第一章 遺された憎悪
革張りの椅子が、私の重みで軋む。窓の外、東京の空は鉛色に淀んでいた。今にも泣き出しそうな雲の重さが、胃の腑に溜まった不快感と共鳴する。
「これが、相沢宗介氏の遺言のすべてです」
老弁護士が差し出したのは、分厚い契約書と黒い万年筆。そこに記された遺産額は、売れない画家が千回生まれ変わっても届かぬ数字だ。だが、私の視線はその下の《付帯条件》に釘付けになる。
『相続人は、被相続人に関する全記憶の医学的消去に同意すること』
乾いた笑いが喉の奥で弾けた。
死してなお、あの男は私を支配しようというのか。あるいは、自らの罪を歴史から抹消したいのか。
記憶の中の父は、常に酒と煙草の臭いを纏っていた。母が階段から落ちて冷たくなったあの日、警察に「俺がやった」と震える声で告げた男。それ以来、私の世界は灰色だった。「殺人者の娘」というレッテルが、絵筆を持つ手をどれだけ重くしたことか。キャンバスに向かうたび、赤色は母の血に、黒色は父の影に見えた。
「相沢様? サインを」
私は冷たい金属の軸を握りしめた。指の関節が白く浮き出る。
記憶を消す。それは父という存在を脳細胞から削ぎ落とすこと。復讐にはおあつらえ向きじゃないか。私の人生を破壊した加害者への、これが最後の、最高の断罪だ。
ペン先が紙に食い込む。インクが滲み、名前が黒く刻まれる。
それは同意書への署名であり、父に対する死刑執行命令だった。
第二章 灰色の万華鏡
滅菌された手術室の空気は、冬の朝のように鋭利だった。
こめかみに冷たい電極が触れる。血管を巡る鎮静剤が意識の輪郭を溶かし、視界がホワイトアウトする。
『メモリー・ダイブ、開始』
無機質な宣告と共に、私は「父の視点」へと放り込まれた。
強烈な振動と轟音。工事現場だ。
視点が下を向く。ささくれだった軍手、泥に塗れた安全靴。
父の手だ。母を突き落としたはずの、忌まわしい手。
「おい相沢、休憩だ!」
誰かの声に、視界が揺れる。
パイプ椅子に崩れ落ち、胸ポケットから取り出したのは、煙草ではなく一枚の写真だった。セーラー服を着て仏頂面で立つ私が、クローズアップされる。
父の指先が、写真の私の頬を愛おしそうに撫でた。
(やめて。触らないで)
拒絶する意識。だが、視界の端に映り込んだバックミラーが思考を凍らせた。
鏡の中の父は、泣いていた。
眉間に深い皺を刻み、唇を噛み締め、声を殺して嗚咽している。
『絵麻、すまない……もっといい絵の具を、買ってやりたいのに……』
脳内に直接響く思考の残響。場面が切り替わる。深夜の居酒屋、上司に頭を下げる父。「娘の美大の学費が……お願いします、夜勤を増やしてください」。
私の知る父は、家で酒を煽り私を無視する暴君だった。だが、父の網膜が記録していた真実は違った。私が彼を恨んでいる間、彼は泥水をすするように働き、その背中で私の未来を支えていた。
嘘だ。
心拍モニターが早鐘を打つ。こんなもの見たくない。私の憎しみを返してくれ。
第三章 愛という名の冤罪
記憶の深度が増す。システムが警告音を鳴らす。
《コア・メモリへ到達。閲覧注意》
あの日だ。雷鳴が窓ガラスを震わせていた、十五年前の夜。
父の視界は玄関ホールを捉えている。二階から聞こえる、母の金切り声と幼い私の泣き叫ぶ声。
父が階段を駆け上がる。視界が激しく揺れ、踊り場にたどり着いた瞬間、時間はスローモーションになった。
母が私に手を上げようとした。
その瞬間、五歳の私が――反射的に母の胸を突き飛ばした。
「あっ」
短い呼気。母の体が宙に浮き、階段を背中から滑り落ちていく。
