第一章 氷の断頭台
灰色の空が、世界を圧殺していた。
雪ではない。あれは空が剥がれ落ちた欠片だ。
石畳に膝をつく。冷気が布を食い破り、骨の芯まで牙を突き立てる。視界の隅、処刑台に咲いた冬薔薇だけが、血を吐いたように赤かった。
群衆のざわめきが波のように押し寄せ、不意に凍りつく。
堅牢な軍靴の音が、心臓の拍動を上書きしていく。
「氷の処刑人」ジークフリート。
死神の翼めいた黒マントが翻り、エリスの前で止まる。見上げることさえ許されぬ威圧。視線だけで物理的な重みを感じる。
彼が腰の剣を抜く。金属の擦過音が、悲鳴のように空気を切り裂いた。
切っ先が顎を掬い上げる。
冷たい。鉄の温度ではなく、絶対零度の死の感触。唇を噛む。鉄錆の味が広がる。涙など流さない。かつてこの国を統べた王族の矜持だけが、震える背骨を支えていた。
「最期に言い残すことは」
地底の岩盤が擦れ合うような低い声。
エリスは剣先を睨み返す。恐怖が臨界点を超え、純粋な怒りへと結晶化する。
「貴様を地獄の底で呪い続ける。永遠に」
男の瞳が揺れた。氷湖の底に沈む青い炎の色。
彼は剣を引き、黒革の手袋に包まれた手で、エリスの細い首を掴んだ。
指が喉仏に食い込む。脈動が彼の手のひらに伝わっているはずだ。
殺される。
瞼を閉じた、その時。
耳元に熱い吐息がかかる。
「死か、俺の妻となり生涯飼い殺されるか。選べ」
時が止まる。
雪の白さも、薔薇の赤も色褪せ、首筋に残る革の感触と、男の不条理な熱だけが世界に残った。
屈辱が胃の腑を焼く。一族を屠った男の寝所へ?
だが、死は無だ。無からは復讐も、呪いも生まれない。
「……生きるわ」
声は風に消えた。
ジークフリートは手を離し、再び黒い手袋を嵌め直すように強く握りしめた。
その動作が祈りのように見えたのは、雪の乱反射のせいだったろうか。
第二章 手袋の隔たり
シャンデリアの蝋燭が爆ぜる音。
銀食器が皿に触れる微かな金属音。
ジークフリートは、城の中でも決して手袋を外さない。
上質な黒革は、第二の皮膚として同化している。
ワイングラスの脚を摘む指先。肉を切り分けるナイフの所作。そのすべてが洗練されているが故に、不気味なほどの拒絶を孕んでいた。
「……今夜も、部屋に来るのか」
耐えきれずに問う。
彼は手を止め、グラス越しの歪んだ景色を見るようにエリスを見据えた。
「契約だ。世継ぎができるまで、義務は果たす」
義務。その言葉が熱した鉛のように胸に落ちる。
寝室での彼は、奇妙な拷問官だった。
豪奢な天蓋が世界を閉ざす狭い檻の中で、彼はエリスに触れようとはしない。
正確には「接触寸前」で留まり続けるのだ。
背を向けて眠るエリスの脊椎に沿い、指が動く気配。革の匂い。
ほんの数ミリ、布一枚の隙間を空け、彼の手はエリスの曲線をなぞる。
触れれば壊れる砂細工を愛でるように。あるいは、獲物の急所を探る猛獣のように。
(なぜ、触れないの?)
その「焦らし」は、暴力よりも深く神経を蝕んだ。
視線が肌を舐める感触は鮮明なのに、物理的な接触だけが欠落している。その空白が、得体の知れない飢餓感を生んでいた。
ある夜、着替えを手伝う彼の手がドレスの紐を解いた。
露わになった背中。
彼の呼吸が一瞬だけ乱れる。
振り返ると、彼は手袋を嵌めた手で顔を覆い、苦悶の瞳でエリスの肌を見つめていた。
欲望ではない。
もっと切実で、痛ましいほどの渇望。
砂漠の真ん中で一滴の水を見つけた遭難者のような眼差し。
エリスの中にあった憎悪の氷壁に、小さな亀裂が入る。
彼は、私を穢したいのではない。
……私に、触れたくてたまらないのだ。
黒い革の下にある素肌を、無意識に幻視する。
それはどれほど温かいのか。それとも、あの剣のように冷たいのか。
「おやすみ」
彼は背を向け、今夜もまた触れ合わない夜が始まる。
その背中は、どんな城壁よりも孤独に見えた。
第三章 呪われた皮膚
真実は、古い書物の匂いと共にではなく、一輪の薔薇の死によってもたらされた。
書斎。床に散らばる花弁の残骸。
ジークフリートが呆然と立ち尽くしている。
手袋の外された右手が触れた机の角が、黒く変色し、腐食していた。
生けてあった薔薇は、彼が触れた瞬間に生命を吸い取られ、灰と化していたのだ。
「……見るな」
声が震えている。
慌てて手袋を拾い上げ、呪われた手を隠す。
「私の皮膚は、触れるもの全ての生命力を奪い、壊死させる」
背を向けたままの独白。それは懺悔だった。
彼が一族を皆殺しにした理由。それは父王が、国民の命を薪にして永遠の繁栄を買う禁忌の魔術を発動させようとしていたから。
ジークフリートは、それを止めるために「処刑人」となった。
「俺は、愛するものを殺してしまう手を持っている」
拳を握りしめる。革が軋む音が、悲鳴のように聞こえた。
「だから俺は、誰にも触れない。誰からも愛されない。それが、俺の誠実さだ」
立ち尽くす。
憎むべき仇敵は、誰よりも命の重さを知り、誰よりもその温もりに焦がれる男だった。
