第一章 救済という名の捕食
雨がアスファルトを叩く。その冷たいリズムだけが、部屋に残された唯一の時計だった。
湿ったカビと、生乾きの洗濯物の匂いが淀む寝室。女はベッドの縁で、しわくちゃの子供用Tシャツを握りしめていた。関節が白く浮き出るほどに。
ノアは、音もなく背後に立つ。
映写機からこぼれた幻影のように、重力を持たない靴底。
「準備はいいですか」
鈴を転がすような声に、温度だけが抜け落ちている。
女は振り返らない。喉の奥で煮詰まった嗚咽が、言葉になるのを拒んでいた。
ノアは躊躇わず、その背中へ右手を沈める。
肉を裂く音はない。白磁の指先は水面を揺らすように肋骨をすり抜け、肺をかわし、心臓のさらに奥底へと没入する。
触れた。
熱く、痛く、鋭利な棘を持つ塊。
――見つけた。
手首を返す。女の背が弓なりに反り、肺から空気が弾き出された。
引き抜いた掌には、一粒の「石」が乗っている。
琥珀色の結晶。中心で黒い煙が渦を巻くそれは、ブレーキ音と悲鳴、そして喪失の瞬間の凝縮だ。
ノアはそれを飴玉のように口へ放り込む。
ガリッ。
奥歯で噛み砕く音が、静寂を裂いた。
舌の上に広がるのは、錆びた鉄の味と、涙の塩気、焦げ付いたゴムの風味。
(ああ、不味い)
反吐が出るほど不味くて、震えるほどに極上だ。
喉仏が上下し、他人の絶望が胃袋へと滑り落ちる。途端、女の肩から糸が切れたように力が抜けた。
ゆっくりと顔を上げる。
充血していた瞳から赤みが引き、涙を拭うと、彼女は不思議そうに周囲を見回した。
視線が、手元のTシャツに落ちる。
「……あれ?」
女は首をかしげ、それを摘まみ上げた。汚れた雑巾を見る目つきで。
「どうして、こんなゴミがここにあるのかしら」
躊躇なくゴミ箱へ放り捨てる。昨日まで遺影が飾られ、毎朝水が供えられていた勉強机へ歩み寄り、顔をしかめた。
「この机も邪魔だわ。物置に片付けてしまわないと」
彼女は振り返る。憑き物が落ちたような、能面のように滑らかな笑顔があった。
「ありがとう、先生。なんだか肩が軽くなったみたい」
ノアは微笑み返す。鏡の前で何度も練習した、完璧な角度で。
「それは何よりです」
部屋を出る背後で、女が鼻歌を歌い始めた。
ゴミ箱の中、主を失ったTシャツだけが、死体のように静かに丸まっていた。
第二章 硝子の心臓
錆びついたクレーンの影が、夕暮れの地面に長い爪痕を残す倉庫街。
エヴァは防波堤で海を見ていた。彼女の周囲だけ空気が歪んでいるのは、その強烈な「匂い」のせいだ。
熟れすぎた無花果。腐敗寸前の、芳醇な甘い香り。
ノアは喉の渇きを覚える。
これほどの「悲しみ」は見たことがない。何年も熟成され、発酵し、全身の血管を巡っている。
「隣、いいかな」
エヴァは海から目を離さず、小さく頷いた。銀色の髪が潮風に乱暴にかき乱されている。
ノアは隣に座り、鼻腔をくすぐる香りを肺一杯に吸い込んだ。胃袋が痙攣し、飢餓が悲鳴を上げる。
「きみは、痛そうだ」
エヴァが初めてこちらを見た。その瞳は、海底の砂のように灰色で、静謐だった。
「痛いわ」彼女は事もなげに言う。「息をするたびに、ガラスの破片を吸い込んでいるみたい」
「僕なら、それを取ってあげられる。忘れさせてあげるよ。その痛みも、痛みを与えた記憶も、すべて」
エヴァの目が細められる。明確な拒絶。
「忘れる? これを?」
胸元を強く掴む。
「お断りよ。この痛みは、あの人たちが生きていた証拠なの。痛みがなくなったら、本当に死んでしまう」
「でも、きみが壊れてしまう」
「壊れてもいい。忘れるくらいなら、私は毎日血を流すほうを選ぶ」
差し出した手が空中で止まる。
理解できない。人間は皆、忘れたがるはずだ。だからこそ、自分のような怪物が生まれたのではなかったか。
「……変な人だ」
手を引っ込めても、立ち去ることはできなかった。
「ねえ」エヴァが言った。「あなた、空っぽなのね」
「え?」
「あなたの目。何も映っていない。鏡みたい」
彼女はノアの顔を覗き込む。「あなた自身には、泣きたい思い出も、誰かを愛した記憶もないんでしょう?」
心臓のあたりが、ひやりとした。
図星だった。ノアにあるのは他人が捨てた記憶の残骸、腹に詰めた数千人分の「悲しみ」だけ。
自分は、ただのゴミ箱なのかもしれない。
海が黒く染まっていく。
隣のエヴァの体温だけが、冷たい風の中で唯一の確かな熱源だった。
その熱に触れたいと焦がれる自分と、その内側にある悲しみを食い破りたいと願う飢餓との間で、ノアは身動きが取れなくなっていた。
第三章 琥珀の中の腐敗
異変は指先から始まった。
朝、コップを持とうとした手が泥のように崩れた。皮膚が溶解し、現れたのは骨や肉ではなく、コールタールのような黒い粘液。
「……ッ、ガ、ア……!」
激痛ではない。内側から何かが押し出してくる、強烈な圧迫感。
洗面所のシンクに突っ伏し、激しく嘔吐する。
吐き出されたのは、消化しきれなかった「記憶」の断片。誰かの泣き声、線香の匂い、千切れたラブレター。
