第一章: 首を絞めるコンチェルト
光さえも拒絶する、深く冷たい闇に沈みきった無人のコンサートホール。
その静寂のただ中に、天井のわずかな隙間から、まるで神が垂らした糸のように細く鋭い一筋のスポットライトが差し込んでいた。
切り取られた光の円の中で、鋭い三白眼を獣のようにギラつかせる氷室零が、漆黒のオーダーメイドスーツをまとって静かに佇んでいる。
仕立ての良い上質な生地が彼が呼吸するたびにわずかに揺れ、静謐な空間に布擦れの微音だけを響かせていた。
長く伸びた前髪の奥から覗く右目が、凍てつく冬の夜空を思わせる冷徹な光を湛えている。
病的なまでに白く細い指先が、バイオリンの弓を、物理法則すら超越したかのような完璧な角度でそっと引いた。
張り詰めた四本の弦から、鼓膜を劈き、聴く者の魂を直接毟り取るような、狂おしいほどに美しい旋律が解き放たれる。
その圧倒的な音に支配された床の上、色あせて薄汚れたグレーのパーカーを纏った浅倉愁が、這いつくばって喉を鳴らしていた。
かつての栄光を失った、生気のない泥色の茶髪が、埃っぽい冷たい床の上に無残に散らばる。
包帯が巻かれたままの右手首が、彼の惨めな身じろぎに合わせて、ガサガサと虚しい音を立てて木床に擦れていた。
零は、一切の情けを排した動きで不意に演奏を止め、バイオリンの弓の先を、愁の尖った顎の下へ容赦なく添えて持ち上げた。
無理やり上を向かされた愁の喉元が、恐怖と興奮で小さくひきつり、細い鎖骨が服の隙間で激しく上下する。
氷室 零「どうした、愁。この素晴らしいG線上のアリアが、お前のその壊れた手には毒薬のように聴こえるか?」
弓の先端から伝わる冷ややかな圧迫感に、愁の大きく見開かれた瞳から、じわりと熱い涙が溢れ出して頬を濡らしていく。
ひび割れた唇が戦慄き、熱を帯びた細かな呼吸が、静まり返ったホールの中で狂おしく乱れていった。
浅倉 愁「零……もっと言って。僕の指がもう動かないことを、僕がただのゴミだってことを、君のその美しい声で教えてよ……」
自らの破滅を望む、歪んだ恍惚が、愁の掠れた吐息に混ざり合って、冷たい空間へと溶けていく。
零は冷酷な薄い唇をわずかに吊り上げ、磨き抜かれた漆黒の革靴を、嘲笑うようにゆっくりと持ち上げた。
無慈悲な重圧。
愁の動かない右手を、靴底で容赦なく踏みにじる。
容赦なく体重がかけられ、繊維と骨が軋む鈍い音が静寂を殺した。
浅倉 愁「あ、あぁっ……!」
激痛が走るはずの指先から、言葉にできないほど淫らな震えが、電流となって愁の全身の脊髄を支配していく。
息を吸うことさえ忘れたように、彼の背中が弓なりに反り返り、痙攣する喉から掠れた嬌声が漏れ出た。
氷室 零「美しいな。お前が壊れていく音は、どんな名曲よりも俺の脳を痺れさせる」
零は、踏みつけられた手の痛みと快楽に悶える愁の顔を、虫ケラを観察するかのような氷の眼差しで見つめ、さらに足元へ力を込めた。
その地獄のような、しかし同時に至高の美を孕んだ異様な光景を、舞台袖の重い暗闇からじっと凝視する者がいた。
冷艶な輝きを放つ銀縁眼鏡の奥、蜘蛛のように冷徹で、獲物を品定めするような貪欲な瞳が、暗闇の中で妖しく光る。
第二章: 裏切りの旋律

重厚な防音壁に四方を囲まれた、息が詰まるほど重苦しい空気が漂う、榊響子のオフィス。
壁一面を埋め尽くす不気味な黒い現代アートワークが、部屋を訪れる者に異様なまでの精神的圧迫感を与えていた。
身体のラインを容赦なく強調するタイトな黒のノースリーブワンピースに身を包んだ響子が、床の上で乾いた赤いパンプスのヒール音を響かせる。
豊かな胸元を誇示するように、響子は長い爪の先で銀縁眼鏡のブリッジをゆっくりと押し上げた。
榊 響子「ふふ、いいわ。もっとお互いを貪り合いなさい」
響子は机の上の煙草に火をつけ、紫煙の向こうで怯えるように肩を震わせている愁に向けて、一枚の真っ白な紙を突きつけた。
インクの匂いが鼻をつくその書類は、不気味なほど整然とした文字で埋め尽くされている。
浅倉 愁「これは……何、ですか……?」
榊 響子「零がね、あなたを治すために、自分のバイオリニストとしての寿命を切り売りして作った資金調達の契約書よ」
世界が反転する。
零が、僕を、救おうとしている……?
