第一章 灰色の窒息
世界は、死んだコンクリートの色をしている。
少なくとも、僕の網膜にはそう映っていた。
雨が降っている。
傘を叩く音だけが鼓膜を震わせるが、湿り気も寒さも伴わない。指先をナイフでなぞっても、物理的な裂け目から赤い液体が滲むだけ。脳は「損傷」を検知するが、「痛み」という情動はどこかで断線している。
「カイリ、今日からここがお前の家だ」
父親だった男が吐き出す煙は、僕には工場の排気ガスと区別がつかない。
全寮制美術学園「アトリエ」。
蔦の絡まる古城は、美辞麗句で飾られた隔離病棟であり、僕のような欠陥品――感情という色彩を持たぬ「無色症(アクロマ)」の最終処分場だ。
重い鉄扉が軋みを上げて閉ざされる。
男は一度も振り返らなかった。
あてがわれた個室は独房のようで、埃と鉄錆の匂いがした。
荷解きもせず廊下へ出る。換気扇が死んでいるのか、油絵具特有の甘ったるい腐臭が充満している。
最上階、北側の突き当たり。
「立入禁止」の札が下がる部屋から、何かが漏れ出していた。
ドアの隙間から、液体のような、煙のようなものが滲み出し、床を侵食している。
灰色ではない。
それは、僕が生まれて初めて知覚する「色」だった。
靴底がその液体を踏む。
喉の奥で音が潰れた。
熱い。いや、冷たいのか。
皮膚が焼ける感覚。肋骨の内側を誰かが蹴り上げる。
ドアを開けた。
夕闇などなかった。
部屋の中央、キャンバスの前に佇む少女が、世界そのものを塗り替えていた。
重力に逆らい揺らめく黒髪。彼女の背中から、指先から、呼吸の一つ一つから、圧倒的な質量を持った「青」が噴き出している。
深海の水圧。成層圏の孤独。致死量の悲哀。
少女が振り向く。
視線が交差した瞬間、視界が鮮烈なサファイア色に染まり、膝が床に落ちた。
呼吸ができない。彼女の「青」が肺胞を焼き尽くす。
「……来ないで」
砕けた硝子のような声。
「私の色が、あなたを壊してしまう」
彼女がかざした手から、青い波動が鞭のように僕の頬を打った。
痛い。
痛くて、たまらなく鮮やかだ。
僕は床に這いつくばりながら、焼印を押された頬に触れた。指先に付着した彼女の青を、舐めるように見つめる。
灰色の死体置き場のような世界で、そこだけが脈打っていた。
僕は初めて、自分が生きていることを知った。
第二章 混ざり合う境界
彼女の名はスイ。
学園が誇る天才。あるいは、世界で最も美しい汚染源。
僕は彼女の専属の「筆洗い」になった。
常人の精神なら数分で廃人になるほどの純度。だが、空っぽの僕には、猛毒を満たすための余白があった。
放課後のアトリエ。
スイは筆を使わない。彼女の指そのものが絵筆だ。
素足でキャンバスに対峙し、全身から溢れ出る悲鳴を叩きつける。
青、蒼、碧、藍。
無限のグラデーションが、白い布を蹂躙していく。
「カイリ、タオル」
「ああ」
彼女の隣に膝をつき、高濃度の感情にまみれたその手を拭う。
触れるたび、静電気が爆ぜるような痛みが走る。
無色の僕の肌に、スイの青が痣のように染み付いていく。洗っても落ちない、魂への色素沈着。
「……痛くないの?」
スイが僕の手首を掴んだ。指は氷のように冷たいのに、流れ込む奔流は溶岩のように熱い。
「痛いよ」
嘘はつかない。
「君が悲しむたびに、僕の皮膚は焼ける」
「なら、どうして逃げないの」
「君の色で埋め尽くされている時だけ、僕の輪郭が存在するからだ」
スイの瞳が揺れた。
彼女は僕の手首を引き寄せ、痣に唇を寄せた。口づけではない。それは傷口を塞ぐような、毒を吸い出すような切実な儀式。
「馬鹿な人」
吐息が皮膚を濡らす。
「近づけば近づくほど、あなたはあなたじゃなくなっていくのに」
彼女の悲しみが、血管を通って心臓へ流れ込む。
ドクン、と胸が跳ねる。
それは僕の鼓動なのか、彼女の共鳴なのか、もう判別がつかない。
互いの欠落を、互いの毒で塞ぐ。
その歪な結合だけが、この冷たい世界での唯一の体温だった。
第三章 残酷なキャンバス
地下倉庫は、黴とホルマリンの匂いがした。
学園長の執務室から盗み出した鍵が、ポケットの中で冷たい。
噂は真実だった。
埃を被った台帳。歴代の「無色症」の生徒たちの写真と、事務的な書き込み。
『飽和状態により廃棄』
『自我崩壊につき焼却処分』
『作品番号108の定着剤として使用』
吐き気がこみ上げる。
ここは矯正施設ではない。
感情過多の天才たち――「生産者」から、最高傑作を搾り取るための工場。
