錆びた鉄とカビ、それに長年染み付いた重油の悪臭が、薄暗い空間に澱んでいる。
地下巨大採掘都市、第4層。陽の光など神話の中にしか存在しない泥濘の底。
ドクン、ドクン、ドクン。
煤と血にまみれたボロボロの採掘作業服に身を包んだジンの胸中で、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れていた。
伸び放題の黒髪の隙間から覗く、三白眼の黒瞳。飢えた獣のようにギラギラと光るその両眼は、震える手の中にある古びた金属片——外の世界へ繋がるエレベーターの起動キーに釘付けになっている。
首に刻まれた奴隷の焼印が、熱を帯びたように脈打つ。
ジン「やった……ついに、手に入れただろ。これで、このクソッタレな穴倉から……!」
喉の奥から絞り出した声は、ひどく掠れていた。
隣に立つのは、物心ついた時から共に泥をすすってきた兄貴分。
キーをシリンダーへ差し込もうと、ジンが一歩を踏み出した、その瞬間。
グチャリ。
背中から胸の中心へ。
熱く、ぬめりとした異物が、肺葉を無慈悲に貫き通した。
ジン「……あ?」
声帯から漏れたのは、間抜けな風切り音だけ。
口の中いっぱいに、鉄錆のような血の味が広がる。
痙攣する足で辛うじて振り返ると、そこには氷のように冷酷な青い瞳があった。
銀色の短髪を丁寧に撫でつけ、純白の革手袋をはめた手でナイフの柄を握りしめる男。
カイ「外の世界なんてものはね、底辺の連中が見る幻覚だ。僕は現実を選ぶべきだよ」
カイは血の滴るナイフを引き抜き、嫌悪感も露わに泥水の中へ投げ捨てた。
誰かが背後から恭しく差し出した漆黒の軍服を、彼は滑らかな動作で羽織る。
仕立ての良いその生地は、特権階級である体制側の犬の証。
膝の力が抜け、ジンは冷たいコンクリートに横倒しに崩れ落ちる。
視界の端が黒く染まっていく。
遠ざかる足音。見下ろす冷たい青い瞳。
喉を詰まらせた大量の血が、声にならない嗚咽となって気管で泡を吹いた。

鼻腔を突き刺す腐臭。酸を多く含んだ冷たい泥水の感触。
ジンは廃棄区画のゴミ山の斜面で、激しい嘔吐とともに意識を引きずり起こした。
胃液と血の混ざった赤い汚物が、泥に塗れた指先を濡らす。
シノ「ようやく目覚めたようデスね。致死量の出血でしたが、生命力だけはゴキブリ並みと推測シマス」
ダボダボの薄汚れたローブをすっぽりと被った小柄な影が、ゴミの山の上から見下ろしている。
目元を覆う分厚いゴーグル。隙間から見える青白い肌には、情報回路として機能する幾何学的なタトゥーが明滅していた。
情報屋のシノ。
シノ「カイは特務部隊の小隊長に昇格シマシタ。貴方を売った功績デス。無駄な足掻きデス。現実はいつでも残酷デスから」
感情の起伏が一切ない機械的な声が、ジンの脳髄を金槌で叩き割るように響く。
売られた。
たった一つの希望だった男に。
ギリッ、ギギギギギ……!
奥歯が砕けるほどの力で噛み締める。
胸の傷口が焼け付くように痛み、縫合痕から熱い血が再び泥水へと滴り落ちた。
しかし、その痛みすらも、腹の底から湧き上がる黒い濁流に塗り潰されていく。
泥にまみれた指をゴミの山に突き立て、爪が剥がれるのも構わずにジンは立ち上がる。
三白眼の黒瞳が、狂気を孕んだ赤い光を宿す。
ジン「殺す……あの野郎だけは……俺が、絶対に……!」
ドゴォォォォン!!
隠れ家の分厚い鉄扉が、爆発音と共に紙屑のように吹き飛んだ。
もうもうと立ち込める粉塵。焦げた火薬の匂い。
その中から、カツン、カツンとヒールの音が響く。
リゼ「あーら、見つけたわ。裏切り者のゴミ虫くん。その希望に満ちた顔、絶望でぐちゃぐちゃにしてあげる」
体のラインに密着した強化装甲服。真紅の長髪を揺らし、血に飢えた釣り目が嗜虐的に細められる。
腰から引き抜かれた巨大な電熱鞭が、高圧電流をバチバチと放ちながら毒蛇のように床を叩き据える。
特務猟犬、リゼ。
バヂィィィン!!
「アガァァァァァッ!!」
超高温の熱線がジンの背中を打ち据え、皮膚と筋肉を一瞬で炭化させる。
肉の焼ける甘ったるい悪臭が、密閉された空間に充満した。
リゼ「もっと鳴きなさいよ! 泥水をすする音より、ずっと綺麗な声が出るじゃない!」
鞭がしなり、ジンの腿の肉を容赦なくえぐる。
血飛沫が舞い上がり、リゼの装甲服を赤く染める。彼女の呼吸は荒く、頬は恍惚に紅潮していた。
ジンは血だまりの中で痙攣しながらも、床に落ちていた鋭利な鉄屑を拾い上げる。
イタイイタイイタイニクイコロスコロスコロス
シノ「システム、強制オーバーライド……回路暴走、開始シマス。三十秒だけ、動きを止めマス」
シノの全身のタトゥーが異常なほどの輝きを放ち、リゼの背後にある配電盤が火花を散らして爆発する。
一瞬、リゼの視線が揺らぐ。
その隙を、泥這う獣は見逃さない。
ジンは自らの左腕を突き出し、振り下ろされた電熱鞭をあえて巻き取らせた。
ジュゥゥゥゥッ!!
骨まで達する凄まじい熱と激痛。肉が焦げ、神経が焼き切れる。
だが、ジンは一歩も引かない。
痛みなど、裏切りのあの瞬間に比べれば安い。
ジン「逃がさねえよ……特権階級の、お姫様がぁっ!!」

