第一章 雨と秒針のノイズ
路地裏の湿ったコンクリートの匂い。
その奥にある、時代錯誤な『時計修理店』の扉を叩く音。
レンは、拡大鏡(ルーペ)越しに顔を上げた。
「……どうぞ」
軋む蝶番が悲鳴を上げ、その女性は入ってきた。
ビニール傘から滴る雫が、床に黒い染みを作っていく。
「あの、ここですべての時計が直ると聞いて」
濡れた髪を耳にかける仕草。
その指先が、小刻みに震えているのをレンは見逃さなかった。
「すべてじゃない。直せるものと、直すべきものだけだ」
レンは愛想笑い一つせず、作業机のランプを少しだけ明るくした。
彼は『聴こえる』人間だった。
金属の摩耗音、油の粘度、そしてその時計が刻んできた持ち主の『感情』が、旋律となって聴こえる特異体質。
「見せてくれ」
彼女がおずおずと差し出したのは、銀色の懐中時計だった。
蓋には細密な彫刻。絡み合う蔦と、翼の折れた鳥。
レンが指先で触れた瞬間。
――キーン、と。
耳鳴りのような鋭い高音が、脳髄を刺した。
(なんだ、この音は……?)
通常の故障音ではない。
まるで、誰かが必死に何かを叫んでいるような、断末魔に近いノイズ。
「止まってしまったんです。……私が、私でいられる時間を刻むのが」
彼女の声は、雨音よりも儚かった。
「名前は?」
「エレナ、です」
「レンだ。……預かろう。だが、約束はできない」
エレナは、安堵したように息を吐いた。
その笑顔を見た瞬間、レンの胸の奥で、止まっていたはずの何かが、カチリと音を立てて動き出した気がした。
第二章 逆行するワルツ
それから、エレナは毎日店にやってきた。
修理の進捗を聞くわけではない。
ただ、レンが作業する横で、雨音を聴きながら文庫本を読んでいた。
「レンさんは、どうして時計を?」
ある日、彼女が不意に尋ねた。
「人間は嘘をつくが、歯車は嘘をつかないからだ」
レンはピンセットで極小のネジを摘まみながら答える。
「冷たいんですね」
「正確と言ってくれ」
エレナはクスリと笑った。
その笑い声は、心地よい和音のようにレンの鼓膜を揺らす。
だが、懐中時計の修理は難航していた。
内部構造が、既存のどの規格とも違う。
歯車の一つ一つに、微細なナノチップが埋め込まれている。
これは単なる時計ではない。
『外部記憶装置』だ。
レンは、聴覚を研ぎ澄ませて解析を進めた。
ノイズの奥底から聴こえてきたのは、ピアノの旋律。
ワルツだ。
どこか懐かしく、そして泣きたくなるほど優しいワルツ。
「ねえ、レンさん」
「なんだ」
「もし、私が明日、今日までのことを全部忘れてしまったら……どうしますか?」
唐突な問いに、レンの手が止まる。
「どういう意味だ」
「この街の流行り病ですよ。『記憶石灰化症』。脳の容量がパンクして、古い順に、あるいは大切な順に、データが消えていくの」
彼女は窓の外、灰色の空を見上げた。
「この時計には、私のバックアップが入ってるんです。でも、壊れちゃった。だから今の私は、穴の開いたバケツみたいに、毎日何かをこぼしながら生きてる」
レンは息を呑んだ。
あの悲鳴のようなノイズは、消えゆく記憶の断末魔だったのか。
「直るのか?」
「直れば、バックアップから復元(リストア)できる。でも……」
彼女は言い淀んだ。
「でも?」
「復元すれば、バケツは新品に戻るわ。その代わり、壊れてから今日までに溜まった水は……すべて押し出されて消えてしまう」
レンは顔を上げた。
エレナと目が合う。
「つまり、君がここに来てからの日々も、僕のことも?」
「……そうなるわね」
彼女は微笑んだ。
泣いているようにしか見えない笑顔で。
第三章 君を救うための選択
「直さないでくれ、と言いたいのか」
レンの声が低く響く。
「いいえ。直してください」
エレナはきっぱりと言った。
「私はもう、限界なんです。昨日の晩御飯も思い出せない。明日の朝には、自分の名前も忘れているかもしれない。……恐怖で、押しつぶされそう」
彼女の手が、レンの作業着の袖を掴んだ。
「でも、忘れたくない。レンさんがコーヒーを淹れる時の香りも、しかめっ面でルーペを覗く横顔も、不器用な優しさも。……全部、今の私の宝物だから」
矛盾していた。
直せば、彼女は助かるが、レンを忘れる。
直さなければ、彼女は自我を失い、廃人となる。
「残酷な依頼だな」
「ごめんなさい。でも、あなたにしか頼めなかった」
その夜、レンは徹夜で作業に没頭した。
時計の声(おと)を聴く。
ノイズを取り除き、絡まった回路をほどいていく。
最後の歯車を嵌め込む直前。
レンは、その『核心』に触れた。
――カチ、コチ、カチ。
時計の心臓部から、鮮明な『声』が流れ込んできたのだ。
それはバックアップデータの一部。
過去のエレナの独白。
『……レン。私の愛する人。ごめんなさい』
