脳髄の建築家、あるいは共犯者

脳髄の建築家、あるいは共犯者

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第一章 琥珀色の罪

意識の底へ沈む感触は、古書と埃、そして静寂の質量に似ている。

アベル・グレイの網膜を灼いたのは、溶けた杏のジャムをぶちまけたような、暴力的なまでの夕暮れだった。

彼は指揮者のように指先を振るう。雲の切れ端を右へ。光の入射角を微調整し、風の温度を二度上げる。完璧だ。

依頼主、アーサー・ヴァレンタイン。死の淵にある老富豪が見るべき「最期の夢」は、人生のすべてが美しかったと錯覚させる極上の虚構でなければならない。

「さて、仕上げだ」

黄金の麦畑を歩くアベルの鼓膜を、違和感が刺した。

完璧なパースペクティブの消失点に、あるはずのない「異物」が鎮座している。

扉だ。

重厚な樫の扉が、何もない空間にぽつんと立っている。設計図にはないバグ。あるいは、クライアントの深層心理が吐き出したノイズ。

近づき、ノブに手を伸ばしかけて――指先が粟立った。

隙間から漏れるのは、甘い麦の香りではない。鉄錆と、酸化した脂の臭気。屠畜場の床の匂いだ。

――ヒッ、ウ……。

風音ではない。押し殺した子供の嗚咽。

夕陽の琥珀色が、不意に凝固した血の色に見え始めた。

この美しい世界の下には、致命的な汚物が埋まっている。

第二章 綻び

現実への帰還は、急浮上の減圧症に似た吐き気を伴う。

ヘッドギアを外したアベルを、冷ややかな視線が射抜いた。

「心拍数が異常よ。トラブル?」

リナ・ヴァレンタイン。祖父を見下ろす彼女の瞳は、青い硝子細工のように冷徹だ。

「小さなノイズだ。すぐに除去する」

アベルは震える手で水を煽った。あの扉は、安らかな死出の旅路には不要だ。彼の美学が許さない。

キーボードを叩く。『対象オブジェクトの削除』。

単純なコマンド。だが、警告音が鳴り響く。モニターの中の夕暮れが、ひび割れたガラスのように砕け始めた。

「何をしているの!?」

リナが叫ぶ。「祖父の脳波が乱れているわ」

「バグが……根深い」

消そうとするほど、扉は存在感を増し、世界を浸食する。まるで癌細胞だ。

「祖父は、誰かを殺したのよ」

リナの言葉に、アベルの指が止まる。

「母は失踪したんじゃない。消された。私はそれを証明するためにあなたを雇ったのかもしれない」

彼女の視線は、職人のプライドではなく、その奥の良心を抉ろうとしていた。

顧客の安寧か、真実か。

アベルは再びヘッドギアを被った。

「確かめてくる」

嘘だ。ただ、あの血の匂いの正体を、潔癖な自分の目で確認せずにはいられなかったのだ。

第三章 共犯者

脳内世界は嵐に変わっていた。

暴風の中、あの扉だけが屹立している。

ノブを回す。世界が反転した。

湿った地下室。鼻をつくカビと血。明滅する裸電球が、コンクリートの床に広がる赤黒い水溜まりを照らす。

そこに、かつて女性だった肉塊があった。

「あ、ああ……」

口元を覆う。だが、真の恐怖は死体ではない。

その傍らに立つ男だ。

ゴム手袋をはめ、無感情に凶器を処理する、二十代半ばの男。

男がふと顔を上げ、入り口のアベルを見た。

喉から、悲鳴にも似た呼気が漏れる。

その男は、若き日のアベル・グレイ自身だった。

記憶の堰が切れる。

二十年前。駆け出しの「掃除屋」だった自分。大金で請け負ったのは、老人の脳内からの殺人の隠蔽。

あまりに完璧な仕事ゆえに、アベルは自らの罪の意識さえも「副作用」として消去していたのだ。

私は建築家ではない。

私は、ただのもみ消し屋だった。

第四章 崩落

「うあ、あああぁぁッ!」

現実のアベルが弓なりに跳ねる。

脳内世界がメルトダウンを起こしていた。封印された核が露出し、すべての虚構を焼き尽くす。

天井が剥がれ、記憶の破片が降り注ぐ。

『逃げろ』

接続を切れば助かる。証拠は闇に消え、自分の罪も灰に埋もれる。それが一番「綺麗」だ。

だが、記憶の中の若きアベルが、淡々と死体を処理し続けている。

その冷徹さが、今の自分を激しく嘔吐させた。

(また、見なかったことにするのか?)

アベルは崩落する床を這った。

出口ではない。記憶の核心――二十年前の自分が隠した「証拠」へ。

炎がニューロンを焼き切る。痛い。熱い。

それでもアベルは手を伸ばした。

瓦礫に砕かれそうな指で、記憶の中の「真実」を鷲掴みにする。

第五章 灰の中の光

手首には、冷たい手錠が嵌められている。

隣のベッドでは、アーサー・ヴァレンタインが息を引き取っていた。

アベルが命がけで抽出し、リナに渡したデータ。そこには老人の罪と、一瞬の悔恨が記録されていた。

美しい夕暮れではない。泥と血に塗れた、醜い真実。

「警察へ行くわ」

リナの目は赤く腫れていたが、その瞳の透明度は増していた。

「あなたの証言とこのデータがあれば、すべて明らかになる。……ありがとう。祖父も、これでやっと本当に眠れる」

扉が閉まる。

地位も、財産も、自由さえも失った。

だが、不思議だ。二十年来、心の奥底で鳴り響いていたノイズ――あの子供の泣き声が、消えている。

アベルはパイプ椅子に背を預け、目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、極彩色の偽りの夕暮れではない。

ただの、静かで、何もない闇だった。

「……悪くない」

彼は深く息を吐き、久しぶりに、泥のない眠りへと落ちていった。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • アベル・グレイ: 記憶建築士。極度の潔癖症であり完璧主義者。「汚れ」を嫌う彼が、実は最も汚れた過去を持っていたという皮肉な存在。記憶を消すことで、自身の良心さえも麻痺させていた。
  • リナ・ヴァレンタイン: 依頼主の孫娘。感情に流されない冷徹な観察眼を持つ「青い硝子」。彼女の瞳はアベルにとっての鏡であり、彼が目を逸らし続けてきた真実を映し出す装置として機能する。

【物語の考察】

  • 「扉」の象徴性: 美しい風景(虚構)の中に現れた異物としての扉は、抑圧されたトラウマの具現化であると同時に、アベル自身のパンドラの箱でもある。
  • 色の対比: 「琥珀色(夕暮れ/偽りの平穏)」と「赤黒い色(地下室/血と罪)」の対比。アベルは最終的に、そのどちらでもない「無色の闇(安らぎ)」を手に入れる。
  • テーマ: 「幸福な嘘」と「残酷な真実」の天秤。アベルは全てを失うことで、逆説的に自分自身の魂を取り戻した。
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