鈍く湿った衝突音。首が不自然な角度に折れる音。床に広がる赤。
私の喉が引きつった。
違う。父がやったのよ。そう記憶している。そうじゃなきゃいけない。
だが、父の記憶(レコード)は残酷なまでに鮮明だ。
彼は呆然と立ち尽くす私に駆け寄るのではない。母の遺体にでもない。瞬時に状況を理解し、そして絶望した。
「絵麻!」
父が私の両肩を掴む。その手は震えているが、力強い。
『聞くんだ。お前は何もしていない』
父の声が脳を揺らす。
『母さんは俺が突き落とした。お前は部屋で寝ていた。いいか、絶対にそうだ。お前は誰も殺していない』
父はハンカチで私の小さな手の汚れを拭き取り、自らの指紋を手すりに擦り付けた。
通報した受話器に向かって彼は言った。「妻を殺しました。私がやりました」
その背中は、あまりにも小さく、あまりにも巨大だった。
幼い私の精神が崩壊しないよう、彼は私の罪をすべて飲み込んだのだ。私が彼に向けた十五年分の憎悪は、本来、私自身に向けられるべき刃だった。
「嘘よ……」
手術台の上、涙が噴き出す。
私は被害者じゃなかった。父の人生を食い潰し、殺人犯に仕立て上げ、その上で彼を憎み続けた、世界で最も愚かな加害者だった。
第四章 崩落する世界
《消去プロセス、最終段階。デリートを開始します》
世界が端から砂のように崩れ始めた。
父の笑顔が、泥だらけの背中が、不器用な愛の記憶が、デジタルノイズに変換されていく。
「待って! やめて!」
私は意識の海で絶叫した。消さないで。その記憶は私が背負うべき十字架だ。その愛を忘れたら、父さんは本当に孤独なまま死んでしまう。
崩れゆく記憶の瓦礫の中、父の幻影が振り返った。まだ白髪のない、若い父。
彼は泣きじゃくる私を見て、困ったように、けれど優しく微笑んだ。
『これでいいんだ、絵麻』
「よくない! 私はあなたを恨んだまま……!」
『私を憎むことでお前が生きられるなら、それでよかった。そして今、私を忘れることで、お前は本当に自由になる』
父の体が光の粒子となってほどけていく。
「行かないで! お父さん!」
伸ばした指先が触れたのは虚空だけ。
『幸せになりなさい。私の、最愛の娘』
その言葉を最後に、父の顔はホワイトアウトの中に消滅した。
彼が私を庇った真実も、私を愛した記憶も、彼という人間の存在証明も、すべてが永遠の闇へと葬られた。
第五章 空白の温もり
目を開けると、そこは眩しいほどの白だった。
天井の蛍光灯が瞬いている。「気分はどうですか、相沢さん」と看護師が覗き込む。
「……ええ、悪くないわ」
体を起こす。ひどく体が軽い。背負っていた鉛の塊をどこかに置いてきたような感覚だ。
窓の外、雨は上がり、雲の切れ間から差し込んだ陽光がアスファルトを鏡のように輝かせていた。
今日は誰かの葬儀だった気がする。遠い親戚? いや、思い出せない。
ただ、重要なことなど何もないという確信だけがある。
病院のロビーを出て、光の中へ歩き出した。
風が頬を撫でる。
不意に、理由もなく涙がこぼれ落ちた。
「あれ……?」
拭っても拭っても、涙は止まらない。
悲しいのではない。寂しいのでもない。
ただ、胸の奥、心臓の真ん中に、巨大で温かい空白がある。
誰かに全身全霊で守られたような、許されたような、絶対的な温もりだけが、そこに残っていた。
私は空を見上げる。
その青さは、どこまでも澄み渡り、残酷なほどに美しかった。
私は何も知らない。何も覚えていない。
ただ、名もなき愛の残滓を胸に抱き、私は無垢な被害者として、新しい人生の一歩を踏み出した。