レンは戦慄した。
手が震え、ピンセットを落としそうになる。
『私の病気は進行しているわ。あなたと一緒にいた記憶が、あなたを傷つける棘になってしまう前に、私は記憶をリセットする』
『この時計を直せるのは、世界であなただけ。もし、あなたがこれを直してくれたなら……それは、私たちが再会できた証拠ね』
『でも、その時あなたは、他人として私に出会っているはず。……お願い。私を助けて。そして、私を忘れて』
レンの目から、涙が溢れ出した。
初めてではなかった。
僕たちは、出会っていたのだ。
かつて夫婦だった。
愛し合っていた。
だが、彼女の病が発覚し、彼女は僕の負担にならないよう、自ら姿を消し、記憶を封印した。
そして運命の悪戯か、彼女の本能が、再び僕の店へと彼女を導いた。
「馬鹿野郎……」
レンは嗚咽を漏らした。
直せば、彼女は「かつての妻」としての記憶を取り戻す。
だが、それは同時に、「ここ数日、店で惹かれ合った二人」の時間を消滅させることを意味する。
彼女は二度、僕を愛してくれた。
そして僕は、二度、彼女を失う選択を迫られている。
第四章 サヨナラの代わりに
翌朝。雨は上がっていた。
エレナが店に来る。
その足取りは昨日より重く、瞳の光は少しだけ濁っていた。
限界が近いのだ。
「……できましたか?」
レンは無言で、修理を終えた懐中時計をカウンターに置いた。
銀色の筐体が、朝日で鈍く輝く。
「完璧だ。最高の仕事をしたよ」
レンは努めて明るく振る舞った。
声が震えないように、腹に力を入れた。
エレナは時計を手に取った。
温かい。
まるで、レンの体温が移っているかのように。
「ありがとう」
彼女は時計の竜頭(リューズ)に指をかけた。
これを押し込めば、同期(シンクロ)が始まる。
過去の彼女が戻り、今の彼女が消える。
「レンさん」
「なんだ」
「私、あなたに出会えてよかった。……たとえ、データが上書きされても、この胸の痛みだけは、きっと残る気がする」
「ああ。……僕もだ」
レンはカウンター越しに手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
これが最後だ。
「さあ、行きなさい。君の時間を取り戻すんだ」
エレナは涙を浮かべて微笑み、そして――竜頭を押し込んだ。
カチリ。
世界が一瞬、静止した。
時計の針が高速で逆回転を始める。
エレナの瞳から光が失われ、そして、深い海のような静寂が訪れた。
数十秒後。
彼女はゆっくりと瞬きをした。
その瞳には、先ほどまでの怯えも、切なさもなかった。
あるのは、澄み切った理知的な光。
彼女は周囲を見渡し、そしてレンを見た。
「……あら?」
彼女は小首を傾げた。
「ここは……時計屋さん? 私、どうしてこんなところに……」
成功だ。
彼女は助かった。
そして、僕たちの「再会後の日々」は、永遠に失われた。
レンは、心臓を引き裂かれるような激痛を堪え、プロの顔で微笑んだ。
「いらっしゃいませ。時計の修理でしたら、承りますよ」
それは、かつて彼女が録音したメッセージへの、精一杯の返答だった。
最終章 刻(とき)は巡る
エレナは不思議そうに自分の持っている懐中時計を見た。
「変ね。直ってる……。私、これを直しに来ようとして……」
彼女は財布を取り出し、代金を払おうとした。
レンは首を横に振る。
「代金は結構です。それは……保証期間内ですから」
「え? でも初めて来たのに」
「いいえ。その時計は、とても古い馴染みのものですから」
エレナは困惑した顔をしたが、やがて礼を言って店を出て行った。
「ありがとうございました」
背中が見えなくなる。
ドアが閉まる。
店内に、静寂と無数の時計の音だけが残された。
チクタク、チクタク、チクタク。
レンは椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
涙はもう枯れていた。
その時。
カラン、コロン。
再びドアベルが鳴った。
レンは弾かれたように顔を上げる。
そこには、エレナが立っていた。
少し息を切らして。
「あの!」
彼女は頬を紅潮させていた。
「私、何か大切なことを忘れている気がして……。その、変なことを聞きますけど」
彼女は真っ直ぐにレンを見つめた。
「私たちが会うのは、本当に初めてですか?」
レンは目を見開いた。
懐中時計からは、正確なリズム。
だが、彼女自身の心臓の音が、激しく高鳴っているのが聴こえた。
記憶(データ)は消えても、魂(ハードウェア)が覚えている。
レンはゆっくりと立ち上がり、今日一番の、本当の笑顔を見せた。
「いいえ。……はじめまして、と言うべきところですが」
レンは言った。
これから始まる、三度目の恋の予感を込めて。
「おかえりなさい、エレナ」