第一章 金平糖は密やかに
遠藤誠、三十二歳。彼の人生は、一枚の能面のように、徹底して無表情に貫かれていた。市立図書館の司書として働く彼は、その静謐な空間と一体化していた。古紙の匂い、インクの香り、かすかに響くページをめくる音。そのすべてが、彼の心の平穏を守る城壁だった。
彼が感情を殺して生きるのには、理由があった。物心ついた頃から続く、あまりにも馬鹿げた、しかし本人にとっては深刻な特異体質。彼は、笑うと、その笑いの度合いに応じて食べ物を生成してしまうのだ。くすりと笑えば飴玉が一つ。ふふっと息が漏れればクッキーが一枚。腹を抱えて笑おうものなら、何が起こるか想像もつかなかった。幼少期、友達の冗談で大笑いした瞬間、教室の床に大量のポップコーンをぶちまけて以来、誠は人前で笑うことを固く禁じてきた。感情の表出は、すなわち物理的な厄災なのだ。
そんな彼の城壁に、ある日、ひびが入った。
「はじめまして!今日からお世話になります、日向葵です!太陽みたいに元気に頑張ります!」
春の陽光をそのまま人にしたような女性が、彼の前に現れた。溌剌とした声、くるくると変わる表情、そして何より、彼女は面白いことが大好きだった。本の整理中に突然つま先立ちでバレリーナの真似をしたり、返却された本を見て「このミステリーの犯人、絶対執事だと思いません?顔が執事顔なんですよ!」と大声で語りかけたり。誠は、腹筋に力を込め、奥歯を噛みしめ、どうにか平静を装うのに必死だった。彼女は、歩く爆弾だった。いつ誠の感情の導火線に火をつけるか分からない、危険極まりない存在だ。
事件が起きたのは、葵が配属されて一週間後の土曜日だった。子供向けの絵本の読み聞かせ会。担当は葵だったが、誠は隅で補助役を務めていた。葵が選んだのは、食いしん坊のオオカミが主人公の物語。彼女の読み聞かせは、もはや演劇だった。オオカミの唸り声、子豚の震える声、効果音まで一人でこなす。子供たちは大喜びだ。
物語のクライマックス、オオカミが子豚の家に吹きかける場面。原作では「ふーっ!」と息を吹きかけるだけだが、葵は違った。
「さあみんな、オオカミさんを手伝ってあげて!でも、ただ息を吹きかけるだけじゃつまらないから……必殺!おならプーッ!」
葵が品性のかけらもない効果音とともに、腰をくねらせて見せた瞬間、子供たちの笑い声が図書館の静寂を突き破った。その光景のあまりのくだらなさに、鉄壁を誇った誠の表情筋が、ほんのわずかに、しかし確実に緩んだ。
「フッ……」
喉の奥から、押し殺した空気が漏れた。しまった、と思った時にはもう遅い。
カラン。
彼の革靴のつま先に、何かが当たった。見ると、床に一粒、淡い桃色の金平糖が転がっている。星形の、甘い小さな奇跡。
誠は凍りついた。血の気が引いていくのが分かる。しかし、子供たちの歓声の中、誰もその小さな異変には気づいていない。――一人を除いて。
読み聞かせを終えた葵が、にんまりと笑いながら誠に近づいてきた。そして、誰にも聞こえない声で、彼の耳元で囁いた。
「遠藤さん、今、笑いましたね?甘いものがお好きなんですか?」
彼女の目は、世紀の発見をした科学者のように爛々と輝いていた。誠の平穏な日常が、音を立てて崩れ始めた瞬間だった。
第二章 ポップコーンの弾ける午後
葵は、執念深い探求者だった。一度見つけた謎を、彼女が放置するはずもなかった。
「遠藤さん、この本、最高に笑えますよ!」
翌日から、葵の誠に対するアプローチはさらに積極的になった。休憩時間には面白い猫の動画を見せようとし、昼食時にはシュールなギャグ漫画を差し出し、しまいには自分で考えたという一発ギャグを披露し始めた。
「司書が書庫で、しょっ引かれた!なんちゃって!」
誠は、もはや無表情を通り越して、苦悶の表情を浮かべていた。笑いをこらえるというのは、これほどまでに体力を使うものだったのか。腹筋は常に引きつり、呼吸は浅くなる。彼女の笑顔を見るたび、胸の奥がむず痒くなり、喉がひくりと痙攣する。
「やめてくれ、日向さん。仕事に集中できない」
「えー、でも遠藤さん、笑うといいことあるじゃないですか。ほら、金平糖とか」
葵は屈託なく笑う。彼女にとって、誠の体質は興味深い研究対象でしかなかった。
「この前、遠藤さんがちょっと微笑んだら、足元にマカロンが落ちてましたよ。ピスタチオ味の。私の大好物です!あれは偶然ですか?」
偶然ではない。あれは、彼女が貸してくれた小説のラストシーンがあまりに見事で、思わず口元が緩んだ時の産物だ。誠は、葵の観察眼の鋭さに舌を巻いた。
迷惑なはずだった。彼の人生を縛り付ける呪いを、面白がるなんて。だが、不思議と彼女に対して怒りは湧いてこなかった。むしろ、葵と話していると、長年閉ざしていた心の扉が、少しずつ軋みながら開いていくような感覚があった。笑いをこらえる苦しみと、笑いたいと願う衝動。その奇妙なせめぎ合いが、灰色だった誠の日常に、淡い色彩を与え始めていた。
そんなある日、閉館後の図書館で、葵が段ボールいっぱいのトウモロコシの粒を運んできた。
「遠藤さん、実験しましょう!」
「何の実験だ」
「大爆笑したら何が出るか、です!私、ポップコーンが食べたい気分なんです!」
「馬鹿なことを言うな。帰るぞ」
誠が背を向けた瞬間、葵はわざとらしく段ボールに足を引っかけて転んだ。バサァッ!と音を立てて、無数のトウモロコシの粒が床一面に散らばる。それはまるで、計算され尽くした舞台装置のようだった。
「あいたたた……遠藤さん、私、ドジだから……ぷっ、あはははは!」
床に散らばったトウモロコシの中で、手足をもたつかせながら笑う葵。その姿は滑稽で、あまりにも無防備で、そしてどうしようもなく、愛おしかった。
誠の中で、何かが弾けた。
「ぷっ……くくく……ははははっ!」
こらえきれなかった。腹の底から、何年も溜め込んできた笑いが一気に噴き出した。涙が出るほど笑ったのは、いつ以来だろう。
パンッ!パンッ!パンパパパパァン!!
