第一章: 窒息の儀と血の口づけ
湿った地下の冷気が、肺の奥をちくちくと刺す。カビと腐敗土が混ざり合った異臭の中、神代律は色素の薄いボサボサの黒髪を揺らし、祭壇の前へと歩みを進めた。死人のように隈の浮いた虚ろな三白眼が、古びた赤黒い血潮にまみれた注連縄をねめつける。
着古した黒のパーカーの袖をまくり上げると、青白い前腕には脈打つ紫色の呪詛の痣が、蠢く百足のようにびっしりと這い回っている。皮膚の下で神経を焼き焦がすような激痛。それこそが、律にとって唯一の生の実感だった。
神代 律「やっと会えたね。三百年間、ずっとこの冷たい土の下で飢えていたんだろ?」
乾いた唇から零れた囁きとともに、律は結界の注連縄を素手で掴み、皮膚が裂けるのも構わず一気に引きちぎった。
刹那、重苦しい悪意が礼拝堂の空気を一瞬で塗りつぶす。石壁の隙間から立ち込める黒い霧。
暗闇の最深部から、足首まで届く漆黒の髪を濡れたように揺らして女が這い出る。
底知れぬ夜の闇を溶かしたような血赤色の瞳と、病的なまでに透き通る陶器の肌。
血塗られた純白の死装束を妖艶に崩した祟り神、夜刀禍根が、口元を三日月の形に歪めて冷笑を浮かべた。
夜刀 禍根「身の程知らずの人の子が。妾の眠りを妨げた代償、命で払うがよい」
凍てつく細い指先が、律の喉仏を正面から容赦なく締め上げる。
気道が潰れ、首の骨がきしむ。
肺の中の酸素が急速に失われ、チアノーゼを起こした視界が赤黒く明滅する。しかし、窒息の苦悶に喘ぐはずの律の薄い唇は、歓喜に震えて吊り上がっていた。
神代 律「最高だよ。もっと強く締めてくれよ。骨の髄まで、君の怨みで満たされたいんだ」
禍根の血赤色の瞳が微かに揺らぎ、細く整った眉が跳ね上がる。
耳を打つのは、懇願の悲鳴ではない。まるで最愛の恋人の肌を求めるかのような、湿り気を帯びた熱い吐息。
律は紫の痣が浮かび上がる自らの首筋を差し出し、禍根の氷のような手首へ、確かな熱量を持った指を絡め取った。
夜刀 禍根「……くく、狂うておる。死を前にして悦ぶ生贄など、初めてでおじゃるよ」
禍根の赤い唇が愉悦に歪み、影から伸びた怨念の鎖が律の全身を骨が軋むほどきつく縛り上げる。
夜刀 禍根「よいぞ。そなたの命の灯火、妾の呪縛でじっくりと絞り尽くしてやろうぞ」
引き寄せられた唇が重なり合う。押し込まれた舌から、鉄の錆びた風味と黒蜜の濃厚な甘美が混ざり合った神血が、律の口腔へと注ぎ込まれた。
気道と食道を灼熱の呪詛が駆け巡る。咽頭が焼け爛れるような激痛と、内臓を直接撫で回されるような痺れ。
脳髄の神経束が狂乱の熱に侵され、♥二人の魂が結びつく[/Heart]、不滅の呪約の音が頭蓋の内で鐘のように響き渡る。
ズダンッ!
