第一章: 星のない街で、君と息継ぎをする
重く湿った大気が、肺の奥底にべっとりと張り付く。
くせ毛の黒髪を無造作にかき上げ、レイは短く舌打ちを漏らした。常にどこか所在なげに宙を彷徨う三白眼が、手元の焼き切れた基板を憎々しげに睨みつける。油汚れが幾重にも染み付いた分厚い労働用のツナギの袖で、額に滲む汗を乱暴に拭った。
打ち捨てられた旧時代の地下鉄ホーム。
錆びた鉄屑。淀んだ泥水。ひどい悪臭が鼻腔を突き刺す。完璧な温度と湿度が管理されたドーム都市『エデン』において、この廃棄区画だけが唯一、システムの目の届かない巨大な盲点だ。
[Tremble]カツン、カツン、カツン。[/Tremble]
硬質な足音が、ひび割れたコンクリートの静寂を引き裂く。
警戒に身を強張り、レイは腰のレンチを握りしめた。
闇の帳を押し退けて現れたのは、発光するほどに透き通る白い肌。膝裏まで届く銀色の長髪が、地下の淀んだ風にさらさらと揺れる。汚れ一つない無機質で純白のドレス風制服。それは、決してこの最下層に足を踏み入れるはずのない、上層・中枢区画の特権階級の証。
[A:レイ:驚き]「お前……こんな所で何してんだ。ここは白服の来る場所じゃねえ」[/A]
レンチの柄を握る手に、じわりと汗が滲む。
少女は微かに小首を傾げ、埃まみれのホームを静かに見渡した。
[A:シオン:冷静]「……ここなら、都市管理AIの監視カメラの死角ね」[/A]
彼女の細い指先が、空間に浮かび上がるホログラムキーボードを滑る。
異常な速度。ピアノの鍵盤を叩くような優雅な指運びで、複雑なコードの羅列が空中に展開されていく。
[A:レイ:怒り]「おい、無視すんな! 治安維持局に見つかったら――」[/A]
[System]プロトコル・オーバーライド完了。環境擬態システム、ローカル起動[/System]
少女がエンターキーを弾いた瞬間。
地下鉄の剥き出しの天井が、音もなく消失した。
[Flash]圧倒的な、光の奔流。[/Flash]
レイの三白眼が、極限まで見開かれる。
頭上を覆っていた無機質なコンクリートが薄らぎ、代わりに現れたのは、無限に広がる漆黒のキャンバス。そこに、網膜を灼き尽くすほどの鮮烈な光の粒が、無数に散りばめられている。
赤、青、金。色とりどりの星々が、呼吸をするように微かに瞬く。
[A:レイ:驚き]「なんだよ……これ」[/A]
[A:シオン:喜び]「旧時代のアーカイブから見つけた、本物の夜空のデータよ。エデンの人工の空には、星なんて一つも描かれていないから」[/A]
少女は銀色の髪をかき上げ、偽物の星空を見上げる。
無機質だった彼女の瞳に、微かな光が宿る。
[A:シオン:喜び]「私はシオン。……あなたも、この息の詰まる世界から、少しだけ逃げ出したかったのかしら?」[/A]
その横顔は、あまりにも美しく、そして危うい。
レイはレンチから手を放し、大きく息を吸い込む。錆びた鉄の匂いが混じる地下の空気。だが不思議と、肺を満たすその一呼吸は、生まれて初めて味わう本物の酸素のように感じられた。
◇◇◇

第二章: ガラス越しの温もりと嘘
ざあざあという規則的なノイズ。
エデンの気象制御システムが定時に降らせる、完璧な温度の人工夕立。
廃棄地下鉄のホームには、雨音の反響だけが心地よく響いている。
レイは自販機から掠め取ってきた缶コーヒーのプルタブを引き抜き、隣に座るシオンへと差し出す。
[A:レイ:照れ]「ほら。上層にはこんな不健康なモン、ないだろう」[/A]
[A:シオン:喜び]「ありがとう、レイ。……とても、不思議な味がするわね」[/A]
両手で缶を包み込み、小さく口をつけるシオン。
レイも自分の缶を煽る。舌の奥にへばりつく、焦げたような甘ったるい味。
[A:シオン:興奮]「ねえ、レイ。この本に描かれている『海』の話、もっと聞かせて」[/A]
シオンの膝の上には、レイが集めた旧時代の擦り切れた写真集が開かれている。
そこには、荒れ狂う青い波と、地平線まで続く広大な海原が写っていた。
[A:レイ:興奮]「俺の兄貴が言ってたんだ。外の世界には、壁も天井もない。このドームの中の何千倍もでかい水溜まりがあって、そこは常に波が暴れてるってな」[/A]
[A:シオン:興奮]「天候が、誰にも管理されていない……。なんて恐ろしくて、素晴らしいのかしら」[/A]