次の瞬間、誠の笑い声に呼応するように、床に散らばったトウモロコシが一斉に弾け始めた。まるで祝福のファンファーレのように。塩バターの香ばしい匂いが、静かな図書館を満たしていく。白いポップコーンが雪のように舞い上がり、二人の上に降り注いだ。
降りしきるポップコーンの中で、笑い転げる葵と、呆然としながらもまだ笑いが止まらない誠。
「すごい……遠藤さん、やっぱり……!魔法使いみたい!」
ポップコーンまみれになりながら、葵が満面の笑みで言った。誠は、自分の頬が緩みっぱなしであることに気づいた。呪いだと思っていた力が、今、目の前の彼女をこんなにも喜ばせている。その事実が、彼の胸を温かくした。この呪いも、悪くないかもしれない。ほんの少しだけ、そう思えた。
第三章 寿司が降る日
図書館の一大イベント「図書館フェスティバル」の季節がやってきた。そして、今年の目玉企画は、葵が情熱を注いで企画した「来場者参加型・即興おとぎ話劇場」だった。誠は当然のように裏方、それも一番目立たない照明係を志願した。スポットライトを浴びるなど、彼にとっては公開処刑に等しい。
しかし、運命は彼に安息を許さなかった。公演開始三十分前、桃太郎役の職員が、昼に食べたカキにあたってトイレから出てこられないという緊急事態が発生したのだ。青ざめた顔で走り回る葵。そして、その目は、舞台袖でひっそりと息を潜めていた誠を捉えた。
「遠藤さん!お願い!桃太郎やって!」
「無理だ!絶対に無理だ!」
「大丈夫!セリフは私が耳打ちするから!それに、遠藤さん、最近ちょっと表情豊かになったし!」
それは葵のせいだろう、と叫びたかったが、彼女の必死の形相に押し切られ、誠は気づけば、桃の描かれた段ボールの衣装を身につけ、舞台の中央に立たされていた。
劇は、カオスだった。鬼ヶ島に向かうはずの桃太郎(誠)の前に、犬、猿、キジに加えて、なぜか「おつかいを頼まれたパンダ(子供)」や「道に迷った宇宙人(別の子供)」まで現れる始末。葵の巧みな進行と、子供たちの予測不能なアドリブが、物語を誰も知らない方向へと導いていく。
誠は、葵の耳打ちに従い、必死で無表情を貫きながら、棒読みでセリフを言った。「オニを、たいじに、いきます」「きびだんごを、どうぞ」
その無機質さが、逆に観客の笑いを誘った。「あの桃太郎、やる気ない感じが面白い!」という声が聞こえてくる。
そして、クライマックスの鬼との対決シーン。鬼役のベテラン職員が、アドリブで奇妙なダンスを踊り始めた。それに触発された子供たちも、舞台上で入り乱れて踊り出す。収拾のつかない狂乱のダンスパーティー。その中心で、葵がマイクを握りしめ、高らかに叫んだ。
「さあ、桃太郎!今こそ君の真の力を見せる時だ!みんなに、最高の笑顔を届けておくれ!」
その言葉は、台本にはなかった。それは、葵から誠個人に向けられたメッセージだった。
誠は、観客席を見た。笑っている。子供も、大人も、みんなが腹を抱えて笑っている。舞台上の仲間たちも、涙を流しながら笑っている。世界が、笑いで満ちていた。
もう、こらえる必要はないんじゃないか?