信じがたい現実を前にして、愁の思考は完全に停止し、心臓が肋骨の裏側を激しく叩き始めた。
榊 響子「彼はあなたを完璧に治療して、かつての天才に戻した上で、自分の手で完膚なきまでに叩き潰したいのよ」
響子の愉悦に満ちた冷酷な言葉が、鋭い針となって、愁の無防備な鼓膜を容赦なく引き裂いていく。
治療、復活、飾られた栄光、そして再びの破壊。
泥沼の底で、自分をただ暗闇に沈めて甘やかしてくれると信じて疑わなかった零。
その彼が、自分を光の下へ引きずり出し、「救う」ための契約を血で結んでいたという、あまりにもむごい裏切り。
浅倉 愁「嫌だ……! 僕は、僕は壊れたままでいいんだ! 救わないでくれ!」
涙で視界が歪み、脳内が不協和音で埋め尽くされる。
救済という名の、地獄よりも深い絶望に直面した愁は、両手で耳を塞ぎ、叫びながら夜の雨街へと裸足のまま走り出した。
第三章: 壊れた楽器の共鳴

激しい豪雨が、窓ガラスの割れた廃倉庫のトタン屋根に、機関銃のような音を立てて叩きつけ、冷たい隙間風が吹き荒れる。
至る所に雨漏りの水たまりができた泥だらけの床の中央で、零はバイオリンを静かに構え、嵐の轟音そのものを調律していた。
稲妻が走り、倉庫内を一瞬だけ白く染める。
白刃のような光に照らされたその瞬間、全身をずぶ濡れにした愁が、錆びついた鉄扉を無理やりこじ開けて中へと飛び込んできた。
浅倉 愁「どうして僕を治そうとするんだ! 僕を救わないでくれ!」
喉を引き裂くような叫び声とともに、愁は零の濡れた黒スーツの胸ぐらをつかみ、狂った獣のように激しく揺さぶる。
浅倉 愁「完璧な僕なんて、もうどこにもいない! 君に踏みにじられていたいんだ!」
零は鋭い三白眼をさらに細め、自らの胸元に縋り付く愁の手を、一切の躊躇なく冷酷に振り払った。
突き放された愁が水たまりに倒れ込み、泥水が彼の白い頬と衣服を汚していく。
氷室 零「勘違いするな、愁」
零の指先が、バイオリンの弓を、皮膚が白くなるほどの力で強く握り直した。
氷室 零「お前が壊れたままだと、俺の退屈が殺せないんだよ。完璧なお前を俺が永遠に奪い去る、その絶頂だけが俺のすべてだ」
執着の咆哮。
零の瞳の奥で、ドス黒く濁った底知れぬ独占欲が、本物の嵐よりも激しく燃え上がる。
零はバイオリンを鋭く肩に当て、吹き荒れる嵐の轟音を真っ二つに切り裂くような、烈しく狂暴な旋律を奏で始めた。
その圧倒的な狂気と音圧に当てられた愁は、半狂乱になりながら、倉庫の隅に放置された調律の狂った古いグランドピアノへ突進した。
浅倉 愁「あああああっ!」
もう動かないはずの右手を、自らの肉体を引きちぎるような恐るべき勢いで、鍵盤の上へと叩きつける。
まともな和音にすらならない、汚濁に満ちた不協和音と、暴力的なバイオリンの旋律が、狭い倉庫の中で激しく牙を剥き合って交錯した。
二人の魂が、泥泥に溶け合って共鳴していく。
お互いを呪い、しかし同時にお互いしか見えていない二人の狂気が、重なり合って一つの歪んだシンフォニーを形成していく。
極限まで高まったその激しい演奏の最中、愁の右手の骨の奥から、パキリ、と不穏で致命的な破壊の音が響き渡った。
第四章: 不協和音の終幕
あれほど激しかった嵐は嘘のように去り、東の空から昇る朝焼けが、眼下に広がる街を血のように赤く染め上げていた。
誰もいない高層ビルの屋上で、凍てつくような冷たい朝風が、二人の乱れた髪を乱暴に揺らす。
コンクリートの冷たい床に、力なく座り込む愁の右手は、もう指先一つ、奇跡を願うことすらおこがましいほどピクリとも動かない。
完全なる決着。
微かに繋がっていた腱も、神経も、昨夜の暴挙によって完全に断裂し、二度と治療することも叶わない、本物の、完璧な廃人。
零は生涯の相棒であったバイオリンを無造作に床に置き、ゆっくりと、音もなく愁の前へ歩み寄った。
零は愁の前に静かにひざまずき、もう体温を失いつつある、ピクリとも動かない愁の冷たい右手を、そっと壊れ物を扱うように両手で包み込む。
そして、二度と美しい音を紡ぐことのできないその醜い指先に、ひどく愛おしそうに、何度も深く唇を重ねた。
氷室 零「……これで、お前は本当に壊れた。もう二度と、俺の手から逃れることはできない」
零の端正な顔に、かつて誰も見たことのない、安堵に満ちた、だが酷く切なく美しい笑みが浮かぶ。
浅倉 愁「あ、あはは……。ありがとう、零。僕はやっと、君だけのものになれた……」
愁の目から溢れた大粒の涙が、零の白い手の甲に、温かい痕跡を残して滴り落ちる。
救われる恐怖、光の世界へと引きずり戻される絶望から完全に解放され、一生、零の足元で飼い殺されるという絶対の約束。
愁は残された震える左手を伸ばし、零の細い首を強く抱き寄せ、深く、深く、その狂おしい温もりに縋り付いた。
氷室 零「愛しているよ、愁。俺たちの曲を、ここで終わらせよう」
零は愁の首を絞めるように強く抱きしめ、二度と別の空気を吸わせないように、その呼吸を奪う激しい口づけを交わした。
遠くの地平線から、二人の犯した罪を告発するように、パトカーのサイレンが、赤く染まる街全体に響き渡る。
しかし、二人の鼓膜にはもう、世界で最も甘美で、最も美しい、二人だけの不協和音しか聞こえていなかった。