そして僕たち無色者は、天才たちが垂れ流す猛毒を濾過し、キャンバスに定着させるための「生きたフィルター」に過ぎない。
フィルターは汚れたら捨てられる。交換可能な消耗品。
「……気づいちゃったんだ」
背後で声がした。
階段の踊り場にスイが立っていた。
逆光で表情は見えない。だが彼女の周囲の色が、青からどす黒い紺色へと濁っていく。
「知っていたのか」
「うん」
スイが一歩ずつ階段を降りてくる。足元から闇のような影が広がる。
「だから言ったでしょう。近づかないでって」
彼女の手が僕の胸に触れる。
心臓の鼓動が、肋骨という檻を叩いている。
「学園長は言ったわ。私の最高傑作には、あなたの命が一本分必要だって。あなたの真っ白な魂をキャンバスの下地にして初めて、私の青は永遠になる」
「スイ……」
「逃げて、カイリ。このままじゃ、あなたは絵の具の一部になって消滅する」
彼女の手が震えている。
拒絶の言葉とは裏腹に、その瞳は縋るように僕を見つめていた。
彼女の孤独が、僕の空洞に雪崩れ込んでくる。
逃げろと言いながら、行かないでと叫んでいる。その矛盾した色が、僕の喉を締め上げた。
第四章 決壊
卒業制作展まで、あと三日。
窓の外では嵐が荒れ狂っているが、アトリエの中の暴風雨に比べれば微風に過ぎない。
スイが壊れかけていた。
限界を超えた感情の質量が、彼女の小さな身体を引き裂こうとしている。
床には折られた絵筆、切り裂かれたキャンバス。
「描けない……描きたくない!」
スイが頭を抱えて蹲る。
彼女を中心にして重力異常が起きていた。青い閃光がスパークし、部屋の調度品を次々と破壊していく。
「これ以上吐き出したら、空っぽになってしまう。でも吐き出さなきゃ、私が破裂する」
彼女の涙は、地面に落ちる前に青い結晶となって砕け散る。
僕は嵐の中心へ歩み寄った。
皮膚が裂け、血が滲むが、すぐに彼女の青に飲み込まれていく。
「スイ」
手首を掴む。
接触面から膨大な絶望が流れ込む。脳が焼き切れる寸前の激痛。
だが、手は離さない。
「離して! 死んじゃう!」
「いいや、離さない」
僕は彼女を抱きしめた。
肋骨が軋むほど強く。
「描くんだ、スイ。全部吐き出せ」
「嫌だ! そんなことしたら、カイリが……」
「僕は元々、空っぽだった」
耳元で囁く。
それは自己犠牲なんて美しいものじゃない。もっと醜悪で、利己的な渇望だ。
「灰色のまま生きるくらいなら、君の青で溺れて死にたい」
「カイリ……」
「僕を使ってくれ。僕を、君の最高傑作にしてくれ」
スイの瞳が見開かれる。
その深淵に、恐怖と、それ以上の歓喜に歪んだ僕の顔が映っていた。
彼女の腕が、僕の背中に回される。
爪が肉に食い込む。
「……ずるい人」
堤防が決壊した。
彼女の中に溜まっていた全ての感情が、僕という器へとなだれ込んだ。
第五章 永遠の青
その絵画の前で、人々は言葉を失い、あるいは涙を流して崩れ落ちた。
タイトルは『肋骨の檻』。
深い、どこまでも深い青。
悲しみとも安らぎともつかない色彩は、見る者の魂を根底から揺さぶり、鷲掴みにする。
絵具の層は厚く、まるで生きているかのように脈動して見えた。
その絵の前に、一人の少女が立っていた。
かつての天才、スイ。
今の彼女の瞳には、かつての鮮烈な輝きはない。ガラス玉のように透明で、何も映していないかのように虚ろだ。
彼女は車椅子に座る青年に語りかける。
青年は微動だにしない。
瞬き一つせず、ただ虚空を見つめている。
肌は透き通るように白く、血管の代わりに青い顔料が流れているかのように薄く発光していた。
彼は生きていた。呼吸もし、心臓も動いている。
だが、その精神はもうここにはない。
彼は器としての役割を全うし、彼女の全ての「青」を受け止め、その身に封じ込めたまま、永遠の静止の中にいた。
「ねえ、カイリ」
色彩(こころ)を失ったスイの声は、平坦で、乾いていた。
だが、その表情は穏やかだった。
かつて彼女を苛み、蝕んでいたあの激情は、すべて目の前の彼の中に保存されている。
「今日の天気は、灰色よ」
スイは青年の冷たい手に、自分の手を重ねた。
温度差はない。二人とも、同じくらい冷たい。
「やっと、一つになれたね」
彼女は微笑んだ。
涙は出ない。泣くための感情は、すべて彼にあげてしまったから。
彼女は、自らの魂の抜け殻となったその美しい彫像を見つめ続ける。
失うことでしか完成しなかった愛が、そこにはあった。
窓の外、灰色の雨が世界を閉ざしていく。
けれど僕たちの肋骨の中だけが、永遠に、鮮やかに、青く燃えていた。