冷徹なコンクリートが、素肌から容赦なく体温を奪っていく。
カビと錆、そしてかすかなアンモニア臭が淀む廃工場の地下室。
漆黒の闇の中、重々しい金属音が反響する。
莉子の足首に、氷のように冷え切った鉄の鎖が食い込んだ。
艶やかな黒髪が、油染みのこびりついた床へ無造作に散らばる。
引き裂かれた深紅のドレス。
剥き出しの足先は泥に塗れ、霜焼けのように赤く腫れ上がっている。
彼女の顔を覗き込む男の吐息。胃液と安物の缶コーヒーの腐臭。
白髪混じりの黒髪は汚れで束になり、三白眼にはどす黒い隈がへばりついている。
色褪せたパーカーの袖口は擦り切れ、ジーンズには赤黒い染みがこびりついていた。
[A:灰原 愁:興奮]「……あぁ、これで君は自由だ。俺が君を、あの地獄から救ってやるからな」[/A]
[Pulse]ドクン、ドクン、ドクン。[/Pulse]
男の指が、小刻みに痙攣しながら莉子の頬を這う。
莉子は右が底無しの漆黒、左が透き通る琥珀という虚ろなオッドアイを見開き、小さく肩を震わせた。
[A:鳴海 莉子:恐怖]「やめ、て……。お父様が、黙っていませんわ……」[/A]
血の気の引いた唇。か細い声。
すべては完璧に計算し尽くされた劇薬。
[Think]ああ、なんて甘美な泥の匂い。なんて素晴らしい静寂。[/Think]
肋骨の奥底で、極彩色の歓喜がどろどろと沸騰していく。
狂気的な家父長制という名の黄金の鳥籠から、ついに抜け出せた。
目の前で涎を垂らす哀れな男は、自らを救世主と信じて疑わない。
その愚直なまでの傲慢さが、莉子にはたまらなく愛おしかった。
地上では今頃、警察に送りつけられた犯行声明文が騒ぎを引き起こしているはず。
あの手紙の裏に炙り出しで仕込んだ暗号の存在に、この泥棒猫は気づいていない。
それは灰原の言葉ではない。莉子自身が緻密に組み上げた、父への凄惨な死の宣告。

鳴海邸の豪奢な応接室は、凍りつくような冷気に満ちている。
ペルシャ絨毯に落ちた安煙草の灰。
ヨレヨレのトレンチコートを羽織った獅子神は、無精髭を乱暴に擦り上げながら、奥歯をギリッと鳴らした。
目の前の男から放たれる、むせ返るような権力の匂いに胃酸が込み上げる。
[A:鳴海 宗園:冷静]「理解できないな。なぜ警察は、あれほど無能であるのか。私の貴重な財産が損なわれたのだ。一刻も早く取り戻したまえ」[/A]
綺麗に撫で付けられた白髪。
一分の隙もない、仕立ての良すぎるスリーピーススーツ。
冷酷な細目が獅子神を見下す。手首の金時計が[Tremble]チクタク、チクタク[/Tremble]と無機質な音を刻んでいた。
[A:獅子神 剛:怒り]「……財産、だと? 自分の娘が誘拐されてんだぞ、クソが」[/A]
[A:鳴海 宗園:冷静]「あれは私の事業を拡大するための、上質な商品である。傷でもつけば、政略結婚の道具としての価値が落ちる」[/A]
氷の刃のような声。
獅子神の脳裏に、かつて泥の中で冷たくなっていた実の娘の小さな手がフラッシュバックする。
[Flash]パシャリ、パシャリ。雨だれの音。[/Flash]
胸の奥を抉るような鋭い痛みが走り、獅子神はコートのポケットの中で拳を握り潰した。
[A:獅子神 剛:狂気]「……どんなクズでも、泥の中に引きずり出してやる。必ずだ」[/A]
絨毯に泥の靴跡を残し、獅子神は部屋を後にする。
