第一章 地味な男と、ありえない奇跡の予兆
佐倉雄一、35歳。彼の人生は、まるで白黒テレビの砂嵐のように、地味で、刺激がなく、そして何よりも「無音」だった。会社の備品管理部に所属し、毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じデスクで同じ書類を整理する。彼のルーティンは精密機械のように狂いなく、そして感情も狂いなく、淡々と過ぎていく。唯一の彩りと言えば、通勤途中の駅前にある小さなカフェ「エトワール」の、店員である美咲さんを遠くから眺めることだった。彼女の笑顔は、雄一のモノトーンな日常に、ほんの一瞬、パステルカラーの光を灯す。だが、もちろん、彼が彼女に声をかける勇気など持ち合わせていなかった。
ある日、雄一はいつものように美咲さんを遠目に見ながら、心の中で強く願った。「あぁ、もっと刺激的な人生がほしい。もっと、美咲さんと話すような、何か『特別な機会』があれば……」。彼の願いは、吐き出されることもなく、彼の胸の奥底に沈んでいった。その日の午後、会社で朝礼中に、予期せぬ出来事が起こった。総務部長が、興奮した面持ちで壇上に上がり、高らかに宣言した。「皆様、おめでとうございます! 先日募集いたしました『社長と語るランチ会』の厳正なる抽選の結果、当選者が決定いたしました!」部長の声が響き渡る中、雄一はぼんやりと自分の席に座っていた。まさか自分には関係ない、と。しかし、次に部長が読み上げた名前に、彼の心臓は飛び跳ねた。
「……佐倉雄一君!」
え? 俺? まさか。
雄一は周囲の視線が一斉に自分に集まるのを感じ、動揺した。さらに部長は続けた。「そして、今回の特別ゲストとして、社長秘書室の……若林美咲さんも同席されます!」
その瞬間、雄一の頭の中は真っ白になった。美咲さん? 社長秘書? エトワールの店員ではなかったのか? そして何より、あの美咲さんと一緒にランチ会? こんな都合の良い偶然があるだろうか。雄一は夢か現実か区別がつかないまま、顔だけは引きつった笑顔を浮かべ、周囲の拍手に応じた。これは、まさしく「特別な機会」ではないか。だが、その日の夕方、社内を歩く美咲さんが雄一に向けた視線は、憧れのカフェ店員のものではなく、どこか探るような、あるいは愉快がっているような、奇妙なものだった。そして、なぜか彼女は口元をわずかに歪めて、笑いをこらえているように見えた。雄一は混乱した。これは本当に、自分が願った「特別な機会」なのだろうか? 彼の周りに、微かに、日常を覆すような予兆が漂い始めていた。
第二章 日常の崩壊、笑いの連鎖
「社長と語るランチ会」は、雄一にとって期待とはかけ離れたものだった。社長は美咲さんにばかり話しかけ、雄一の存在はまるで透明人間。美咲さんも時折、雄一に意味深な視線を送り、その度に小さく笑いをこぼす。雄一はまるで、二人の間の滑稽なオブジェと化した気分だった。「あぁ、もっと自分の魅力があれば、美咲さんも自分に振り向いてくれるのに……」雄一は心の中でぼんやりと願った。その夜、会社の帰り道で、雄一の家の鍵がなぜか開かない。よく見ると、鍵穴に別の鍵が差し込まれたまま、折れているではないか。途方に暮れていると、隣の部屋のドアが開き、困り果てた様子の女性が顔を出した。「あの、すみません、うちの鍵がなぜか開かなくて……って、あれ?佐倉さん?」そこに立っていたのは、雄一の会社の別部署の同僚、佐藤さんだった。翌日、社内で信じられない知らせが雄一の耳に飛び込んできた。佐藤さんが、部署再編に伴い、今日から彼のデスクの「隣」に異動してきたというのだ。彼女は昨晩の鍵の件を謝りながら、「いやー、まさか隣の部屋とは!これも何かのご縁ですよね!」と朗らかに笑った。雄一は、自分の「親しくなりたい」という願いが、こんなに奇妙な形で現実化したことに、一抹の恐怖を感じていた。
佐藤さんの引っ越し騒動は、その後も続く。彼女は雄一の部屋の鍵と自分の部屋の鍵をまた間違え、雄一の朝食をうっかり食べてしまったり、洗濯物を間違えて回収したりと、毎日のように彼を巻き込んだ。雄一は心の中で叫んだ。「もう!少しは静かな生活を送りたい!」その願いが届いたのか、翌週、会社全体で「エコチャレンジ!健康促進週間!」と銘打たれた大規模なキャンペーンが始まった。その内容は、なんと「会社のエレベーター・エスカレーターを全て停止し、全社員階段を利用する」というものだった。雄一のデスクは最上階の10階。毎日、彼は息を切らしながら階段を上り下りし、その度に「こんな運動じゃなくて、ジムで優雅に汗を流したいのに!」と心の中で毒づいた。しかし、彼の体は日ごとに引き締まっていった。
