第一章 硝子の喉
午前三時。雨は、酸化した銅貨の匂いがした。
レンジは鏡の中の虚像を睨み、右の目頭を親指で圧迫する。三秒。涙腺がポンプのように収縮し、頬の産毛を透明な珠が滑り落ちた。
塩分濃度、粘度、屈折率。すべてが完璧な「悲劇」の品質。
彼は遺族の代わりに慟哭する「泣き屋(Crier)」だ。
喉には硝子の破片が詰まっている。そう信じ込まなければ、他人の不幸で飯は食えない。
濡れたアスファルトを滑るように現れたハイヤーから、石膏めいた女が降り立つ。
エレナ。夫を殺された未亡人。
「あなたが、レンジさん?」
氷の板を滑る鉄球のような響き。
「涙が出ないのです。夫が刺し殺されたというのに」
「涙は心の排泄物です。私が代わりに流しましょう」
斎場は百合の腐臭とドライアイスで白く濁っていた。
レンジはハンカチを握りしめ、棺へ近づく。
プランは驚愕、拒絶、そして瓦解するような受容。
棺を覗き込む。
死に化粧の施された青白い顔。左の眉尻から耳へ走る古傷。
レンジの心臓が、肋骨を内側から殴打した。
演技ではない。指先の血流が逆流し、視界の端が黒く焼け焦げる。
その男は。
十年前にレンジの最愛の妹を轢き殺し、闇夜へ消えた逃亡犯。
「ガ……」
喉の奥が軋む。こみ上げたのは悲哀ではない。臓腑で煮えたぎる憎悪だ。
胃液がせり上がり、棺の木枠をミシリと握りしめる。
背後でエレナが囁いた。
「いい表情。まるで、本当に彼を愛していたみたい」
振り返ることはできない。
顔面の筋肉が痙攣し、勝手に涙が溢れ出していた。
それは彼が売ってきた「商品」ではない。
復讐の味がする、熱湯だった。
第二章 断罪の書
通夜の席、レンジは焼香の煙に巻かれていた。
床に額をこすりつけ、慟哭を演じながら、眼球だけは冷徹に周囲を観察する。
(地獄へ落ちろ。妹を奪い、のうのうと家庭を持った男よ)
ハンカチで嗚咽を漏らすふりをし、ポケットの録音ボタンを押した。
この男、カズヤの罪を暴く。聖人君子の仮面を、葬儀のクライマックスで剥ぎ取ってやる。
控室に戻ると、カズヤの遺品が入った段ボールを漁った。
手帳を開く。毎月二十五日、給料日の横に記された『R』の文字と送金記録。
受取人は架空のNPO。だが住所は、かつてレンジが住んでいたアパートの私書箱と一致する。
妹の命日に届いた名無しの花束。困窮した時に届いた支援金。
すべて、この男か。
「罪滅ぼしか」
唇を噛み切り、鉄の味が広がる。
金で許されると思ったのか。怒りを薪にくべようとするが、火がつかない。
カズヤの穏やかな死に顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
「レンジさん」
ドアの隙間からエレナが見ていた。
「あなたの泣き声を聞いていると、胸のつかえが取れる。……彼はずっと、何かに怯えていたから」
レンジの喉元で、復讐心と得体の知れない違和感が衝突した。
第三章 反転する傷
告別式の朝。空は低く、カラスの群れが不吉な幾何学を描く。
レンジは書斎で見つけた大学ノートを握りしめていた。
表紙には『贖罪』。
震える指でページを開く。
『あの日、俺は見た。少年が妹の手を引き、道路へ飛び出すのを』
呼吸が止まる。文字が視界で踊り狂う。
『少年はふざけて妹を突き飛ばした。そこへ俺の車が通りかかった』
『ブレーキは間に合わなかった。少年は恐怖のあまり記憶を改竄し、「あいつがやった」と俺を指差して叫んだ』
記憶の蓋が、暴力的にこじ開けられる。
ブレーキ音。鈍い衝撃音。
――お兄ちゃん、やめて。
――へいきだよ、見ててごらん。
背中を押した、自分の掌の感触。
「あ……、あぁ……」
レンジは膝をつき、胃の中身を床にぶちまけた。
殺したのは、自分だ。
カズヤは、パニックで罪をなすりつける少年の嘘を、その場で飲み込んだのだ。
一人の少年の精神が崩壊せぬよう、彼は「悪人」を演じ、十字架を背負い続けた。
「知っていたのね」
エレナが入り口に立っていた。
「夫はすべて話してくれた。いつかあなたが、自分の足で立ち、罪と向き合える日を待っていた」
レンジは床を掻きむしった。
被害者だと思い込んでいた十年。流してきた無数の涙。
すべてが己の罪から目を逸らすための、おぞましい欺瞞。
「なんで……俺を雇った。真実を突きつけ、殺すためか」
「許すためよ。彼がそうしたかったように」
エレナが跪き、汚れた手を包み込む。
「そして、私自身も許されたかった」
第四章 魂の絶叫
声が出ない。
喉の硝子が粉々に砕け、声帯を切り裂いている。
レンジは喪服を脱ぎ捨て、裏口へ走ろうとした。
ここから遠い場所へ。誰も自分を知らない場所へ。
「逃げるの?」
エレナが遺影を抱いて立ちはだかる。
「彼が背負った十年の重み。それを、ただの逃亡で終わらせるつもり?」
ドアノブの冷たさが掌の熱を奪う。
「泣いて」
それは命令ではなく、祈りだった。
「演技はいらない。あなたの本当の涙で送って。そうじゃなきゃ、彼は永遠に『殺人者』のままよ」
レンジはドアノブから手を離した。
第五章 愚か者の葬列
斎場は満席だった。
レンジは演台に立つ。マイクが拾う荒い呼吸音。
用意された弔辞はない。
照明が熱い。視線が痛い。
レンジは大きく息を吸い、人生で最も残酷で、美しい嘘をつき始めた。
「彼は……私の、恩人でした」
声が震える。魂が振動している。
「私はかつて、取り返しのつかない罪を犯しました。しかしカズヤさんは、何も言わずにその重荷を肩代わりしてくれた」
会場がざわめく。
レンジは遺影を見据えた。
「彼は、大馬鹿野郎です。他人の十字架を勝手に背負い、泥をかぶり、それでも笑って生きていた。そんな愚かで、どうしようもなく優しい男でした」
真実は語らない。だが、そこにある「重み」だけは本物だ。
堰を切ったように液体が溢れ出す。
計算も、技術もない。
顔を歪め、鼻水を垂らし、子供のように泣きじゃくる。
「うあ、あああぁぁぁ……ッ!」
その慟哭は、内臓の底から絞り出された。
会場の空気が振動し、参列者の胸を打つ。
最前列でエレナが顔を覆い、肩を震わせていた。
その涙は夫への愛であり、レンジへの赦しだった。
読経さえかき消す号泣が、凍りついた時間を溶かす熱い濁流となって斎場を支配した。
◇
雨が上がっていた。
雲の切れ間から差す陽光が、水たまりに反射して眩しい。
ネクタイを緩めたレンジは、斎場の出口に立っていた。
「泣き屋」の看板は、もう下ろした。
「行くのね」
エレナの表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「ええ。借りたままじゃいられない」
レンジは空を見上げる。
喉の痛みは消えない。だがその痛みこそが、罪を背負って歩くための杖になる。
「ありがとう」
その言葉を背中で受け止め、歩き出す。
泥濘んだ道を踏みしめる足音が、新しい鼓動のように響いた。
頬を伝うのが雨の雫か、名残の涙か。
彼はもう拭おうとはしなかった。