[Sensual]
シオンの細い肩が、微かに震えている。
レイは無意識のうちに距離を詰め、彼女の隣に並んだ。
互いの肩先が、ほんの数ミリの距離で熱を発している。
[A:レイ:怒り]「こんな偽物の空、いつか絶対にぶっ壊してやる。そうしたら……一緒に、その海ってやつを見に行こう」[/A]
シオンは俯き、長い睫毛の影を落とす。
彼女の白い指先が、迷うようにレイの無骨な掌に重なった。
油に塗れた硬い指と、無菌室で育った氷のように冷たく柔らかい指。
絡み合う手と手から、微かな、しかし確かな鼓動が伝播していく。
[Heart]ドクン、ドクン……[/Heart]
[A:シオン:悲しみ]「……ええ。いつか、必ず」[/A]
[/Sensual]
シオンの唇の端が、微かに引きつる。
彼女の脳の深奥には、都市管理AIの予備回路としての接続ケーブルが埋め込まれている。自分の命が、このドームを維持するためのただの部品に過ぎないという残酷な事実を、彼女は決してレイに告げることはなかった。
人工の雨音が、二人の密やかな嘘を冷たく洗い流していく。
その雨の向こう側。暗闇の奥で、黒い軍服風のコートの裾が、音もなく翻るのをレイはまだ知らない。
◇◇◇

第三章: 決定的なすれ違いと冷たい雨
[Flash]爆音が、空間を揺らした。[/Flash]
地下鉄の入り口を塞いでいた分厚い鉄扉が、紙屑のように吹き飛ぶ。
粉塵の中から現れたのは、白い制服に身を包んだ治安維持局の武装兵たち。
そして、その中央に立つ一人の男。
無精髭に覆われた顎、冷酷に獲物を射抜く鋭い眼光。黒の軍服風コートを少し着崩した長身の男が、首筋に刻まれた赤黒い傷跡を外灯の光に晒しながら、ゆっくりと歩みを進める。
[A:クロウ:冷静]「システムエラーの原因が、こんなネズミの巣だったとはな。お遊びは終わりだ、シオン様」[/A]
クロウの低く威圧的な声が、レイの鼓膜を殴りつける。
その瞬間。
[Blur]視界が、白く濁る。[/Blur]
白い制服。突きつけられる銃口。
脳裏に閃くのは、数年前の記憶。
外の世界へ繋がるゲートの前で、兄の頭部が赤い花のように吹き飛んだ、あの夜の映像。
[A:レイ:恐怖]「あ……ぁ……」[/A]
膝から力が抜け、レイの身体が石畳に縫い付けられる。
指先が痙攣し、息の仕方を忘れたように喉がひゅんひゅんと鳴る。動け。逃げろ。頭では分かっているのに、トラウマという透明な鎖が彼の四肢を完全に拘束していた。
クロウが右手を上げる。武装兵の銃口が、一斉にレイへと向けられた。
[A:クロウ:冷静]「そのゴミを処分しろ」[/A]
[A:シオン:怒り]「待ちなさい!!」[/A]
シオンが、レイを庇うように両腕を広げて立ちはだかる。
純白のドレスが、泥まみれの床に擦れるのも厭わない。
[A:シオン:冷静]「私の無断外出に、彼は関係ありません。私が脅して、ハッキングの手伝いをさせただけ。……彼を見逃すなら、おとなしく中枢へ戻ります」[/A]
[A:クロウ:怒り]「……チッ。身の程知らずの小鳥が。いいだろう、連行しろ」[/A]
兵士たちがシオンの両腕を冷たい手錠で拘束する。
彼女は抵抗することなく、ただ一度だけ振り返った。
その表情には、すべてを諦めたような静謐さと、深い愛情が入り混じっている。
[A:シオン:愛情]「ごめんなさい、レイ。……海、見たかったな」[/A]
[A:レイ:絶望]「ま、て……シオン……!」[/A]
喉の奥で詰まった掠れ声は、靴音に掻き消される。
鉄扉の向こうへと消えていく彼女の背中。
残されたレイは、冷たい人工の雨が吹き込むホームで、泥水をすするようにもがきながら、ただ声を殺して嗚咽を漏らした。
◇◇◇

第四章: 絶望の塔と自己犠牲の決断
[Shout]「立て!! いつまで泥水啜ってんだ、クソガキ!!」[/Shout]
スラムの路地裏。
レイの頬を、強烈な平手打ちが弾き飛ばす。
口の中に広がる、鉄錆のような血の味。
見上げると、赤く染めたショートヘアを苛立たしげに掻き回すナギが立っていた。過激なスリットの入ったパンクな服装に、首にかけたゴーグル。彼女はレイの胸ぐらを掴み、強引に引きずり起こす。
