第一章 身代わりの初夜
重厚な扉が閉まる音が、まるで牢獄の錠が下りたように響いた。
私は豪奢なキングサイズのベッドの端に腰掛け、震える指先を膝の上で強く握りしめる。シルクのネグリジェはあまりに薄く、肌を滑る冷たい空気が、今の心許ない立場を残酷に知らしめていた。
「……逃げた姉の代わりに、地味な妹が座っているとはな」
低い、地を這うようなバリトンの声。
九条カイリ。この国の経済を牛耳る九条家の若き当主であり、今日、私の姉と結婚するはずだった男。
私は弾かれたように顔を上げた。
「も、申し訳ありません……! 姉さんは、その、急に……」
言い訳など通用しない。姉は愛人と駆け落ちしたのだ。家の面子を保つため、急遽、妹である私がベールを被らされた。
カイリ様がゆっくりと近づいてくる。
彼の美貌は彫刻のように整っているが、瞳の奥には凍てつくような闇が渦巻いていた。冷徹公爵、氷の帝王。彼を形容する言葉はどれも恐ろしいものばかりだ。
罵られる。
あるいは、放り出される。
覚悟をして目を閉じた私の顎を、大きく武骨な手が強引に上向かせた。
「ひっ……」
「目を開けろ、ミオ」
名前を呼ばれたことに驚き、涙で潤んだ瞳を開く。
そこにあったのは、軽蔑でも怒りでもなかった。
獲物を見つけた猛獣のような、ぎらついた飢餓感。
「……あ、あの……?」
「いい匂いだ」
カイリ様は私の首筋に顔を埋め、深く、長く、息を吸い込んだ。熱い吐息が敏感な皮膚にかかり、背筋に電流のような痺れが走る。
「カ、カイリ様……っ、近いです……」
「お前は知らないだろうな。お前が調合する香水の香りが、どれほど俺を狂わせてきたか」
彼は私の腰に腕を回し、逃げ場を塞ぐように身体を密着させた。硬い胸板の感触と、彼から漂う白檀とムスクの重苦しい香りが、私の思考を鈍らせていく。
「姉など最初からどうでもよかった。俺が欲しかったのは、その地味な殻の中に隠された、極上の蜜だけだ」
耳元で囁かれた言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
姉が逃げることも、私が代わりに来ることも、すべて計算通りだったというの?
「さあ、契約履行の時間だ。逃がさないよ、俺の可愛い花嫁」
第二章 逃げ場のない愛撫
抵抗しようとした両手首は、片手で容易く頭上に縫い止められた。
圧倒的な体格差。力の差。
「や……っ、待っ……!」
「待てない。何年待ったと思っている?」
カイリ様の唇が、私の喉元、鎖骨、そして胸元へと這い回る。それはキスという生温いものではなく、所有印を刻み込むような捕食行為だった。
「んっ、ぁ……!」
薄いシルク越しに、彼の熱い掌が素肌を愛でる。執拗に、ねっとりと。まるで陶磁器の表面を確かめるように、指先が脇腹からくびれ、そして太腿へと滑り落ちていく。
「いい声だ。もっと聞かせろ」
彼は愉悦に歪んだ笑みを浮かべ、私の反応を一つ残らず観察していた。
羞恥で顔が沸騰しそうだ。
けれど、彼の指が触れるたび、身体の奥底から得体の知れない熱が湧き上がり、理性を溶かしていく。
「嫌か? ミオ」
問いかけながらも、彼の手つきは止まらない。いや、むしろ激しさを増していく。
「い、や……嫌じゃ、ない……けど……」
「素直でいい子だ」
チュッ、と音を立てて唇を吸われる。
彼の舌が強引に私の口内を割り開き、絡みついてきた。逃げようとする舌を捕まえ、吸い上げ、唾液を交換する濃密な口づけ。息継ぎの隙間さえ与えられず、私は酸素を求めて彼の背中にしがみつくしかなかった。
頭がくらくらする。
視界が白く明滅する。
(これが、カイリ様……?)
