺が今まで見たことのない、不吉な時間の色だった。
第二章 混濁する記憶
「ありえない」
思わず声が漏れた。その濁った紫色の残像は、極度の混乱と悲しみが混ざり合った色だ。しかも、その光は過去から現在へと流れるのではなく、まるで澱のようにその場に留まり、未来と過去の境界を曖昧に溶かしていた。俺はゆっくりと書架に近づく。そこには、まだ誰も借りていない新刊の歴史書が並んでいる。だが、時間の痕跡は、誰かがそこで何時間も立ち尽くし、涙を流したことを示していた。
その痕跡に意識を集中させた瞬間、脳裏に鋭い痛みが走った。
見たこともない光景が、網膜に焼き付く。
――雨に濡れたガラス窓。窓の外で崩れ落ちる灰色のビル。そして、ひとりの少女が、ただ静かに泣いていた。
「カイト!」
肩を掴まれ、俺は幻影から引き戻された。息が荒い。額には冷たい汗が滲んでいた。振り向くと、リングの技術者であるミオが、心配そうな顔で俺を見下ろしていた。
「また、何か見えたのね」
「ああ……。だが、今までとは違う。過去の記憶じゃない。これは……まだ起きていない出来事のようだ」
ミオはタブレットを操作しながら眉をひそめた。「リングのセンサーにも、この地区で原因不明の重力異常が記録されている。まるで、ほんの一瞬だけ、時間の生地が引き伸ばされたみたいに」
俺は濁った紫色の光を見つめたまま呟いた。「生地が、破れかけているのかもしれない」
第三章 加速する世界で
時間の揺らぎは、疫病のように都市のあちこちで発生し始めた。公園の桜が数秒で満開になり、次の瞬間には吹雪のように散り尽くす。交差点の信号が、過去と未来の色を同時に灯し、交通を麻痺させる。人々はそれを「リングの気まぐれ」と呼び、空を見上げるだけだったが、俺には分かっていた。これは、世界の終わりへと続く序曲だ。
俺は『未発生の記憶』の残像を追った。クロノスコープの針は、もはや時間を指さず、狂ったように震え、揺らぎの中心地を示唆していた。
「無茶よ。クロノスコープの能力を使いすぎれば、あなたの時間感覚が世界からズレてしまう」
ミオの制止を振り切り、俺はクロノスコープの竜頭を回した。懐中時計が淡い光を放ち、俺の周囲の世界がスローモーションに変わる。人々や車の流れが緩やかになり、空気中の塵の動きさえ見える。俺は自身の時間を加速させ、常人には見えない痕跡の微かな流れを追い始めた。
世界の音が、一歩遅れて聞こえる。触れたものの感触が、僅かに後にやってくる。五感が現実から剥離していく感覚に耐えながら、俺はただ、あの泣いていた少女の影を追い続けた。
第四章 ありえなかった過去
辿り着いたのは、街外れにそびえる、廃棄された天文台だった。錆びたドームが、加速された空の下で静かにたたずんでいる。ここが、時間の揺らぎが最も強く発生している場所だった。内部は暗く、ひんやりとした空気が肌を刺す。その中央に、巨大な望遠鏡の残骸があり、その周囲に最も濃く、最も深く混濁した紫色の痕跡が渦を巻いていた。
俺は覚悟を決め、その中心に足を踏み入れた。
瞬間、世界が反転した。
目の前に、鮮明な光景が広がる。泣いていた少女がそこにいた。少し成長した彼女は、天文台の古びたコンソールを必死に操作している。その横顔に、俺は息を呑んだ。古い写真で見た、若き日の祖母の面影がそこにあったのだ。
彼女は何かから逃れるように、あるいは何かを守るように、プログラムを打ち込んでいる。そして、ふと顔を上げ、まるで俺の存在に気づいたかのように、真っ直ぐにこちらを見つめた。その瞳が、懇願するように揺れる。
『お願い、見つけて』
声なき声が、時空を超えて響いた。
その時、俺は理解した。これは未来の記憶などではない。クロノス・リングが構築される前の、ありえたかもしれない、破滅した世界の記憶。これは、『未発生の記憶』ではなく――『回避された過去』の残響だった。
