磨き上げられた大理石の床が、シャンデリアの柔らかな光を冷ややかに弾き返す。甘く、ねっとりとした百合の香りが、漂白された無菌の空気をじわじわと侵食していく。
隔絶された山奥に聳え立つ隔離施設『エデン』。外界のあらゆる規律から解放された、絶対の安息地である。
ぶかぶかの患者衣に青白く痩せた体躯を包んだ鳴海朔は、生気のない三白眼で高い天井の装飾をぼんやりと見上げていた。
[A:桐生 蓮:興奮]「すっげえ……。マジで城じゃん。なあ朔、ついに見つけたな。俺たちの楽園をさ」[/A]
隣で無邪気な声を上げるのは、明るく染められた茶髪を揺らす桐生蓮。その人懐っこい笑顔の裏、ダボついた長袖の奥には、幾重にも重なる醜いリストカットの痕が隠されている。
蓮の体温を帯びた手が、朔の薄い肩をバンバンと叩く。
[A:鳴海 朔:冷静]「そうだね、蓮。静かで、誰も僕たちを怒鳴らない。……ここなら、ずっと息を潜めていられるね」[/A]
朔は猫背をさらに丸め、弱く微笑み返す。
自分さえ我慢すれば、波風は立たない。他人の顔色を窺い、言われた通りにしていれば、いつか本当の自由が手に入る。そう信じ込むことでしか、朔は己の輪郭を保てなかった。
[FadeIn]豪奢な階段の上から、純白のタイトドレスに身を包んだ女がゆっくりと降りてくる。[/FadeIn]
真紅のルージュが艶めかしく歪み、慈愛に満ちた聖母の微笑みが向けられた。院長、通称マザー。彼女の甘く、しかし抗えない磁力を持った声が鼓膜を撫でる。
[A:院長・マザー:愛情]「ようこそ、迷える子羊たち。ここが終着点。あなたがたの『エデン』ですわ」[/A]
[A:院長・マザー:喜び]「さあ、倫理という鎖を解き放ちなさい。本当のあなたを見せて。ここでは、何も我慢しなくていいのですよ」[/A]
マザーの言葉に、蓮は安堵の息を漏らす。朔もまた、張り詰めていた肩の力をそっと抜いた。
だが、その安寧はあまりにも薄氷にすぎない。

深夜。
冷たい水を求めて病室を出た朔の鼻腔を、強烈な鉄錆の匂いが殴りつけた。
廊下の奥。点滅する蛍光灯の下。
[Blur]視界が、赤黒い液体でびちゃびちゃに濡れている。[/Blur]
いや、濡れているのは床だけではない。壁も、天井も。撒き散らされた臓物の生温かい湯気が、冷え切った空気に白く浮かび上がる。
[A:枷場 零:狂気]「ひゃははは! なァ、もっと声出せよ! まだ腸が数メートル残ってんじゃねェか!」[/A]
肉が裂け、骨が砕ける不快な湿り音。
血溜まりの中央。上半身裸に直接革ジャケットを羽織った大柄な男が、別の入居者の腹部を素手で掻き回している。長髪の下、無精髭に覆われた顔に張り付く、爛々と輝く野獣の悦楽。
全身に刻まれた無数の自傷と他傷の傷跡。古参入居者の枷場零。
彼は『笑顔で』、生きた人間の内臓を弄んでいた。
[Tremble]朔の喉がヒュッと鳴り、足首が痙攣する。[/Tremble]
その微かな衣擦れの音に、零のギラついた双眸がギロリと朔を射抜く。
[A:枷場 零:興奮]「お? 新入りかァ。いい目してんなァ。……安心しろよ、お前もすぐに自由にしてやるよ」[/A]
零の口端から、血の混じった涎が垂れる。
朔は呼吸を忘れ、ただ後ずさりすることしかできない。

翌朝、耳をつんざくようなノイズとともに館内放送が響き渡った。
[System]ピーン、ポーン、パーン。[/System]
[A:院長・マザー:喜び]「おはようございます、愛しの子供たち。エデンの真のルールをお伝えする時が来ました。ここは完全なる自由。法も倫理もありません。奪うのも殺すのも、あなたの自由です。さあ、命の祝祭を始めましょう」[/A]
[Impact]その甘い宣告は、文字通り地獄の釜の蓋を開け放つ。[/Impact]
ホールは瞬く間に阿鼻叫喚の坩堝と化した。
逃げ惑う人々の群れを、長大なサバイバルナイフを手にした零が嬉々として切り裂いていく。
[Shout]肉を断つ音。[/Shout]
[Shout]断末魔の叫び。[/Shout]
[A:桐生 蓮:恐怖]「なんだよこれ! 嘘だろ! 朔、逃げるぞ!」[/A]
蓮が朔の腕を強く引き、裏口の階段へと向かって走り出す。
だが、血の海で滑った蓮の体が大きく宙を舞う。
直後、空気を切り裂いて飛来した分厚い刃が、蓮の右ふくらはぎを深々と貫通し、床の木材ごと縫い付けた。