私の父は狂王で、彼は孤独な守護者だった。
世界が反転する。
目に見えていた色彩がすべて嘘で、彼が纏う黒だけが、真実の愛の色だった。
胸の奥で憎悪が燃え尽き、その灰の中から、どうしようもない熱情が芽吹く。
彼は、毎夜、背中を撫でる真似事をしていた。そうしなければ狂ってしまいそうだったからだ。
殺意の刃ではなく、愛の刃を自らの喉元に突きつけながら生きてきた男。
「出て行け。俺は、化け物だ」
拒絶する声は、助けを求める子供のように弱々しい。
エリスは一歩、近づく。
床に落ちた薔薇の灰を踏みしめて。
第四章 命がけの抱擁
雷鳴が古城を揺らす。
だが、寝室の嵐に比べれば、外の豪雨など微風に等しかった。
ジークフリートが高熱にうなされている。
呪いが暴走し、彼自身の生命力を食らい始めたのだ。
シーツを掻きむしり、うわ言のように「来るな」と繰り返す。肌は溶岩のように熱く、血管が黒く浮き上がっていた。
「抗体」を持つ王家の血。
父王が求めた魔術の対価として、王族の血には呪いを中和する力が宿っている。
体液による融合。粘膜の接触。
それが彼を救う唯一の手段。
エリスは濡れたタオルを投げ捨て、寝台に這い上がった。
彼の上に跨る。
ジークフリートが混濁した意識の中で目を見開き、恐怖に顔を歪めた。
「エリス……だめだ、死ぬぞ……!」
突き飛ばそうと伸びた手が、空中で止まる。触れれば彼女を殺してしまうという本能が、理性を凌駕してブレーキをかけたのだ。
「いいえ。私があなたを殺させない」
身を屈め、拒絶の言葉を唇で塞ぐ。
落雷のような衝撃。
触れ合った唇から、膨大な熱量が流れ込んでくる。痛みであり、痺れるような快楽。
「んッ……!」
喉から獣のような唸り声が漏れる。
毒が、エリスの体内で蜜へと変わる。
死の呪いが、生の奔流となって循環を始める。
エリスは彼の手首を掴み、その黒い手袋を、指先からゆっくりと引き抜いた。
露わになった素手。
白く、長く、美しい指。
彼は怯えたように指を縮めたが、エリスはそれを許さず、自分の頬に押し当てた。
「あっ……」
声が重なる。
ジークフリートの指が、初めて人間の皮膚に触れた。
壊死などしない。そこにあるのは、脈打つ命の熱さと、滑らかな肌の感触だけ。
彼の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「温かい……」
震える指で、エリスの輪郭を、眉を、唇を、貪るように確かめる。
視覚などいらない。指先の感覚だけが世界の全てだった。
エリスもまた、彼の呪われた指がもたらす熱に溺れた。
背中を駆け上がる戦慄。魂の境界線が溶け出し、二つの命が一つに混ざり合う。
痛みは歓喜へ、恐怖は至高の愛へ。
外の嵐がかき消されるほど、二人の鼓動と荒い呼吸だけが部屋を満たしていた。
それはただの情事ではない。
互いの欠落を埋め合い、魂を削って形を作る、聖なる救済の儀式だった。
第五章 喪失と永遠
嵐は去った。
朝陽が射し込む窓辺で、ジークフリートは静かに目を開けた。
その瞳孔は、白く濁っていた。
呪いは消滅した。
代償として、彼は視力を、そして一騎当千と謳われた剣技を支える筋力を失っていた。
最強の処刑人は死んだ。
ここにいるのは、ただの無力な男だ。
遠くから、角笛の音が聞こえる。
王都の残党勢力が、城を取り囲んでいるのだ。「氷の処刑人」が弱った好機を逃すはずがない。
「ジークフリート」
エリスが剣を手に立っていた。かつて彼が、彼女の首に向けたあの剣だ。
ドレスの裾を裂き、長い髪を束ねている。
その立ち姿は、かつてのどの王族よりも凛々しく、美しかった。
「隠れていて。私の夫には、指一本触れさせない」
エリスは微笑み、部屋を出て行く。
扉が閉まる音。
ジークフリートは、見えない目でその方向を見つめ、自身の掌を握りしめた。
剣は握れない。だが、心にはかつてない力が満ちていた。
戦いは終わった。
城の庭園、風が若葉の香りを運んでくる。
エリスは芝生に座るジークフリートの元へ歩み寄った。
返り血を拭った彼女の気配に、彼は気づいて顔を向ける。
「無事か」
「ええ。あなたの剣、とても重かったけれど」
隣に腰を下ろす。
ジークフリートは手探りで手を伸ばした。
手袋のない、素の指先。
それが、エリスの首筋に触れる。
かつて、冷たい刃が当てられた場所。
今、そこにあるのは、不器用で、どうしようもなく温かい、愛する男の手のひらだった。
脈動が伝わる。
ドクン、ドクンと、生きている証が彼の指を打つ。
「何も見えない」
彼はエリスの首筋に額を寄せ、祈るように呟いた。
「だが、君の命の熱さだけは、痛いほどに分かる」
エリスは彼の手を自身の首に強く押し当て、その上に自分の手を重ねた。
視力を失った彼の瞳には、きっと、どんな色彩よりも鮮やかな「生」の炎が見えているのだろう。
咎人の首筋には、もう刃はいらない。
そこには、永遠に消えることのない、温かな愛の痕跡だけが刻まれていた。