この頃から、雄一は自分の周りで起こる「奇妙な偶然」に、ある種の因果関係を感じ始める。まるで、彼の心の中の願いが、最も奇妙で、最もコミカルな形で現実化しているかのように。そして、その現象を傍観するかのように、美咲さんの意味深な視線と小さな笑い声が、雄一の日常にまとわりつくようになっていた。彼女は雄一が何かを願うたびに、まるでその願いがどう現実化するかを予測しているかのように、楽しげな表情を浮かべるのだ。雄一は、この謎の連鎖の正体を知りたいと強く願った。そして、今の地味で平凡な日常から、完全に脱却したいと願った。彼の願いは、やがて、彼の人生最大の舞台を演出することになる。
第三章 爆笑プレゼンと宇宙の調律者
雄一の「今の生活から脱却したい」という願いは、社内で開催される「新企画コンペ」という形で現実化した。それは、彼の部署では全く畑違いの、全く新しいビジネスモデルを提案するというものだった。雄一は最初は躊躇したが、美咲さんが審査員の一人として参加すると聞き、彼女に自分の可能性を見せつけたいという一心で、参加を決意した。「絶対に優勝して、自分の力を見せつけたい!」彼は徹夜で企画書を練り上げ、プレゼンの練習を繰り返した。彼の人生で、これほど情熱を傾けたことはなかった。
そして、コンペ当日。大勢の社員と役員が詰めかけた会場には、独特の緊張感が漂っていた。雄一は深呼吸し、ステージに上がった。スポットライトが彼を照らし、会場の奥には美咲さんの姿が見えた。彼女はいつものように、微かに口元を緩めて、雄一を見つめていた。雄一は、自信に満ちた声でプレゼンを開始した。「私が提案するのは……」その瞬間、彼の背後の巨大スクリーンに映し出されていた企画書のスライドが、突然、切り替わった。映し出されたのは、雄一が小学校のときに描いた「僕の将来の夢」と題された、ライオンの着ぐるみを着て宇宙飛行士になる絵日記だった。会場のあちこちから、クスクスという笑い声が漏れ出した。雄一は顔を真っ赤にしたが、それだけでは終わらなかった。
次の瞬間、雄一の体が勝手に動き出したのだ。彼はまるで操り人形のように、スクリーンに映るライオンの絵日記に合わせて、おどけたポーズを取り、妙なステップを踏み始めた。彼の口からは、企画内容とは全く関係のない、小学校の校歌の替え歌が飛び出し、会場全体が彼のパフォーマンスに合わせて、なぜか手拍子を始めた。それは、まるで彼の人生を彩る壮大な即興ミュージカルのようだった。会場は爆笑の渦に包まれた。一部の審査員は涙を流しながら笑い転げ、他の者たちは呆然としていた。雄一は羞恥心で死にたかったが、彼の体は踊り続け、歌い続けた。そして、プレゼン時間が終了した瞬間、彼の体はピタリと止まった。
結果発表。審査委員長が壇上に上がり、マイクを握った。「……今回は、予想をはるかに超える、創造性豊かなプレゼンが多数ございました。しかし、我々審査員一同、心を揺さぶられたのは、佐倉雄一君の、あの『体当たりのパフォーマンス』でした!」会場は再び爆笑に包まれた。「彼の企画内容は、確かに革新的でございましたが、何よりも彼自身の『全身全霊をかけた表現』が、我々の心を掴みました! よって、今回の新企画コンペ、優勝者は……佐倉雄一君です!」
雄一は呆然とした。優勝? あの馬鹿馬鹿しいショーで? 彼はステージを降り、人々の間を縫って歩いていると、美咲さんが彼の前に現れた。彼女はいつになく真剣な表情をしていた。
「佐倉さん、おめでとうございます」
「美咲さん……一体、何が……」雄一が尋ねると、美咲さんは深呼吸し、真っ直ぐに雄一の目を見つめて言った。「あなたの願いが、あまりにも強く、そしてあまりにも『コメディ』として具現化された結果です。佐倉さん、あなたは、自分が強く願ったことが『最も意外で、最もユーモラスな形』で現実になるという、特殊な能力を持っているんです」
雄一は言葉を失った。能力? コメディ?
