第一章: 炎上のメリーバッドエンド
東京都某区、築四十年の木造アパート「メゾン・ド・あばら屋」。
朱色と黒煙のコントラストに包まれて崩れ落ちていくその様は、ある種の終末芸術だ。爆ぜる木材の音が、まるで出来の悪い祝砲のように夜空へ響く。
その熱波を正面から浴びて立ち尽くす女が一人。
彼女――エミ。もはや元の色が判別できないほど煤けたオフィスカジュアル。膝元のストッキングは無惨に伝線し、白いブラウスには今朝こぼしたコーヒーのシミが地図のように広がっている。肩まで切りそろえたボブカットは、毎朝の寝癖と格闘した痕跡を残したまま、熱風に煽られてバサバサと乱れ狂う。
呆然と見開かれた瞳に映る、全財産が灰へと変わる光景。
そして炎を背にして、アスファルトに額を擦り付けている奇妙な男。
道路工事現場の泥水のような色をしたスウェット上下。表面は無数の毛玉で覆われ、まるでカビの胞子が繁殖しているかのよう。足元は左右で色の違う便所サンダル。伸び放題の無精髭に覆われた頬はこけ、濁った魚の死骸のような瞳が、地面のアリを追っている。
極めつけは、猫背になった背中にガムテープで貼り付けられた一枚の半紙だ。達筆な墨文字で『福』。哀れなことに、逆さまだ。
男は、震える唇を開いた。
[A:ナギサ:恐怖]「……お、おめでとうございます」[/A]
[A:エミ:怒り]「……あ?」[/A]
エミの声。それは地獄の底から響くチェーンソーの駆動音。
[A:ナギサ:冷静]「いや、あー……その。あなたは本日をもって、全財産を失いました。きれいさっぱり、ゼロっすね」[/A]
ナギサと名乗るその貧乏神は、燃え盛るアパートを親指で指し示し、へらりと力なく笑う。
[A:エミ:怒り]「ふざけんじゃないわよぉぉぉぉッ!! 私の! 全財産! タンス預金の四万三千円も!? 限定品の激辛ラーメンストックも!?」[/A]
[A:ナギサ:悲しみ]「全部っす。燃えるゴミの日が、ちょっと早まっただけというか……あいたッ!」[/A]
エミの踵が閃く。正確無比なローキック、ナギサの脛を粉砕。
ボロ雑巾のように宙を舞い、ガードレールに激突する貧乏神。
[A:エミ:絶望]「どうして……どうして私ばっかりこんな目に遭うのよ! 先週は財布落として、昨日は会社が倒産して、今日は家が全焼!? 神様とかいるなら、今すぐ引きずり下ろしてボコボコにしてやりたい!」[/A]
その場に崩れ落ち、煤けたアスファルトを拳で叩くエミ。
ナギサは痛む足を引きずりながら、彼女の隣にそっとしゃがみ込む。その濁った瞳が一瞬だけ、慈悲深い光を帯びて揺らいだ。
[A:ナギサ:冷静]「……命は、あるじゃないっすか」[/A]
[A:エミ:悲しみ]「命だけあっても、着る服も寝る場所もないんじゃ……」[/A]
[A:ナギサ:冷静]「俺が憑いてるっすよ」[/A]
[A:エミ:驚き]「は?」[/A]
[A:ナギサ:照れ]「あ、いや、変な意味じゃなくて。俺、貧乏神なんで。あんたに取り憑いて、これから来る『死ぬレベルの不運』を、全部『笑えるレベルの不運』に変換してやるって言ってんの。……まあ、対価として一生貧乏確定っすけど」[/A]
ナギサは懐から焦げたパンの耳を取り出し、半分にちぎって差し出した。
[A:ナギサ:愛情]「食うっすか? これからの俺たちの、最初の晩餐っす」[/A]
燃える我が家と、目の前の薄汚い男。
選択肢は二つ。野垂れ死ぬか、この疫病神と手を組むか。
