聖女墜とし――救世主は、私を壊した張本人でした

聖女墜とし――救世主は、私を壊した張本人でした

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第一章 泥濘と宝石

鉛色の空が世界を圧し潰そうとしていた。

降り注ぐのは雨ではない。天が吐き捨てる唾棄だ。

石畳に叩きつけられたエリスの膝から、じわりと血が滲む。かつて純白を誇った聖衣は腐肉の臭いを吸い込み、重く冷たく、細い肢体にまとわりついていた。

「魔女め! 聖女の皮を被った売女が!」

罵声は耳鳴りのように鼓膜を打ち続ける。腐った野菜が頬で弾け、鈍い痛みと共に果汁が涙のように伝い落ちた。

断罪台の遥か高み。見下ろすのは、豪奢な衣装の元婚約者と、その腕に絡みつく実の妹。彼らの嘲笑だけが、鮮やかに色彩を帯びて網膜に焼き付く。

(……ああ、もういい)

エリスは瞳を閉ざす。心因性の沈黙が、彼女に残された最後の鎧だった。

首にかかる荒縄の感触。死は救済だ。この汚辱にまみれた呼吸を止めてくれるのなら。

――その時、雷鳴のような蹄の音が広場の空気を震わせた。

黒。

夜そのものを切り取ったような漆黒の馬車。降り立った男の纏う空気が、雨さえも凍りつかせる。

北の辺境伯、カイド。戦場で敵の肉を喰らうと噂される、「人喰い公爵」。

彼は衛兵の槍など見えぬかのように、悠然と断罪台へ歩みを進める。ブーツが泥を踏む音だけが、世界で唯一の律動となった。

カイドは処刑人の前で懐から革袋を取り出し、無造作に放り投げる。

袋が弾け、金貨が血飛沫のように散らばった。

「その肉塊(おんな)を買い取る。処刑の手間賃よりは高かろう」

聴覚ではなく骨髄に響く低音。

男は泥に汚れることなど意にも介さず、エリスの前に跪く。長い指が伸び、顎を強引に上向かせた。

至近距離で絡み合う視線。底のない湖のような暗い紫。そこには慈悲などない。あるのは、獲物の喉笛を狙う獣の飢えた光。

(ひっ……)

死への恐怖を超えた、生物としての根源的な警鐘。

彼の親指が、エリスの唇についた泥を乱暴に拭う。

「来い、元聖女。地獄の続きを見せてやる」

その指先は驚くほど熱かった。

冷え切った皮膚を焦がす不可解な熱。彼女は抗う術もなく、その黒い闇へと抱き上げられた。

第二章 氷解と焦らし

暖炉の爆ぜる音が、静寂を際立たせる。

最高級のビロード、羽毛の絨毯。監禁場所と呼ぶにはあまりに豪奢な一室。

「背中を」

短い命令に、エリスはシーツを胸元まで引き上げ、震える背を向けた。

拷問の際につけられた無数の鞭の痕。かつて神に祈りを捧げた肌は、今や無惨な地図と化している。

冷たい軟膏が触れ、直後、指の腹がそれを塗り込むように這った。

(……っ)