美咲さんは続けた。「私の本当の仕事は、あなたのような特殊な能力を持つ人々の『願いの具現化』を観察し、時にその暴走を止めることです。私は、宇宙の深淵に存在する『願いの調律機関』から派遣された、『願いの観察者』の一人です。あなたは子供の頃、大きな悲劇を経験しましたね? その時、あなたは無意識のうちに『もう二度と悲劇を経験したくない。自分の人生を、笑いの舞台に変えたい』と、強く願ったんです。その願いが、このような形で具現化するようになった。あなたの人生は、あなた自身が仕掛けた、壮大なコメディなのです」
雄一の価値観は、音を立てて崩れ去った。彼の人生は、自分が望んだ「刺激的」なものではなく、自分自身が作った「滑稽な」舞台だったのか?
第四章 能力との共存、真の願い
自分の人生が、まさかの「壮大なコメディ」として誰かに演出されているわけではなく、自分自身の無意識の願いによって仕立て上げられたものであると知った雄一は、衝撃を受けた。最初は「こんな能力、いらない!」と絶望し、どうにかしてこの能力を止める方法はないかと、美咲と共に奔走した。
美咲は「願いの調律機関」のデータベースを駆使し、雄一の能力のルーツや特性を分析した。その結果、判明したのは、この能力は彼の深層心理と密接に結びついており、完全に停止させることは不可能だということ。むしろ、彼が能力を拒絶すればするほど、その反動で願いはより強烈に、より予測不能な形で具現化するという、なんとも皮肉な結果だった。
「静かな生活を送りたい!」と雄一が強く願うと、彼の住むアパートの隣に、突如として「爆笑お笑いライブハウス」がオープン。毎日夜遅くまで、芸人たちの絶叫と観客の爆笑が響き渡り、雄一は耳栓をしてもうまく眠れなくなった。
「もうこれ以上、人目を引きたくない!」と願えば、会社のエレベーターが彼が乗った時だけ、なぜか「ディスコミュージック」を爆音で流し始め、ミラーボールが回転し出す。雄一が降りるまで、エレベーターホールは即席のダンスフロアと化し、彼は毎日出勤時に注目を浴びる羽目になった。
この一連のドタバタの中で、雄一は自分の真の願いと向き合うことになった。彼は本当に「静かで人目を引かない人生」を望んでいたのだろうか? 美咲は、彼の能力が暴走するたびに、彼の傍で優しく見守り、時に的確なアドバイスを与えた。「佐倉さん、あなたは本当に、この能力が『呪い』だと思いますか? 周りの人たちは、あなたの『コメディ』を見て、笑っています。それも、心から楽しそうに」
美咲の言葉に、雄一はハッとした。確かに、エレベーターのディスコ騒ぎでは、最初は嫌がっていた同僚たちも、いつの間にか笑顔で手拍子をしていた。佐藤さんとの奇妙な同居も、最初は戸惑ったが、今ではかけがえのない友人のように感じていた。そして、あの爆笑プレゼンで優勝したことで、彼は社内で「変わり者だが、面白い男」という評価を得ていた。
雄一は、自分の「ばかばかしい奇跡」が、周囲の人々に笑顔をもたらしていることに気づき始めた。そして、彼自身も、地味だった頃よりも、今の予測不能な日常の方が、ずっと「生きている」と感じるようになっていた。
彼は決意した。この能力を呪うのではなく、受け入れよう。そして、この能力を使って、人々を笑顔にしよう。彼は美咲の助けを借りて、自分の能力を「制御する」のではなく、「活用する」方法を模索し始めた。彼の能力が「願いを最もコミカルな形で実現する」のであれば、その「コミカルさ」を最大限に活かす方法を見つければいい。