[A:エミ:怒り]「……アンタ、名前は」[/A]
[A:ナギサ:冷静]「ナギサっす」[/A]
[A:エミ:怒り]「覚えてなさいよナギサ。私の人生がこれ以上不幸になったら、アンタを漬物石にして東京湾に沈めてやるから!」[/A]
[Shout]ゴォォォォッ!![/Shout]
背後でガス管が爆発し、二人の影を長く伸ばす。
世界で一番運の悪い女と、世界で一番不幸な神。泥沼の同居生活、ここに開幕。
だがエミはまだ知らない。この火災こそが、彼女を狙っていた「通り魔」を遠ざけるためにナギサが仕組んだ、一世一代の『不幸な奇跡』だったことを。
◇◇◇
第二章: 犬とバナナと泥だらけのワルツ
家を失った二人の新居、それは公園の滑り台の下。
段ボール一枚の屋根の下、エミはスーツケース代わりのコンビニ袋を抱えて震え、ナギサはその横で一生懸命に何かを煮込んでいる。
[A:エミ:冷静]「……ねえ。それ、何?」[/A]
[A:ナギサ:興奮]「タンポポと、セミの抜け殻のスープっす。精がつくんすよ」[/A]
[A:エミ:絶望]「死んでも食べない」[/A]
ナギサの「良かれと思って」起こす行動は、ことごとく裏目に出る運命。
「エミちゃんに美味しいものを」と彼が商店街のくじ引きに挑めば、ガラガラを回した瞬間に取っ手が外れて店長の額を直撃、営業妨害で指名手配。
「小銭を稼ごう」と自動販売機の下を漁れば、指が挟まって抜けなくなり、レスキュー隊出動の大騒ぎ。
極めつけは、雨上がりの午後。
ナギサが「これぞ起死回生の策!」と叫んで拾ってきた一枚の宝くじだ。
[A:ナギサ:興奮]「見つけたっす! 風に乗って飛んできたこの一枚! ビビッと来たっす! これでエミちゃんに温かい布団を……!」[/A]
突風。
ひらりと舞った宝くじは、道路の向こう側へ。
[A:ナギサ:驚き]「ああっ! 俺の……いや、エミちゃんの三億円!」[/A]
ナギサは便所サンダルを脱ぎ捨てて駆け出した。
信号は赤。だが彼は止まらない。
その時、曲がり角から一匹の野良犬――ドーベルマン級の体格を持つ猛獣――が飛び出してくる。
[Shout]ガブゥッ!![/Shout]
[A:ナギサ:恐怖]「い゛だぁぁぁぁぁッ!!」[/A]
宝くじをくわえた犬は、ついでとばかりにナギサの尻に噛みついた。
ぐるぐると振り回される貧乏神。スウェットのズボンが無惨に引き裂かれ、毛玉だらけのパンツが白日の下に晒される屈辱。
[A:エミ:驚き]「ちょ、ナギサ!?」[/A]
慌てて駆け寄ろうとして、水たまりで足を滑らせるエミ。
宙を舞う身体。
しかし、彼女が着地したのは冷たいアスファルトの上ではなかった。
犬に振り回されて遠心力で吹っ飛んできたナギサの、柔らかい(そして少し臭い)腹の上。
[A:ナギサ:悲しみ]「ぐえぇッ……!」[/A]
[A:エミ:冷静]「……あ」[/A]
泥水の中で折り重なる二人。
犬は宝くじを飲み込んで走り去り、後にはボロボロの男女だけが残された。
雨が降り始める。
最悪だ。最低だ。
そう思っていたのに。
[A:ナギサ:悲しみ]「あーあ……またやっちまった……すいません、エミちゃん。俺、ほんとダメな神様で……」[/A]
泥だらけの顔で、泣きそうなほど眉を下げるナギサ。
その顔があまりにも情けなくて。
[A:エミ:喜び]「あは」[/A]
口から漏れたのは、乾いた笑い。