ずっと蓋をしてきた感情が、堰を切ったように溢れ出した。恐怖も、羞恥心も、すべてがどうでもよくなった。
「あ……あはは……あははははははははっ!!」
誠は、生まれて初めて、心の底から、大声で笑った。腹がよじれ、呼吸もままならないほどの、純粋な歓喜の爆発。
その瞬間、世界は変わった。
ホール全体に、生臭い、しかしどこか食欲をそそる匂いが立ち込めた。観客の一人が、天を指差して叫ぶ。
「な、なんだ、あれは!?」
見上げると、ホールの天井から、何かが、無数の何かが、雨のように降り注いでいた。
それは、つややかに光るマグロの赤身だった。脂の乗ったサーモンだった。透き通るようなイカだった。輝くイクラの軍艦巻きだった。シャリを握った、完璧な形の寿司が、舞台にも客席にも、ひらひらと舞い落ちてくる。
「寿司だ!」「空から寿司が!」
会場は、一瞬の静寂の後、パニックではなく、地鳴りのような歓声に包まれた。子供たちは大喜びで寿司を追いかけ、大人たちは呆然としながらも、その非現実的な光景に笑い転げている。
舞台の中央で、寿司の雨に打たれながら立ち尽くす誠。彼は、自分のしでかしたことの重大さに、ただただ、血の気が引いていくのを感じていた。「終わった……」彼の人生も、彼の平穏も、すべてが。降りしきる寿司の中で、彼は絶望に打ちひしがれていた。
第四章 君とマカロンの余韻
「伝説の寿司デーステージ」と名付けられたあの事件から、一週間が経った。誠は辞表を懐に忍ばせ、戦々恐々としながら出勤していた。しかし、予想していた解雇通告も、世間の非難も、何もなかった。それどころか、図書館の来館者数は三倍に跳ね上がり、子供たちは口々に「次の寿司はいつ降るの?」と聞いてくる始末だった。あの出来事は、町の歴史に残る、奇跡のエンターテイメントとして処理されたのだ。
閉館後、誠は葵と二人きりで書庫にいた。懐から、よれた辞表を取り出す。
「日向さん。本当に、すまなかった。私のせいで、とんでもないことに……」
「何言ってるんですか」
葵は、誠の手からひったくるように辞表を取り上げ、あっという間にくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。「最高でしたよ、遠藤さんの桃太郎。あと、お寿司も。私、ウニが一番好きなんですけど、ちゃんと降ってきました。ごちそうさまです」
「そういう問題じゃ……」
「そういう問題です」葵は真剣な顔で誠を見つめた。「遠藤さん、ずっと自分のその力を、呪いだと思ってたんでしょう?隠さなきゃいけない、恥ずかしいものだって」
誠は、何も言えずに俯いた。
「でも、違ったじゃないですか。遠藤さんの笑いは、みんなを笑顔にした。お寿司で、みんなのお腹もいっぱいになった。それって、最高にハッピーな力じゃないですか」
葵の言葉は、まっすぐに誠の心に届いた。呪い。そう、ずっとそう思ってきた。この力のせいで、自分は人並みの感情表現すら許されないのだと。だが、彼女はそれを「ハッピーな力」だと言った。
「君は……怖くないのか?こんな化け物みたいな男が、すぐそばにいて」
「化け物?」葵は心底不思議そうに首を傾げた。「遠藤さんは、遠藤さんですよ。ちょっと笑うとお寿司とか出しちゃう、面白い人なだけです。それに」
彼女は一歩近づくと、いたずらっぽく笑った。
「その力のおかげで、遠藤さんの本当の笑顔、見れたから。私にとっては、素敵な魔法です」
その言葉を聞いた瞬間、誠の目から、一筋の涙がこぼれた。それは、悲しみや絶望の涙ではなかった。何十年という長い間、心の奥底に凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていくような、温かい涙だった。そして、涙とともに、自然な、穏やかな笑みが口元に浮かんだ。
それは、大爆笑でも、忍び笑いでもない。ただ、心からの感謝と安堵がこもった、柔らかな微笑みだった。
ポトリ。
彼の足元に、小さな何かが落ちた。二人で覗き込むと、そこには、鮮やかなラズベリー色のマカロンが一つ、ちょこんと転がっていた。
葵はそれをそっと拾い上げ、半分に割って、片方を誠に差し出した。
「半分こ、しましょう」
誠は、ためらいながらもそれを受け取った。口に含むと、サクッとした歯触りの後に、甘酸っぱいクリームがとろりと広がった。それは、今まで食べたどんなお菓子よりも、優しくて、幸せな味がした。
遠藤誠の人生から、能面が消えることはないかもしれない。彼はきっと、これからも図書館で静かに本を愛し続けるだろう。だが、彼の心には、確かな変化が訪れていた。感情を表現する喜び。誰かと笑い合う温かさ。
時々、静かな図書館の片隅で、彼が葵の冗談にくすりと笑うことがある。すると、床にカラフルなマカロンや、小さなチョコレートが転がっている。それは、二人だけの、甘くてささやかな秘密。
呪いは、祝福に変わった。彼の世界は、もう灰色ではない。そこには、春の陽光のような彼女の笑顔と、時折降ってくる、お菓子の優しい甘さが満ちているのだから。