執念深い捜査の果て、監視カメラの死角と不自然な電力消費のデータから、一つの廃工場が浮かび上がった。
パトカーのサイレンが夜の静寂を切り裂こうとしたその瞬間。
獅子神のスマートフォンに、一枚の画像が受信される。
暗闇の中、和紙に生血で殴り書きされた文字。
『私を探さないで』

[Sensual]
地下室の空気は、数日の間に完全に変質していた。
カビの匂いは掻き消え、むせ返るような甘い体臭と、錆びた鉄の匂いが混ざり合う。
灰原の三白眼は焦点が定まらず、白目には無数の血走った糸が這い回っていた。
[A:灰原 愁:絶望]「……あぁ、俺は、君を救うはずだったのに……。どうして、こんなに息が苦しいんだろ……」[/A]
灰原の乾ききった手が、莉子の白い足首にすがりつく。
莉子は深紅のドレスの裾を翻し、裸足で冷たいコンクリートを踏みしめながら、ゆっくりと男の前にしゃがみ込んだ。
細く白い指先が、灰原のボサボサの黒髪を愛おしそうに梳く。
[A:鳴海 莉子:愛情]「うふふ、可哀想な人。あなたは私を救ってくれた。でも、まだ足りないの」[/A]
琥珀と漆黒のオッドアイが、男の脳髄の奥底を直接覗き込む。
莉子は自らの細い首に巻かれていた革製のチョーカーを、ゆっくりと外した。
体温を帯びた、生暖かい革の感触。
それを、灰原の脈打つ首筋にそっと押し当てる。
[A:鳴海 莉子:狂気]「これを、あなたにあげますわ。だから……あの忌まわしい男の首を、私の足元に持ってきてちょうだいね」[/A]
[Whisper]私を本当の自由にして。[/Whisper]
甘い吐息が耳朶を掠める。
[/Sensual]
[Impact]ガチャン![/Impact]
灰原の首で、鎖の金具が音を立てて噛み合った。
その瞬間、男の瞳から最後の人間性の光が消え去る。
口の端から涎を垂らし、獣のような唸り声を上げて立ち上がった。
狂犬と化した灰原が重い鉄扉を開け放ち、夜の闇へと駆け出していく。
一人残された莉子は、泥に塗れた指先で自らの唇をなぞり、暗闇の中で鼓膜を破るような高笑いを響かせた。

鳴海邸の廊下は、鉄錆のような血と臓物の匂いに支配されている。
高級な壁紙には、放射状に飛び散った鮮血の染み。
灰原の黒いパーカーは赤黒く水を吸い、手にした肉厚のサバイバルナイフからは、ポタポタと粘ついた液体が滴り落ちていた。
[A:鳴海 宗園:恐怖]「ま、待て……! 金ならいくらでも出すっ! 私を誰だと──!」[/A]
寝室のベッドの隅。
スリーピーススーツを乱し、金時計を床に落とした宗園が、無様にも後ずさりをする。
冷酷な細目は限界まで見開き、顔面は死蝋のように青ざめていた。
灰原は焦点の合わない三白眼で、ゆっくりと首を傾げる。
[A:灰原 愁:狂気]「……あぁ? 金? 違うだろ。莉子ちゃんが、泣いてたんだよ。お前が、あの狭くて暗い部屋で、何を……何をしたか……!」[/A]
[Shout]アアアアアアッ!![/Shout]
喉が裂けんばかりの絶叫とともに、灰原の刃が閃く。
骨を断ち切る鈍い音。
気管がひしゃげ、鮮血が間欠泉のように噴き出した。
宗園の生首が、美しいペルシャ絨毯の上をゴロゴロと転がっていく。
その時だった。
[Impact]ズドン!![/Impact]
寝室のドアを蹴り破って飛び込んできた獅子神の銃口が、火を噴いた。
放たれた凶弾が、灰原の横腹を容赦なく貫く。