冷徹だなんて嘘だ。今の彼は、まるで灼熱の炎そのもの。触れるものすべてを焼き尽くし、灰になるまで離さないような、重く、粘着質な情熱。
「ミオ、お前は俺のために香りを創り、俺のためだけに咲けばいい」
彼の指が、秘められた蕾の輪郭をなぞる。
「あぁっ! だ、め……っ!」
「ダメじゃない。お前の身体も、心も、もう限界だろう?」
焦らされるような微弱な刺激。直接触れられているわけではないのに、その寸止めの愛撫が、かえって私の渇きを煽った。
欲しい。
もっと、奥まで。
そんな淫らな願いが脳裏をよぎり、私は自分の浅ましさに愕然とする。
けれど、カイリ様はそんな私の葛藤さえも見透かしたように、獰猛に目を細めた。
「その顔だ。理性が飛びそうで、必死に耐えているその顔が……ゾクゾクするほど唆る」
第三章 融解する境界線
「カイリ様、お、ねがい……」
何を願っているのか、自分でも分からない。ただ、この宙ぶらりんな苦しさから解放されたかった。
体液が巡る音が聞こえるほど、心臓が早鐘を打っている。
全身が火照り、汗ばんだ肌がシーツに張り付く。
「焦れるな。俺がすべて教えてやる」
カイリ様が私の両足の間に身体を割り込ませた。彼の存在感、その熱き楔のような重みが、私の最も柔らかい部分に押し当てられる。
「ひグッ……!」
まだ、何もされていない。ただ触れ合っているだけ。それなのに、あまりの熱量に腰が跳ねた。
「震えているな。怖いか? それとも、期待しているのか?」
「わ、わかり、ません……っ、でも、熱い、の……」
「そうか。なら、その熱でおかしくなってしまえばいい」
彼の言葉を合図に、世界が反転した。
一線を越える痛みは一瞬で、すぐに波のような快楽に塗り替えられていく。彼が動くたび、私の内側の柔らかい肉が彼を締め付け、彼もまた私を深淵へと引きずり込んでいく。
「あッ、ぁあッ、かい、リさま……ッ!」
「名前を呼べ。俺だけを見ろ。他のことなど考えるな」
命令口調だが、その声は懇願に近かった。
何度も、何度も、一番深い場所をノックされる。そのたびに、私の輪郭が溶けて、彼と混ざり合っていくような錯覚に陥る。
重い。
苦しい。
けれど、満たされている。
「ミオ……愛している。ずっと、お前を閉じ込めたかった」
彼の執着は、暗く、深く、そして甘い毒のようだった。その毒が全身に回り、私はもう、彼なしでは息ができない身体に作り変えられていく。
「わたし、も……カイリ様、が……」
言葉にならない声を上げながら、私は彼の背中に爪を立てた。
痛みと快楽の境界線が消える。
羞恥と悦びの境界線が消える。
意識が弾ける寸前、彼が私の耳元で低く囁いた。
「堕ちろ、ミオ」
その言葉は、呪縛のように私の魂を縛り付けた。
第四章 永遠の鳥籠
翌朝、目が覚めたとき、私はカイリ様の腕の中にいた。
窓からは柔らかな朝日が差し込んでいるが、この部屋の空気はまだ昨夜の熱を孕んで重たい。
身体の節々が痛み、気怠い。首筋や鎖骨には、彼が刻みつけた赤い花弁のような痕が無数に散らばっている。
「……逃げられないな」
寝ているはずの彼が、不意に目を開けた。
その瞳は、昨日と同じく、暗い執着の炎を宿している。
「おはよう、俺の妻」
彼の手が、私の頬を包み込む。
逃げようとは思わなかった。この檻は、恐ろしいほど暖かく、そして甘いのだから。
私は観念したように、彼の胸に額を押し付けた。
「……おはようございます、あなた」
私がそう呼ぶと、カイリ様は満足げに喉を鳴らし、再び私をシーツの海へと引き戻した。
二度寝の誘惑。いや、それはきっと、終わりのない蜜月への招待状だった。