[A:ナギ:怒り]「アンタの兄貴は、そんな泣き虫じゃなかったよ! あの子が『適合処理』されちまうまで、あと一時間もないんだ。感情も記憶も全部消されて、ただの都市の部品になる。それでもいいのかい!?」[/A]
適合処理。その言葉が、レイの虚ろな瞳に火を点ける。
指先の震えが止まる。奥歯が軋み、こめかみの血管が激しく脈打った。
ナギはカウンターの奥から、分厚い布に包まれた物体を放り投げる。
[A:ナギ:愛情]「死ぬ気で飛び降りな。アタシが下で、しっかり受け止めてやるからさ」[/A]
布が解け、床に転がり出たのは、鈍色の光を放つ旧時代のリボルバー銃。兄が最期まで握りしめていた形見。
レイは銃把を握りしめ、立ち上がる。
[Pulse]ドクン、ドクン、ドクン。[/Pulse]
中央塔・防衛区画。
吹き抜けの螺旋階段を、レイは獣のような速度で駆け上がる。
パルクールの身のこなしで壁を蹴り、武装兵の包囲網を次々と突破していく。
だが、最上階への扉の前に、あの漆黒のコートが立ち塞がった。
[A:クロウ:狂気]「鳥籠から出た小鳥を待つのは、自由ではなく惨たらしい死だ。俺は、かつて外の世界で仲間をすべて失った。だからこそ、この完璧な檻が必要なんだ!」[/A]
[Flash]銃声が、空間を切り裂く![/Flash]
クロウの放つ精密な跳弾が、レイの肩を掠め、血しぶきが舞う。
激痛に視界が明滅する。しかし、歩みは止めない。
[A:レイ:怒り]「知るかよ!! お前が怖がってるだけだろうが!」[/A]
レイは壁を蹴り上げ、空中で身を捻る。
クロウの銃口が火を噴くより早く、レイは兄の銃を構え、引き金を引いた。
[Impact]ガアァァァン!![/Impact]
鈍い轟音。放たれた鉛玉が、クロウの銃を強烈な衝撃で弾き飛ばす。
体勢を崩したクロウの顔面を、レイの無骨な拳が容赦なく打ち抜いた。
巨体が床に崩れ落ちる。
[A:レイ:怒り]「こんな息の詰まる世界で生きてるくらいなら……俺たちは、傷ついてでも自由を選ぶ!!」[/A]
血と汗に塗れたレイは、肩で息をしながら、最上階の重厚な扉へと手をかけた。
◇◇◇

第五章: 砕け散る鳥籠と圧倒的な光
最上階。都市管理AIの中枢ルーム。
円筒形のガラスケースの中に、シオンは宙に浮くように固定されていた。
頭部から伸びる無数のケーブルが、彼女の脳とシステムを直接リンクしている。
[A:レイ:絶望]「シオン!!」[/A]
レイが駆け寄ろうとした瞬間。
部屋全体を、けたたましい警報音が包み込む。
[Glitch]警告。メインシステムに不正アクセス。環境維持シールドのプロトコルに致命的なエラーが発生[/Glitch]
ガラスケースの中のシオンが、ゆっくりと目を開く。
その瞳は、もはや無機質なシステムの一部ではなく、鮮烈な意志の光を宿していた。
[A:シオン:愛情]「完璧な世界なんて、ただの綺麗な鳥籠よ。……レイ、あなたに本物の空をあげる」[/A]
彼女の細い指先が、空中のインターフェースに最後の一撃を打ち込む。
[Whisper]《システム・フルパージ》[/Whisper]
[Shout]ゴオォォォォォォ……ッ!!![/Shout]
地鳴りのような轟音。
エデンのドーム全体を覆っていた巨大な強化ガラスの空に、亀裂が走る。
ピキ、ピキピキ、という高周波の音が響き渡る。
次の瞬間、頭上の空が、雪のように砕け散った。
[Flash]世界が、生まれ変わる。[/Flash]
数十年の時を経て、エデンの街に本物の光が降り注ぐ。
網膜を焼き尽くすほどの、圧倒的な朝焼けのオレンジ。
冷たい風が、砕けたガラスの破片を巻き上げながら、二人を包み込む。頬を撫でる風には、どこか遠くの、潮の香りが混じっていた。
接続ケーブルが外れ、崩れ落ちるシオンを、レイは力強く抱きとめる。
彼女の身体は羽根のように軽く、しかし確かな体温を伴う。
[A:シオン:喜び]「レイ……。とても、眩しいわ」[/A]
[A:レイ:愛情]「ああ。これが、本物の朝だ」[/A]
レイの三白眼に、初めて穏やかな光が灯る。
見渡せば、防壁の外には荒れ果てた大地と、地平線の彼方に広がる鈍色の海が横たわっていた。過酷で、不確実で、何の保証もない世界。
それでも、二人の手はしっかりと繋がれている。
レイとシオンは、朝焼けに染まる未知なる荒野へ向けて、その最初の一歩を静かに踏み出した。