[A:エミ:興奮]「あはははは! 何よそれ! パンツ丸見えじゃない! お尻、犬の歯型ついてるし!」[/A]
[A:ナギサ:照れ]「わ、笑うことないじゃないっすか! こっちは命がけで……」[/A]
[A:エミ:喜び]「だって……あはは! もう、最高に不運! バカみたい!」[/A]
腹を抱えて笑い転げるエミ。家が燃えた時以来、強張っていた胸のつかえが、泥水と一緒に流れ落ちていく。
どんなに悲惨でも、この男と一緒にいると、不幸が極上のコメディに変わってしまうのだ。
[Sensual]
ナギサは泥を拭うのも忘れ、輝くような笑顔で転げ回るエミを見つめた。
その視線が熱を帯びる。
雨に濡れた彼女のブラウスが肌に張り付き、冷えた身体の輪郭を浮き彫りにしている。
ナギサはそっと手を伸ばし、彼女の頬についた泥を親指で拭った。
冷たい雨の中で、その指先だけが火傷しそうなほど熱かった。
[/Sensual]
[A:ナギサ:愛情]「……笑った顔、初めて見たっす」[/A]
[A:エミ:照れ]「う、うるさいわね。……ありがと。クッションになってくれて」[/A]
二人の間に灯る、奇妙な温もり。
だが、その温もりに冷や水を浴びせるように、頭上から無機質な声が降ってきた。
[A:クロノス:冷静]「規定違反を確認。幸福数値の異常変動を検知しました」[/A]
空を見上げれば、電線の上に純白のスーツを着た男。
銀縁眼鏡の奥で、感情のない瞳が冷たく光っている。
◇◇◇
第三章: 天秤は残酷に傾く
公園の街灯が点滅し、周囲の空間がセピア色に歪む。
ナギサは咄嗟にエミを背にかばい、低い唸り声を上げた。
[A:ナギサ:怒り]「クロノス……! なんで監査官のお前がここにいる」[/A]
[A:クロノス:冷静]「定期監査です。ナギサ、貴様の担当する人間個体『エミ』の生存確率が、規定値を下回りました」[/A]
重力など存在しないかのように、音もなく地面に降り立つクロノス。手にしたタブレット端末を指先で弾く。
[A:クロノス:冷静]「彼女の本来の寿命は、あと七十二時間。三天後、彼女は交差点へのトラック突入事故により死亡します。確定事項です」[/A]
[A:エミ:驚き]「は……? 死ぬ? 私が?」[/A]
状況が飲み込めず、ナギサの背中を掴んだ指に力を込めるエミ。
[A:ナギサ:驚き]「待てよ! 俺が憑いてるんだぞ! 不運で相殺して、運命の逸らしてるはずだろ!」[/A]
[A:クロノス:冷静]「その『不運による相殺』システムが限界を迎えたのです。彼女の魂はあまりに強く幸福を求めている。貴様ごときの小手先のボヤ騒ぎや犬の噛みつき程度では、死の引力を相殺しきれない」[/A]
眼鏡の位置を直し、淡々と、しかし決定的な一言を告げるクロノス。
[A:クロノス:冷静]「彼女を救う方法は一つだけ。ナギサ、貴様が彼女の『生涯分の幸福』を今この瞬間に全て食らい尽くすことです」[/A]
[A:ナギサ:恐怖]「……なんだって?」[/A]
[A:クロノス:冷静]「彼女を一生涯、絶望のどん底に突き落としなさい。希望も、笑顔も、愛も、全て奪い去るのです。彼女の心が完全に折れ、生きる気力を失うほどの『精神的負債』を負わせれば、運命の天秤は逆転し、肉体的な死は回避されるでしょう」[/A]
[Think]
ふざけるな。
[/Think]
ナギサの脳内で血管が悲鳴を上げた。
助けるためには、絶望させろ?
愛する女を生かすためには、彼女から笑顔を奪えというのか?
