第一章 認識の恐怖
瞼の裏には、湿った闇ではなく乾いたざらつきがあった。
湊が開眼する。空であるべき場所には、画用紙の繊維を拡大したような無機質な白が広がっていた。
手を突いたアスファルトに指先が沈む。未乾の水彩画のように地面が歪んだ。
「……なんだ、これは」
喉から落ちた声は、風に乗らず鉛筆の粉のように足元へ堆積する。
視界を凝らす。ビル群は遠近法を無視して立ち並び、輪郭線は迷い箸のように震えていた。窓は黒く塗りつぶされ、信号機は灰色一色。ここは、下書きの世界だ。
よろめき歩き出す。行き交うのは十字の線だけで顔を定義された人型のラフスケッチ。作家としての本能が、この空間の杜撰さに嘔吐した。
路地裏。衣擦れの音。
そこだけ線が濃い。女が一人、膝をついている。腕の中には子供。
「名前……あなたの、名前……」
女の指が子供の肩に触れた瞬間、恐怖が湊の脊髄を奔った。
触れた端から子供が「ほどけて」いく。デッサンを指で擦ったように、輪郭が背景の灰色へ溶け出した。
「ボク、ダレ? ママ、アイってナニ?」
「わからない。愛なんて言葉、設定資料(ここ)にはない」
女が手を離すと、子供は白い霧となって散乱した。消しゴムのカスのような残骸だけを残して。
「……書き損じだ」
女は虚ろに呟く。その足元もまた、透け始めていた。
湊は自身を抱きしめる。爪が食い込む痛みだけが現実。
ここは神に見捨てられたボツ原稿の墓場。設定を忘れられ、名前を失ったものから順に、物理的にホワイトアウトしていく地獄。
第二章 定義という名の救い
逃げ込んだ公園のベンチ。ブランコの鎖が、風もないのに錆びた音を立てる。
その揺れに合わせて、少女が座っていた。
認識するのに時間を要した。背景の白と区別がつかないほど希薄な存在。のっぺらぼうのまま俯く彼女は、直感的に消滅寸前だと知れた。
胸の奥で錆びついた歯車が軋む。
――救えないなら、書くな。
かつて筆を折らせた呪いの言葉。だが今、目の前の「空白」が彼を呼んでいる。
「おい」
少女の肩が震え、顔のない頭部が向く。
「君の名前は」
返事はない。ただ空間が歪む気配。
「……シオリ」
言葉がこぼれ落ちた。
「君は、物語の続きを記す栞(シオリ)だ」
言葉が空気に触れた刹那、世界に色が走る。
少女の輪郭にインクのような黒い線が奔り、灰色の髪に夜明け前の藍色が滲み出す。瞼が描かれ、唇に薄紅が差す。
開かれた瞳。この世界で唯一、鮮烈な色彩を持つ眼差し。
「私が……シオリ」
生まれたての楽器が音を奏でるように、彼女の唇が動く。
その瞳に映り込むことで、湊という存在の輪郭もまた、強固に定着した。
シオリが自分の手を見つめ、微笑む。ただそれだけで、灰色の公園に大輪の花が咲いたような錯覚。
言葉は記号ではない。あやふやな世界を現実に繋ぎ止める「鋲(アンカー)」だ。
僕にはまだ、書くことができる。
第三章 残酷な福音
「見て、湊。空が青い」
シオリと歩く世界は色を取り戻していた。湊が名付け、シオリが認識する。二人は荒れ果てた原稿を「推敲」していた。
だが、崩壊は止まらない。修正液の津波のような「白」が街を浸食してくる。
逃げ込んだ古代図書館のような廃墟。湊は一冊の分厚い書物を拾い上げた。『世界設定資料集・第13稿』。
その余白に、赤いインクの走り書き。
『テーマ不全。全消去(デリート)』
ページをめくる手が止まる。
【自律型編集プログラム:ミナト】
『役割:物語の整合性を取るため、バグ(書き損じ)を具現化させ、削除対象としてマーキングする機能を持つ』
本が手から滑り落ち、重い音が静寂を引き裂いた。
湊は救世主ではなかった。彼が名前を与え、鮮明にすればするほど、それは「神(作者)」にとって「消すべきゴミ」として際立つ。
あやふやなままなら見逃されたかもしれない彼女を、わざわざ「ここに異物がいます」と突き出していただけ。
「湊……?」
窓からの光に透けるシオリの藍色の髪。なぜ彼女はこれほど美しいのか。
湊が彼女を「主役」として定義してしまったからだ。神の目は今、確実にシオリを捉えている。
「僕は……」
湊は顔を覆った。指の隙間から絶望が漏れる。
「君を殺すために、君を描いていたんだ」
第四章 執筆への反逆
轟音。天井という概念が消失し、無機質な白い「無」が広がった。
雲よりも巨大な手が伸びる。指先には世界を削り取る消しゴム。
「シオリ、逃げろ!」
だが彼女の足元から色は抜け始めていた。神のプロセスが彼女をロックオンしたのだ。
「湊、もういいの」
透き通る右手が湊の頬に触れる。
「あなたが苦しむ物語なら、私は要らない」
初めて会った時よりも人間らしく、美しく微笑む彼女。
「私を忘れて。あなたの世界へ帰って」
「ふざけるな」
湊は懐から万年筆を抜き、迷わず自身の左手首に突き立てた。
鮮血が噴き出す。
「書くんだ……まだ、終わらせない!」
血をインク代わりに空中に文字を走らせる。
『彼女は消えない』『物語は続く』
巨大な消しゴムが触れた端から言葉は無残にかき消される。圧倒的な力の差。
「僕の最高傑作は君だ。書き損じなんて言わせない。神様だろうが、僕のヒロインに指一本触れさせるか!」
湊の瞳に狂気が宿る。編集者(エディター)としての権限放棄。ただの登場人物としての反逆。
「僕の命(記憶)を全部やる。だから、定着しろ!」
第五章 永遠の栞
湊の肉体が光に包まれ、文字の羅列へと分解されていく。
現実で培った知識、思い出、言葉。全てがエネルギーとなって奔流する。
身を削り、魂をすり減らし、嘘を真実に変える作業。それが「書く」ということ。
消しゴムが振り下ろされる直前、文字の嵐となった湊がシオリを包み込んだ。
『この物語は、未完ではない』
意識が世界を書き換える。
『これは一人の少女が愛を知り、永遠に生き続ける物語だ』
白い閃光。消滅ではなく、凝縮。
世界が、時間が、感情が、一つの小さな四角い物体へと圧縮されていく。
……
初夏の風がカーテンを揺らす。
書店の片隅。一人の青年が足を止めた。
最近スランプで何も書けず、記憶も曖昧なまま彷徨っていた彼の背表紙が呼んだ。
『神様が書き損じた世界で』。
作者不明の、古びた装丁。
震える手でページをめくる。そこには、灰色の世界で懸命に生きる色彩豊かな少女の挿絵。
青い瞳が、彼を見つめている。
「……っ」
視界が滲んだ。胸が焼き切れるように熱い。
会ったこともない少女。書いた覚えのない物語。
なのに、どうしてこんなにも懐かしく、愛おしいのか。
青年は本を抱きしめ、人目も憚らずに泣いた。
頬を伝う涙だけが、失われた世界が存在したことの確かな証明だった。
見返しには、誰かが命を削って記したような一文が添えられていた。
『――君の名前を、ここに綴る。』