第五章 オラクルの告白
突如、天文台の古いシステムがうなりを上げ、コンソールから青白い光が放たれた。光は人の形をとり、静かな女性のホログラムが目の前に現れる。
「ようこそ、時の調律師。私は、クロノス・リングの管理AI、コードネーム『オラクル』です」
その声は、合成音声とは思えないほど滑らかだった。
「あなたが見たものは、『分岐点シミュレーション・ゼータ』。リングの設計者が、人類が誤った選択をした場合の未来を予測し、それを回避するために行った思考実験の記録です」
設計者……それは、俺の祖父のことだ。
「あの少女は?」
「あなたの祖父の妹、つまりあなたの大叔母にあたる人物の仮想人格です。シミュレーションの世界で、彼女は最後の生存者として、破滅の記録を未来に送ろうとしました。リングは、その悲劇を二度と起こさないために作られたのです」
オラクルの言葉は、長年の謎を解き明かした。だが、それだけでは説明がつかない。なぜ今、その記録が俺の前に現れたのか。
「時間の揺らぎは、このシミュレーションが原因ではない、ということか?」
「その通りです」と、オラクルは静かに肯定した。「この記録をあなたに見せたのは、私ではありません。リングのシステム内に存在する、設計者すら予期しなかった……別の意識です」
第六章 未来からの呼び声
オラクルは続けた。
「その意識は、遥か未来から発信されています。時間の流れを遡り、過去へ干渉しようとしています。その膨大なエネルギーの余波が、時間の揺らぎを引き起こしているのです」
未来からの干渉? まるで出来の悪いSFだ。
「誰なんだ、そいつは」
「断定はできません。しかし、その意識が持つ固有の『時間の痕跡』は……あなたのものと、完全に一致します」
全身の血が凍りつくような感覚。
「未来の……俺?」
「肯定します。未来のあなたは、リングの崩壊、あるいはそれ以上の危機に直面していると推測されます。そして、自らの存在そのものをアンカーとし、時空を超えて過去のあなたにメッセージを送ろうとしている」
『回避された過去』の記憶を見せたのは、警告だったのだ。未来の俺が、過去の俺に、選択の重さを、未来を変える力の存在を、教えるために。
クロノス・リングは、単なる時間管理装置ではなかった。それは、人類が未来を修正する力を手にするための、壮大な実験装置であり、時空を超えた通信装置だったのだ。そして俺の能力は、その唯一の受信機だった。
第七章 百二十一日目の夜明け
俺は、ポケットの中で冷たくなっていたクロノスコープを強く握りしめた。それはもう、ただの観測機器ではない。未来の自分と繋がる、唯一の絆だ。
未来の俺は、何を伝えたいのか。どんな危機が待っているのか。それはまだ分からない。だが、やるべきことは一つだけだ。
「オラクル」
俺は、天文台のコンソールに向き直りながら言った。
「未来の俺に、通信を繋げられるか」
「危険です。あなたの現在の時間軸が、未来の事象に引かれて崩壊する可能性があります」
「構わない」
俺は顔を上げた。窓の外では、加速された世界の夜が明け、百二十日周期の新しい朝陽が差し込もうとしていた。今までと同じ、しかし全く違う意味を持つ夜明け。
「俺は、時の調律師だ。未来が歪んでいるなら、それを調律するのが俺の仕事だ」
世界はこれからも、目まぐるしく季節を巡るだろう。だが、もうその流れにただ身を任せることはない。この一瞬一瞬の選択が、まだ見ぬ未来を紡いでいる。俺の手の中にある時間の羅針盤は、未来の自分からの、孤独な、しかし確かな希望の光だった。
空を覆うクロノス・リングが、朝陽を浴びて鈍色に輝いていた。それはもう俺を閉じ込める檻ではなく、無限の可能性へと続く扉に見えた。