[A:クロノス:冷静]「実行しなさい。さもなくば、彼女は三天後の午後二時、挽肉になります」[/A]
ナギサは振り返った。
エミが不安そうに自分を見上げている。泥だらけの頬。さっきまで笑っていた口元。
その笑顔を守るために、その笑顔を壊さなければならない。
ナギサの拳から、赤い血がポタポタと滴り落ちた。
◇◇◇
第四章: 嘘と雨とサヨナラ
期限まで、あと二十四時間。
雨は止む気配を見せず、むしろ激しさを増すばかり。
高架下の薄暗い空間で、ナギサはエミの手を振り払った。
[A:ナギサ:冷静]「……もう、無理っすわ」[/A]
声が震えないように、奥歯が砕けるほど噛み締める。
[A:エミ:驚き]「え? ナギサ、どうしたの急に……」[/A]
[A:ナギサ:冷静]「飽きたんすよ、お前の不幸自慢に付き合うの。俺、貧乏神っすけど、お前みたいにジメジメした女、一番嫌いなんすよね」[/A]
嘘だ。
お前の強さが好きだ。泥の中でも笑えるお前が、俺の光。
[A:エミ:悲しみ]「な、何言って……だって、一緒にいてくれるって……」[/A]
[A:ナギサ:冷静]「あれ、ビジネスっすから。でももう回収できないって分かったんで。お前のそばにいると、俺まで腐りそうなんすよ。……消えてくれよ」[/A]
ナギサは背中の『福』の紙を乱暴に剥がし、地面に叩きつけた。
それは彼なりの、神としての決別。自分と一緒にいては、彼女は幸せになれないというポーズ。
エミの瞳から、光が消えていく。
[A:エミ:怒り]「……そう。結局アンタも、私を捨てるのね」[/A]
[A:ナギサ:冷静]「ああ。せいぜい野垂れ死んでくれ」[/A]
[Shout]「最低ッ!!」[/Shout]
乾いた破裂音が響いた。エミの平手打ちが、ナギサの頬を打つ。
彼女は踵を返し、雨のカーテンの向こうへと走り去っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、ナギサは立ち尽くしていた。
[System]警告:対象『エミ』の精神的幸福度が低下。生存確率、わずかに上昇。[/System]
[Think]
これでいい。これで、あいつは生きられる。
[/Think]
だが、その代償は大きすぎた。
ナギサの胸の奥で、何かが致命的な音を立てて砕けたのだ。
神としての核(コア)。
愛する者を故意に傷つけた神は、その資格を失い、存在ごと崩壊する。
激痛が全身を走る。
視界がノイズのように明滅し、指先から砂のように崩れ始めていく。
[A:ナギサ:絶望]「……くそっ……い、てぇ……」[/A]
彼は路地裏のゴミ捨て場に倒れ込んだ。
遠くで雷鳴が轟く。
あの日、エミが笑ってくれた記憶だけが、消えゆく意識の中で鮮明に焼き付いていた。
三天後の午後二時まで、あと少し。
エミはまだ、交差点に向かって歩いている。ナギサのついた嘘に傷つき、涙で前が見えないまま。
◇◇◇
第五章: 神様を辞める日
午後二時五分前。
スクランブル交差点は、灰色の傘の波で埋め尽くされていた。
エミは虚ろな目で信号待ちをしている。
ナギサの言葉が呪いのようにリフレインする。
『お前のそばにいると、俺まで腐りそうなんすよ』
[A:エミ:悲しみ]「……バカみたい。信じてたのに」[/A]
信号が青に変わる。
エミが一歩を踏み出した、その時。
交差点への進入禁止エリアを突き破り、ブレーキの壊れた大型トラックが突っ込んできた。
[Shout]プァァァァァァァッ!![/Shout]
クラクションの轟音。悲鳴を上げて逃げ惑う人々。
だがエミは動けない。
迫りくる鉄の塊を見つめながら、どこか冷静に思っていた。
ああ、これが私の最期か。やっぱり私は、世界一運が悪い。
トラックのバンパーが目前に迫る。
死の冷気が肌を撫でた瞬間――。
[A:ナギサ:怒り]「エミィィィィィッ!!!」[/A]
突如、空から灰色の塊が降ってきた。