[A:桐生 蓮:絶望]「ぎゃあああああああああッ!! あ、足! 俺の足ィ!!」[/A]
[A:枷場 零:狂気]「おっとォ! 獲物が逃げるのはルール違反だぜェ?」[/A]
背後から迫る重い足音。朔は震える手で刃を引き抜き、噴き出す血を患者衣の袖で押さえ込みながら、蓮の体をズルズルと引きずった。
[Whisper]「ごめんね、僕が我慢すればいいんだよね」[/Whisper]
呪文のように呟きながら血の轍を残し、地下のダストシュートの奥深く、重厚な鉄扉の向こうにある旧式ボイラー室へと転がり込む。
冷たい鉄の扉を内側からロックした瞬間、天井のスピーカーがジリッと鳴った。
[A:院長・マザー:愛情]「素晴らしい逃走劇でしたわ。でも、残念。その部屋を出る鍵は、同室者の命です」[/A]
無機質な宣告。
完全な密室に、二人の荒い呼吸音だけが反響している。

暗闇。
数時間が経過したのか、数日が過ぎたのか。飢餓と底冷えが、じわじわと理性の外壁を削り落としていく。
蓮の傷口からは腐臭が漂い始め、彼の顔は土気色に変色していた。
[A:桐生 蓮:悲しみ]「……朔。俺、もうダメかもな。痛いよ……腹減ったよぉ……」[/A]
[A:鳴海 朔:冷静]「大丈夫だよ、蓮。僕が……僕が終わらせるから」[/A]
朔は虚ろな目で天井のシミを数えるのをやめた。
自分が犠牲になれば、波風は立たない。この優しい親友だけは、外の世界へ逃がしてやれる。
床に落ちていた鋭利なガラス片を拾い上げ、自らの頸動脈へとゆっくりと押し当てる。
冷たい感触。ほんの少し力を込めれば、すべてが終わる。
[Think]これでいい。これが僕の、自由だ。[/Think]
目を閉じた、その瞬間。
[Flash]ドスッ、という鈍い音とともに、背中から胸の中心へ向かって、焼けるような熱い鉄の棒が突き抜けた。[/Flash]
[A:鳴海 朔:驚き]「……え?」[/A]
肺から空気が押し出され、口からごぼりと赤黒い塊が零れ落ちる。
ゆっくりと振り返る。そこには涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪ませた蓮が、血まみれのナイフを両手で握りしめていた。
[A:桐生 蓮:絶望]「ごめん、ごめん朔! 俺が、俺だけが自由になりたいんだ! お前なら許してくれるだろ!? 痛いのは嫌なんだよォ!!」[/A]
見苦しく泣き叫ぶ親友の顔。
隠し持っていた刃物。自分を守るための、醜悪なまでの自己保身。
[Glitch]パチン。[/Glitch]
朔の脳の奥底で、絶対的な『何か』が弾け飛ぶ音がした。
倫理。道徳。友情。他者の顔色。
今まで自分を縛り付けていたすべての枷が、どろどろに溶けて流れ出していく。
[A:鳴海 朔:冷静]「……あはは」[/A]
[Sensual]
朔は背中に突き刺さった刃の柄に手を伸ばし、何の躊躇いもなく、素手で力任せに引き抜く。
肉が引き裂かれ、大量の血が床にぶちまけられる。だが、不思議と痛みはなかった。
あるのは、脳髄を焼き尽くすような圧倒的な全能感。
恐怖で尻餅をつく蓮の上に、朔は静かに馬乗りになる。
[A:桐生 蓮:恐怖]「ひッ……さ、朔? 悪かった、俺が間違って……!」[/A]
懇願する蓮の言葉を無視し、朔の両手がその細い首に絡みつく。
青白く痩せた指が、蓮の頸動脈をじわじわと圧迫していく。指先に伝わる、激しい脈動。熱い体温。もがく手足の抵抗。
他者の命を、自分の意志で、自分のためだけに握り潰す感触。
[A:鳴海 朔:狂気]「なんだ……。なんだ、こんなに簡単なことだったんだね。他人の命なんて、ただの肉の塊じゃないか」[/A]
蓮の眼球が充血し、口から泡が溢れる。爪が朔の腕を掻き毟るが、朔の笑みは深まるばかりだった。
やがて、ビクンと大きく跳ねた蓮の体が、ふっと糸の切れた人形のように脱力した。
完全に機能の停止した肉体の上で、朔は狂おしいほどの歓喜に打ち震える。
[/Sensual]
重たい鉄扉から、ガチャリと解錠の音が響く。
血と泥に塗れた朔が、ふらつきながら廊下へ歩み出ると、そこには腕組みをして待ち構える零の姿があった。
[A:枷場 零:喜び]「おォ! 生き残ったのはお前かァ! 最高の顔してんじゃねェか。さァ、俺と極限の殺し合いを――」[/A]
[Impact]言葉の途中で、零の視界が反転した。[/Impact]