治療ではない。これは、確認だ。

彼は傷の一つ一つを、まるで手に入れた美術品を鑑定するように執拗になぞる。痛覚と奇妙な痒みが混ざり合い、背筋を電流が駆け上がった。

耳元にかかる吐息は、火傷しそうなほど熱い。

「酷い有様だ。だが……祭壇の上の石像だった頃より、今のほうがずっとそそる」

彼は決して一線を越えない。

ただエリスの尊厳を削り取るように、あるいは再構築するように触れるだけ。

軟膏を塗り終えた指が背骨の窪みを滑り落ち、腰のくびれで止まる。その接触面積から、彼という「雄」の圧倒的な質量が伝わってくる。

鉄と、古い紙と、微かな血の匂い。

その芳香に包まれるたび、張り詰めていた「聖女」としての理性が砂の城のように崩れていく。

「俺が欲しいのは、怯えた小鳥じゃない」

カイドが低い声で囁き、耳朶を甘噛みした。

「お前が自ら聖なる仮面を割り、俺の闇に堕ちてくるときだ。……それまでは、せいぜい焦がれていろ」

彼が離れ、部屋を出ていく。

残されたのは、指の跡だけが火照り、疼く、置き去りにされた身体。

ドアが閉まる音が、「待て」を命じられた犬への合図のように残酷に響いた。

第三章 共犯の契約

書斎の重い空気が、埃と共に舞う。

エリスは震える手で、その古い日記を握りしめていた。

偶然見つけた、カイドの少年時代の記録。

記されていたのは、飢えと寒さに凍えるスラムの少年が、遠くから行進する「聖女」を見た瞬間の、魂の救済と――歪な執着の萌芽。

『彼女は光だ。だが、光は遠すぎる。手に入れるには、地に落とすしかない』

ページをめくる指が止まる。

最近の日付。そこには、エリスを陥れた妹や婚約者への、莫大な資金援助の記録があった。

息が詰まる。

彼が救世主ではなかった。

彼こそが、エリスから翼をもぎ取り、泥沼へと突き落とした元凶だったのだ。

「見つけたか」

背後から、温度のない声。

カイドが悪びれる様子もなく立っている。その瞳は、獲物が罠の構造を理解したことを楽しむかのように昏く光っていた。

「どうだ? 崇拝していた聖女が、ただの女として泥にまみれ、俺の手の中で震えている気分は」

一歩、また一歩と距離が詰まる。エリスの背中が本棚にぶつかった。

憎悪か、恐怖か。

いや、違う。

胸の奥底で渦巻いたのは、どうしようもない「納得」だった。

誰もが「聖女」という役割だけを愛した。だが、この男だけは国を傾け、彼女の人生を破壊してでも、「エリス」という個体を欲したのだ。

その狂気はあまりに重く、背徳的で――そして、痛いほどに甘美だった。

エリスの瞳から一筋の涙が伝う。それは絶望ではない。共犯者としての、覚悟の雫。

第四章 決壊と捕食

王都の夜会。

漆黒のドレスに身を包んだエリスが足を踏み入れた瞬間、会場の空気が凍りついた。

かつての清廉な聖女ではない。夜の闇を纏い、妖艶な毒花のように咲き誇る「魔性の女」。

隣には、北の公爵カイド。エリスは静かに微笑み、青ざめる元婚約者たちへ冷ややかな視線を送る。

言葉など不要。

その圧倒的な美貌と、隣に立つ「怪物」の威圧感が、裏切り者たちの精神を粉々に粉砕した。

復讐は、一滴の血も流さず、ただ視線だけで完遂されたのだ。

帰りの馬車。

石畳の振動が二人の沈黙を揺らす。

張り詰めていた糸が切れたのは、どちらが先だったか。

カイドが荒々しくエリスを引き寄せ、その唇を塞いだ。それは接吻というより、捕食。

エリスもまた、彼の髪に指を絡ませ、貪るように応える。復讐の高揚感が猛烈な渇望へと変質していた。

城へ戻るや否や、寝室の扉が蹴り開けられる。

ドレスが引き裂かれ、床に散る音さえも情熱の薪となった。

「……カイド……っ」

初めて、喉から彼の名が漏れる。

その掠れた音を聞いた瞬間、カイドの理性という最後のタガが外れた。

「……名を呼べ。俺の罪も、罰も、すべてお前の中に溶かしてやる」

彼が覆いかぶさる。

傷だらけの肌に、熱い皮膚が吸い付く。

直接的な結合などなくとも、互いの存在が溶け合い、境界線が消失していく感覚。

カイドの指が、唇が、秘められた場所を執拗に暴き、甘い蜜を啜り上げる。

痛みと快楽。聖性と背徳。相反するものがスパークし、脳髄を白く焼き尽くした。

「あ、あっ、あ……!」

弓なりになり、彼の背に爪を立てる。

その痛みさえも愛おしいとばかりに、カイドは唸り声を上げ、彼女の全てを侵食していく。

それは、欠けた魂同士が互いの隙間を埋め合うための、痛切な儀式だった。

第五章 聖痕の熱

窓から差し込む朝陽が、乱れたシーツと絡み合った二つの影を淡く照らしていた。

エリスは目覚め、隣で眠る男を見つめる。

冷酷な人喰い公爵の仮面を外し、無防備な寝顔を晒す彼。その首筋には、昨夜エリスがつけた爪痕が赤く残っている。

彼女はもう、聖女ではない。

国を捨て、名誉を捨て、清らかな過去もすべて焼き払った。

手元に残ったのは、世界中から後ろ指を指される「背徳者」の烙印と――この男の体温だけ。

カイドの睫毛が震え、暗い瞳が開かれる。

彼はエリスを見とめると、満足げに目を細め、その腰を抱き寄せた。

「……おはよう、俺の共犯者」

低い声に、胸が甘く締め付けられる。

失ったものは多い。けれど、空っぽだった聖女の器は、今、確かな熱で満たされていた。

世界中が敵に回っても構わない。この薄暗い寝室の、吐息が触れ合う距離こそが、彼女にとっての唯一の真実なのだから。

エリスは微笑み、愛しい罪人の胸に頬を埋めた。

聖痕(きずあと)はもう痛まない。そこには、彼が刻みつけた愛の熱だけが、永遠に脈打ち続けていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • エリス:かつての聖女。濡れ衣により全てを失うが、カイドの歪んだ愛を受け入れ、清廉潔白な偶像から「一人の女」へと脱皮する。彼女にとって「墜落」とは、聖性の呪縛からの「解放」と同義である。
  • カイド:北の辺境伯。幼少期に見たエリスに魂を奪われ、彼女を手に入れるためだけに国を傾け、彼女を破滅させた狂気の演出家。「人喰い」の異名は、他者の人生を喰らう彼の本質のメタファーでもある。

【物語の考察】

  • 泥と金貨:冒頭で散らばる金貨は、エリスの価値を「肉塊」へと貶めると同時に、彼女の人生をカイドが「買い取った(所有権の移行)」ことを視覚的に象徴している。
  • 傷跡(聖痕)の再定義:かつて拷問の証でしかなかった傷跡は、カイドが愛撫し軟膏を塗る行為を通じて、二人だけの愛の記録へと意味を変質させる。痛みは快楽へ、恥辱は恍惚へと反転する。
  • 共犯関係:一般的な「救済劇」に見えるが、実態はカイドによるマッチポンプである。しかし、エリスがその真実を知った上で彼を受け入れた瞬間、被害者と加害者の関係は崩れ、世界を敵に回す「共犯者」としての愛が成立する。
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