身体の半分が半透明に透け、ボロボロに崩れかけたナギサ。
彼はエミとトラックの間に割って入ったのではない。
彼は、エミの足元に、全力で何かを投げつけた。
それは、黒ずんだ**バナナの皮**。
[A:ナギサ:怒り]「《神格放棄・最大不運発動》!!」[/A]
[Magic]奇跡発動:スリップ・オブ・ザ・デスティニー[/Magic]
エミのヒールが、バナナの皮を完璧な角度で踏み抜く。
[A:エミ:驚き]「えっ!?」[/A]
物理法則を無視した勢いで、エミの身体が真横に滑る。
まるで漫画のように回転しながら吹っ飛び、ガードレールを超え、工事現場の囲いを突き破り――
そこに設置されていた、仮設トイレの汲み取り口(蓋が開いていた)へと、頭からダイブした。
[Shout]ズボォォォォォッ!![/Shout]
その直後、トラックが先ほどまでエミが立っていた場所を通過し、電柱に激突して停止する。
静寂。
そして、肥溜めの中から、泥(とそれ以外の何か)まみれのエミが顔を出した。
[A:エミ:怒り]「ブハッ!! ……な、なんなのよこれぇぇぇぇッ!!!」[/A]
最悪だ。死ぬより恥ずかしい。
群衆の視線が集まる中、汚物にまみれて生き残った女。
エミは怒りで震え、そして視線を上げた。
そこには、半透明になったナギサが、ガードレールにもたれかかって笑っていた。
[A:ナギサ:喜び]「……はは、見たっすか……最高の、不運だろ……?」[/A]
[A:エミ:驚き]「ナギサ……? あんた、身体が……」[/A]
[A:ナギサ:愛情]「神様、辞めてきたっす。……幸福を奪うなんて、俺には無理だった。だから、一生分の『恥ずかしい不運』を、今ここで一括払いしてもらったっす」[/A]
ナギサの輪郭が、光の粒子となって溶けていく。
エミは這い上がり、彼に駆け寄ろうとしたが、臭いが酷すぎて誰も近寄れない。
[A:エミ:悲しみ]「待ってよ! バカ! なんで消えそうになってんのよ!」[/A]
[A:ナギサ:冷静]「エミちゃん。……不幸でも、笑ってれば、それはもう不幸じゃないっす。……ありがとな、俺の人生で、一番美味いスープだったっす」[/A]
[A:エミ:悲しみ]「ナギサぁぁぁぁッ!!」[/A]
ナギサは最後に、あの日と同じようにへらりと笑い、初夏の風となって消滅した。
残されたのは、肥溜めの臭いを漂わせながら号泣する女と、誰もいない空間に落ちた片方だけの便所サンダルだけ。
◇◇◇
それから三年後。
とある下町の定食屋。
エミは相変わらず、注文したラーメンに虫が入っていたり、割り箸が綺麗に割れなかったりする日常を送っている。だが、彼女はもう怒らない。
むしろ、そんな不運を楽しむように、口元に笑みを浮かべていた。
「す、すいません! 新人バイトが皿を割ってしまって……!」
奥から、慌てふためく店員の声。
「あーあ、またやっちまった」という、聞き覚えのあるボソボソした声。
エミの手が止まる。
厨房から出てきたのは、ヨレヨレのTシャツを着た、無精髭の男。
彼はエミのテーブルに水を置こうとして、盛大にコップをひっくり返した。
[A:ナギサ:驚き]「うわぁっ! す、すいません客さん! 俺、どうも運が悪くて……」[/A]
冷たい水がエミのスカートを濡らす。
男は青ざめて謝り倒す。その瞳は、かつての濁った色ではなく、少しだけ澄んでいた。
記憶はないのだろう。彼はただの、やたらと運が悪い人間に生まれ変わったのだ。
エミは濡れたスカートを気にすることもなく、男の顔を見上げる。
そして、最高の笑顔で言った。
[A:エミ:喜び]「プッ……あはは! あなた、最高にツイてないわね!」[/A]
[A:ナギサ:照れ]「え……? あ、いや、笑うことないじゃないっすか……」[/A]
男は不思議そうに、けれど釣られて少しだけ笑った。
新しい不運と、新しい恋の予感が、湯気の中に立ち上っていた。