ゴトン、という鈍く重い音が廊下に響き渡る。
床に転がったのは、無精髭を生やした零の首だった。その胴体は数秒遅れて、血しぶきを噴き上げながら大理石の床に崩れ落ちる。
[A:枷場 零:狂気]「あ……はは、最高、じゃねェ……か」[/A]
生首の口端が微かに動き、狂悦に満ちた最期の言葉を溢す。
朔は、自らの胸を貫いていたはずの血塗れのナイフをだらりと下げたまま、瞬き一つせずにその様を見下ろしていた。アドレナリンが痛覚を完全に麻痺させ、脳内麻薬が全身の細胞を歓喜で満たしている。
もはや朔の目に、生気のなかった三白眼の面影はない。そこに宿るのは、檻から解き放たれた純然たる『青いケモノ』の輝きだった。
[Glitch]ピチャ……、ピチャ……。[/Glitch]
血の足跡を残しながら、朔は迷うことなく最上階へと続く螺旋階段を上っていく。
たどり着いたのは、エデンの中枢部である豪奢な大扉の前。蹴り開けた先には、冷たいブルーライトに照らされた無数のモニターと、中央で優雅に微笑む女の姿があった。
[FadeIn]真紅の絨毯の上、院長・マザーが両手を広げて朔を迎え入れる。[/FadeIn]
[A:院長・マザー:喜び]「素晴らしいわ、朔。見事な生存劇。まさかあなたが、これほどの狂気をその身に飼い慣らしていたなんて」[/A]
背後の巨大モニターには、この隔離施設『エデン』の惨状を示すデータが無機質に羅列されていた。
> **【システム通知】**
> 全収容者の生命活動の停止、またはリミッターの解除を確認しました。
> プロジェクト『青いケモノ』、最終フェーズへ移行します。
最終稼働データプロトコル
* 初期収容者数: 104名
* 現在生存者数: 1名
* プロジェクト達成率: 100%
| 対象者名 | 識別コード | 現在ステータス | 死因・備考 |
| :--- | :--- | :--- | :--- |
| 桐生 蓮 | P-042 | **死亡** | 頸部圧迫による窒息(P-103による) |
| 枷場 零 | P-001 | **死亡** | 頸椎切断(P-103による) |
| **鳴海 朔** | **P-103** | **生存** | **完全覚醒・リミッター解除** |
[A:院長・マザー:愛情]「さあ、おいでなさい私の最高傑作。あなたがこの『エデン』の新たな支配者――」[/A]
[Shout]ザシュッ!![/Shout]
マザーの甘い声は、喉元に深々と突き立てられたサバイバルナイフによって強制的に遮られた。
目を見開くマザー。彼女の真っ白なドレスが、瞬く間に赤く染まっていく。
[A:鳴海 朔:冷静]「……支配者? 違うよ、マザー」[/A]
朔はナイフの柄を握り込んだまま、マザーの耳元に顔を寄せる。その声は酷く冷たく、それでいて酷く甘かった。
[Sensual]
「誰かが作ったルールの上で生きるなんて、もううんざりなんだ。あんたの言う『自由』も、結局はあんたの手のひらの上だった」
朔の青白く痩せた指が、マザーの艶やかな頬を優しく撫でる。
「本当の自由ってさ、全部壊すことだよね?」
[/Sensual]
気管を潰され、血を吐きながらも、マザーの歪んだルージュの唇は最期に弧を描いた。
それは恐怖ではなく、自らの被検体が創造主を超えたことへの、狂気的な母性愛の証明。
[A:院長・マザー:喜び]「あ……ぁ……愛して、るわ……私の、青い……」[/A]
ドサリと、マザーの体が崩れ落ちる。
無菌の空気を侵食していた百合の香りは、すでにむせ返るような血の匂いに完全に塗り替えられていた。
[FadeOut]夜が明け、ステンドグラス越しに朝日が差し込み始める。[/FadeOut]
鳴海朔は、静まり返ったコントロールルームの中心で、一人血まみれで立ち尽くしていた。
胸の傷からはまだ血が流れ続けているが、そんなものはもうどうでもよかった。波風を立てないように息を潜めていた弱い少年は、もうどこにもいない。
[A:鳴海 朔:狂気]「あはは……。あははははははははッ!!」[/A]
誰に怯えることもなく、誰に遠慮することもない。
無数の死体と沈黙だけが支配するこの美しい城で、朔の透明な笑い声だけが、いつまでもいつまでも響き渡っていた。
――狂気のエデンに、一匹の青いケモノが産み落とされた。