「そうだ、僕は『奇跡のコメディアン』になればいいんだ!」
そう呟いた雄一の顔には、今まで見たことのない、自信に満ちた笑顔が浮かんでいた。そして、彼の能力は、新たなフェーズへと突入していくのだった。
第五章 人生は最高のコメディである
佐倉雄一は、「奇跡のコメディアン」として、新たな人生を歩み始めた。彼の会社では、新企画コンペでの優勝を機に、彼をリーダーとする「未来企画推進部」が設立された。主な業務は、彼自身の能力を活かした「願い具現化コンサルティング」だ。もちろん、結果は常に「爆笑付き」である。
「部長、私の部署の人手不足を解消したいんです!」と願うクライアントには、なぜか隣の部署の部長までが、着ぐるみ姿で手伝いに来るという、シュールな状況が生まれた。
「もっと子供たちに笑顔を届けたい」と願う小学校の校長先生には、突然、校庭に巨大なウォータースライダーが出現し、生徒たちは大喜び、教師たちは大混乱、という一大イベントが発生した。
最初は戸惑っていた人々も、最終的にはその「バカバカしい奇跡」がもたらす笑顔と幸福に、心から感謝するようになった。雄一の周りには、いつも笑い声が絶えず、彼の人生は、かつてのモノトーンな砂嵐とはかけ離れた、色鮮やかな祭りのようだった。
美咲は彼の傍らで、未来企画推進部の副部長として、彼の能力が本当に社会に貢献するよう、調整役を務めた。彼女の冷静な分析と、時折見せる楽しげな笑顔は、雄一にとってかけがえのない存在となっていた。二人の間には、単なるビジネスパートナー以上の、深くて特別な絆が育まれていった。
ある日の夕暮れ時、二人は会社の屋上から、夕焼けに染まる街並みを眺めていた。雄一は意を決して、美咲に振り向いた。「美咲さん、僕は……君のことが……」彼の真剣な告白は、彼の能力を最大限に活性化させた。
その瞬間、屋上の扉が突然開き、社員たちがどこからともなく集まってきた。彼らは手にバラの花束を持ち、雄一と美咲を取り囲むと、突如として壮大な「プロポーズフラッシュモブ」を開始したのだ!
「結婚してくれー!」「幸せになれー!」見知らぬ社員たちが、口々に雄一と美咲に向かって叫び、歌い、踊り始めた。中には、雄一が以前、心の中で「もっと会社の人と親睦を深めたい」と願った時に、彼の部屋の鍵を間違えた佐藤さんの姿もあった。彼女は顔を真っ赤にして、雄一に向かって巨大な指輪のパネルを掲げていた。
雄一は顔を真っ赤にしてうろたえたが、美咲は、そんな彼を慈しむように見つめ、小さく笑った。そして、フラッシュモブの喧騒の中で、彼女は雄一の頬にそっと手を伸ばし、彼の目を見つめて言った。
「ええ、喜んで。こんなに素敵な、世界で一番おかしいプロポーズは、きっとあなたにしかできないでしょうね」
雄一は、美咲の言葉と笑顔に、心臓が温かくなるのを感じた。かつて望んだ「刺激的な人生」は、彼が想像していたものとは全く違った。しかし、毎日が予測不能で、笑顔に満ちた、本当に豊かな人生を、彼は手に入れていた。
佐倉雄一はもう、地味な会社員ではない。彼は、人々が笑顔になるための、奇想天外な舞台演出家なのだ。彼の人生は、これからもきっと、誰も予想できない、最高のコメディを生み出し続けるだろう。そして、その舞台の主役は、いつだって彼自身なのだ。人生は悲劇ではない、最高の喜劇なのだと、彼は知った。