焼けるような激痛。肉が焦げる匂い。
灰原は口から大量の血を吐き出しながら、大きくよろめいた。
[A:獅子神 剛:怒り]「動くな!! そこで大人しく這いつくばれ、クソが!!」[/A]
銃口を向けたまま、獅子神が怒号を飛ばす。
だが、灰原の顔に浮かんでいたのは、痛みへの悶絶ではなかった。
不気味なほど穏やかで、ひどく歪んだ笑み。
[A:灰原 愁:愛情]「……あぁ、帰らなきゃ。莉子ちゃんが、待ってる……」[/A]
灰原は床に転がる宗園の白髪を掴み上げると、そのまま後方へ倒れ込んだ。
窓ガラスが粉々に砕け散る。
冷たい夜風が吹き込み、男の体は三階の窓から重力に引かれて落下していった。
[Shout]ドンッ!![/Shout]
植え込みの枝がへし折れ、泥だらけの地面に全身を打ち付ける。
内臓が破裂し、手足の骨が皮膚を突き破った。
それでも、灰原は這う。
腹からこぼれ落ちそうになる腸を片手で押さえ、もう片方の手で血まみれの生首を引きずりながら。
血の軌跡をアスファルトに描き、ただひたすらに、あの冷たい地下室を目指して。
◇◇◇
[System]TARGET: LOCKED.[/System]
重機で鉄扉を破壊し、獅子神ら武装した警官隊が地下室へと雪崩れ込む。
フラッシュライトの強烈な光が、闇を切り裂いた。
そこに広がっていたのは、地獄の底を煮詰めたような光景。
強烈な血の匂いが鼻腔を殴りつける。
コンクリートの床には、どす黒い血の海が広がっていた。
部屋の中央。
アンティークの鳥籠の上に、目を見開いた宗園の生首が丁寧に飾られている。
そして、その傍ら。
[A:鳴海 莉子:喜び]「うふふ、遅かったですわね、刑事さん」[/A]
彼女のドレスは、正真正銘の血で染まり上がり、重く黒ずんでいる。
莉子は裸足のまま血の池に座り込み、自らの膝枕で『何か』を抱き抱えていた。
[A:獅子神 剛:驚き]「……な、なんだ、これは……」[/A]
獅子神の喉から、掠れた音が漏れる。
莉子の膝に横たわっているのは、灰原だった。
いや、かつて灰原だった肉塊だ。
逃げ出すことができないように、両腕と両脚は関節から無残に切断され、血の海に無造作に転がっている。
だるまのようになった男は、焦点の合わない眼球を虚空に向け、口の端から泡と血を吹き出していた。
ただ[Pulse]ヒュー、ヒュー[/Pulse]と奇妙な呼吸音を漏らすのみ。
[A:灰原 愁:愛情]「……あぁ……りこ、ちゃん……よかった……ね……」[/A]
莉子の細い指が、灰原の血まみれの頬を優しく撫でる。
そのオッドアイは、極限の熱を帯びて妖しく輝いていた。
[A:鳴海 莉子:興奮]「ええ、ええ。あなたは本当にいい子。これで、もうどこにも行けませんわ。ずっと、ずっと私のそばで、私のもの」[/A]
無数の銃口が向けられる中、莉子はゆっくりと顔を上げる。
返り血で真っ赤に染まった頬。
艶やかな黒髪が、血の糊でべったりと顔に張り付いている。
彼女は、この世で最も無垢で、最も残酷な微笑みを浮かべた。
[A:鳴海 莉子:喜び]「見て。私たち、ついに本当の自由になれましたわ」[/A]
[Glitch]カチャン、と。[/Glitch]
見えない鳥籠の扉が、永遠に閉ざされた音がした。
獅子神の膝から力が抜け、冷たい泥の床に崩れ落ちる。
亡き娘の面影は、甘ったるい血の匂いと狂気の高笑いの中に、無残に溶けて消えていった。