それらが黒いヘドロとなって排水溝へ流れ込み、詰まって逆流する。
電話が鳴った。
震える手で、泥に戻りかけた指で受話器を取る。
『……先生?』
第一章の女の夫からだ。
『妻が、動かないんです。呼吸も脈もある。でも、朝からずっと壁のシミを見つめたまま、瞬きもしない。水を飲ませようとしても口を開かない。まるで植物みたいに……』
受話器の向こうで、「あー」とも「うー」ともつかない、虚ろな音が聞こえる。それは人間が発する声ではなかった。
受話器を取り落とす。
理解した。
自分は「治療」などしていなかった。悲しみを摘出するとき、彼らの魂を繋ぎ止めている「根」までも引き抜き、食らっていたのだ。
悲しみとは、愛情の裏返し。
失った悲しみを奪うことは、かつて愛したという事実そのものを奪うこと。
愛を失った人間は、もはや人間としての輪郭を保てない。
鏡の中には、美青年など映っていなかった。
無数の他人の顔が、皮膚の内側からグロテスクに浮き出ている。老婆、少年、男。
彼らが口々に叫んでいた。
「返せ」「忘れたくない」「痛くてもいい」「あれは私の人生だ」
ノアの腹部が大きく波打つ。
かつて食べた琥珀色の結晶たちが胃の中で腐敗し、ガスを発生させ、今にも身体を突き破ろうとしている。
聖者ではない。
ただの記憶の墓場。死肉を漁るハイエナよりもタチの悪い、魂の寄生虫。
「う、あああああ……!」
背中が裂け、血の代わりに黒い霧が噴き出した。
第四章 世界で一番美しい嘔吐
街は悪夢に沈んでいた。
ノアから溢れ出した黒い霧が通りを侵食し、アスファルトから枯れた巨木が生え、信号機は誰かの遺骨に変わる。
交差点の中心、瓦礫の山にノアはいた。
もはや人の形をしていない。黒い泥でできた巨人と化し、体表に浮かぶ数千の口が絶叫している。
「ママ、行かないで!」「許してくれ!」「愛してる!」
轟音と暴風の中、エヴァが歩いてくる。
飛んできたガラス片で頬に赤い筋が刻まれている。だが、足取りは止まらない。
「来ちゃダメだ!」
巨人の喉元、ノアの「核」が叫ぶ。「僕はもう君を食べるしかない! 逃げろ!」
本能が暴走する。目の前の極上の悲しみを喰らいたい。
意思に反して伸びた巨大な泥の手が、エヴァを掴もうとした瞬間――彼女はその指先へと飛び込んだ。
「ばか……!」
ヘドロにまみれながら、エヴァは巨人の指にしがみつく。
「痛いでしょう、ノア!」
その声は暴風を切り裂いて届いた。
「痛い……痛いよ……!」
「それが、生きているってことよ!」
エヴァは泥の中から這い出てきたノアの顔を、両手で挟み込んだ。彼女の熱が、氷のように冷え切った頬を焼く。
「私が持っていた痛みを、あなたは『可哀想』だと言った。でも見て。痛みこそが私をここに立たせている。痛みこそが、あなたを人間にしている!」
ノアの目から、黒い雫がこぼれ落ちた。
これは誰の涙だ? 違う、これは。
怖いと震えている、ノア自身の涙だ。
「怖い……エヴァ、君を傷つけるのが怖い……!」
初めて芽生えた感情。空っぽだった器に「恐怖」と、それを上回る「愛おしさ」が満ちていく。
その感情は、どんなに甘美な悲しみよりも強烈で、鮮烈な味がした。
限界だった。このままではエヴァごと世界を飲み込んでしまう。
ノアはエヴァの瞳を見つめた。灰色の瞳に映る醜い自分。それでも彼女は微笑んでいた。
「ありがとう、エヴァ」
膨張するエネルギーを、内側へ圧縮する。
飲み込んできた全ての悲しみ、苦しみ、絶望を、消化するのではなく、逆流させるために。
「ダメ!」エヴァが叫ぶ。
「これは、僕の意志だ」
ノアの体が内側から発光する。琥珀色の光。かつて飲み込んだ悲しみたちが、本来の持ち主へ帰ろうとして輝きだす。
「見ろ、エヴァ。これが人間の色だ」
音さえも置き去りにする閃光が、街を包み込んだ。
ノアの肉体は弾け飛び、光の粒子となって拡散していく。雪のように降り注ぐ、記憶の欠片たち。
植物状態だった母親の元へ。心を失っていた人々の元へ。
光が胸に戻った瞬間、死んだような静寂が破られた。
「あぁ、あぁぁぁッ!」
「ごめん、ごめんなさい……!」
「会いたいよぉ……!」
あちこちから上がる悲鳴と慟哭。地獄のような光景。
けれどそれは、無機質な沈黙よりはずっとマシな、生きた人間の産声だった。
光が収束した後、港の倉庫街には朝焼けだけが残っていた。
エヴァは一人、防波堤に座っている。
隣には誰もいない。ただコンクリートの上に、薄っすらと琥珀色に焦げた跡があるだけだ。
胸の奥にある古傷のような痛みは、消えていなかった。
だが、その隣に新しい、焼けるような喪失感が加わっている。
「……バカね」
エヴァは隣の空席にそっと手を置いた。
そこには、確かな温もりが残っていた。
瞳から溢れた涙が頬を伝い、コンクリートに落ちる。
その一滴は朝日を浴びて、宝石のようにキラキラと輝いていた。
世界は残酷で、どうしようもなく痛みに満ちている。
だからこそ、こんなにも美しいのだと、彼女は初めて知った。