左腕を巻き込んだまま鞭を力任せに引き寄せ、ジンはリゼの懐へと飛び込む。
鉄屑を握りしめた右拳が、リゼの装甲の隙間、柔らかな腹部を深々とえぐる。
さらに、そのまま獣のように飛びかかり、彼女の白い喉笛に牙を剥いて喰らいついた。
リゼ「ヒッ……!? な、なに、こいつ……!」
引きちぎられた首筋から、動脈血が噴水のように吹き出す。
生暖かい血を顔面から浴びながら、ジンは恐怖で完全に硬直したリゼの体を蹴り飛ばした。
血だるまになり、左腕が黒焦げになろうとも、その脚は止まらない。
目の前に現れた、地上行き直通エレベーターのハッチ。
血塗れの指でこじ開け、暗いシャフトの底へと転がり込む。
ワイヤーの軋む重低音が、狂気の上昇を告げていた。

鼓膜を押し潰すような気圧の変化。
長い、長すぎる上昇の果て。
エレベーターが最上層のゲート前に到達し、重々しい金属音と共に扉が開く。
そこは、磨き上げられた大理石の床と、静寂が支配する空間。
そして、ゲートの前に立ちはだかる、漆黒の軍服。
カイ「まさか、ここまで上がってくるとはね。君の底なしの執念には感服するよ」
銀髪を揺らし、カイは純白の革手袋で愛銃のスライドを引く。
ジン「……」
ジンは何も言わない。言葉など、もはや不要。
ただ、燃え盛る黒い瞳だけが、獲物を捕らえて離さない。
カイが引き金を引く。
銃弾がジンの肩を貫き、赤い花を咲かせる。
しかし、ジンは倒れない。被弾の衝撃を前への推進力に変え、床を蹴る。
カイ「なっ……!?」
銃口を逸らし、ジンはカイの腹に強烈な頭突きを叩き込んだ。
もつれ合うように大理石の床を転がり、二人は泥臭い殴り合いへと引きずり込まれる。
美しい軍服がジンの血と泥で汚れ、純白の手袋が赤く染まる。
ゴシャッ!!
ジンの拳がカイの頬骨を砕く。
カイも負けじと、ナイフを引き抜きジンの腿に突き立てる。
弾丸が肉を抉り、拳が骨を砕き、吐き出された血が空中で混ざり合う。
息も絶え絶えになりながら、カイは血反吐を吐きながら叫んだ。
カイ「自由なんてないんだ! 上に媚びるしか、生きる道はないんだよ!!」
それは、己への言い訳のような、懇願にも似た響き。
だが、ジンの手は止まらない。
血まみれの指が、カイの首元をがっちりとホールドする。
メキョッ。
一切の躊躇なく、全体重をかけて捻り上げる。
バキィッ!!
鈍い音と共に、カイの首が不自然な方向へ折れ曲がった。
氷のような青い瞳から、急速に光が失われていく。
血と泥と汗の匂いが混じり合う中、ジンは冷たくなった元・兄貴分の死体からマスターキーを引き剥がす。
息は上がり、全身の肉が悲鳴を上げている。
それでも、目の前にある重い鋼鉄の扉へ、血だらけの手をかけた。

ガコン、と重厚なロックが解除される音が響く。
長年夢見た、美しい外の世界。
軋みを上げて開く扉の隙間から、眩い光が……。
いや。
扉の向こうに広がっていたのは、視界を遮るほどの濃密な有毒ガスの壁と、空を覆い尽くす分厚い死の灰。
青空も、緑の自然も、そこにはない。
ただ、生命の痕跡を完全に絶たれた、無機質な滅びの荒野がどこまでも続いているだけ。
肺の奥を鋭利なガラス片で削り取られるような、強烈なガスの痛みが喉を焼く。
自由なんてものは、絶望を見るためのチケットにすぎない。
カイの言葉が、脳裏に蘇る。
外の世界など、とうの昔に終わっていた。
ここには、何の希望もない。誰一人として生きられない、絶対的な死の空間。
その圧倒的な虚無を前にして、ジンは、
ジン「アハハ……ハハハハハハハハッ!!」
血と煤にまみれた顔を醜く歪ませ、腹の底から狂ったように笑い出す。
涙腺から血の混じった涙を流しながら、笑い転げる。
誰かに飼い殺されるだけの、嘘で塗り固められた安全な地下。
それと引き換えに手に入れた、この完璧で、純粋で、誰にも奪われない自分だけの絶望。
ブチィッ!!
ジンは、焼け爛れた左手と血まみれの右手で、首に巻かれた重い鋼鉄の首輪を力任せに引きちぎる。
皮膚が裂け、血が吹き出そうとも構わない。
首輪の残骸を灰色の地面に叩きつけ、ジンは一歩、また一歩と、死の荒野へと足を踏み出す。
肺を焼くガスの痛みさえも、彼にとっては生きているという確かな証明。
灰色の風が、彼のボロボロの採掘服を揺らしている。
振り返ることは一切ない。
泥濘の果て、血肉を啜って辿り着いたその場所。
ジンは狂った笑い声を響かせながら、灰色の地平線の彼方へとその身を溶かしていく。
煙るような死の灰だけが、彼の残した足跡を静かに埋め尽くす。
あとに残されたのは、血の匂いと、果てしない虚無だけ。