神聖な交わりを切り裂き、礼拝堂の分厚い樫の木扉が、轟音とともに真っ二つに両断された。
吹き荒れる粉塵の向こうから、鋭利な銀の切っ先が、寸分の狂いもなく二人の首元へと突きつけられる。
第二章: 調教の檻と破滅の罠

粉塵を切り裂き、白銀のショートボブを冷酷になびかせて、黒のタイトスーツに身を包んだ女が立っていた。
切れ長の琥珀色の瞳が、獲物を屠る獣のように冷徹に二人を射抜く。
仕立ての良い白手袋をはめた手には、銀色に光る仕込み杖が握られ、その切っ先からは淡い霊光が立ち上っている。
狗神 緋紗子「怪異に身を差し出すなど、反吐が出るほど愚かな男ですね」
狗神会の冷酷なる執行人、狗神緋紗子は感情を削ぎ落とした無機質な声で言い放つ。
術式の発動とともに視界が急速に反転し、律の肉体は地下深くに位置する冷涼な尋問室の拘束椅子へと移送されていた。
壁一面に隙間なく貼り巡らされた銀色の結界符が、白銀の蛍光灯の下で無機質に反射している。
鉄の拘束具で椅子に縫い止められた律の胸元へ、緋紗子は仕込み杖の切っ先を躊躇なく深く押し込んだ。
狗神 緋紗子「大人しくなさい。貴方の体に巣食う不潔な害獣の呪いを、今すぐ削ぎ落としてあげます」
退魔の霊力が銀の刃を伝い、律の皮膚をじゅうじゅうと焼き焦がす。
胸元に刻まれた紫色の痣が激しく泡立ち、肉が焼ける嫌な異臭が狭い室内に充満していく。
神代 律「あ、ぐ……っ、やめろ……! それを奪うな……っ!」
激痛に胸筋を痙攣させ、喉を嗄らしながらも、律の虚ろな三白眼は激しい飢餓感に濁り切っていた。
神代 律「奪わないでくれ……。この呪いがないと、僕は生きている実感が湧かないんだよ……!」
緋紗子の細い眉がぴくりと跳ねる。
白手袋越しに律の顎を乱暴に掴み上げると、吐息が直接触れ合うほどの距離まで顔を冷然と近づけた。
狗神 緋紗子「怪異に殺されたがる狂人ですか。……いいでしょう。ならば私が、貴方を徹底的に管理してあげます」
琥珀色の瞳の奥底に、凍てつく加虐の炎がゆらりと灯る。
狗神 緋紗子「勘違いしないで。貴方を殺す権利を持っているのは、化け物ではなく私だけよ」
緋紗子は自らの親指の腹を噛み切り、溢れ出た鮮血に染まる狗神の霊糸を、律の胸元の傷口へ直接突き刺した。
心臓の最深部で、禍根の呪詛と緋紗子の霊糸が激しく衝突し、火花を散らす。
二重の執着に引き裂かれる肉体が、耐え難い軋みを上げて激しく反り返る。
バヂヂヂッ!
その刹那、尋問室の天井に連なる蛍光灯が一斉に火花を散らして破裂した。
銀色の結界符が赤黒い血の雨となってジュクジュクと音を立て、一斉に壁から剥がれ落ちていく。
第三章: 幽世の蜜、怨讐の胎動

「妾の伴侶に、何処の馬の骨が触れておるのじゃ!」
赤黒く濁った夜空の下、尋問室ごと引き裂かれた廃都市のスクランブル交差点が、底なしの異界へと沈下していた。
数百の怨霊を漆黒の帳として従えた夜刀禍根が、血塗られた死装束を激しく翻して天より舞い降りる。
振り下ろされた怨念の極太の鎖がアスファルトを粉砕し、鉄筋コンクリートの残骸を塵へと変えていく。
緋紗子は仕込み杖の鞘を捨て、黒タイトスーツの裾を突風になびかせながら、刃を水平に構えた。
狗神 緋紗子「害獣風情が囀るな。この壊れた男を檻に閉じ込めるのは、私の役目です」
《狗神解放・九魂裂断》
緋紗子の影から巨大な銀色の霊獣が具現化し、咆哮を上げて禍根の怨霊群へと喰らいつく。
黒煙と血飛沫が豪雨のように降り注ぎ、激突の圧力によって交差点の空間そのものが軋み声を上げて歪んでいく。
夜刀 禍根「塵となれ、小娘! 律の魂は、妾の腹の中でのみ永遠となるのじゃ!」
禍根の呪爪が夜気を切り裂いて黒い軌跡を描き、緋紗子の退魔刀が空を裂いて銀の閃光を放つ。
激突の余波でアスファルトが捲れ上がり、高層ビルが崩落していくその中心で、律は倒れ伏しながら恍惚と光景を見上げていた。
自分という存在を奪い合う、二人の女の、魂を削り合うほどの純粋な殺意と独占欲。
たまらないな。僕のためだけに、世界が壊れていく。
律はふらつく足で立ち上がり、二人の殺気の交差点へと自ら微笑みながら歩み出た。
ドスッ!
右胸には禍根の鋭利な黒い呪爪が、左胸には緋紗子の退魔刀が、同時に深々と突き刺さる。
肋骨が砕け、肉が裂ける鈍い音。
夜刀 禍根「律……!? なぜ間に入ったのじゃ!」
狗神 緋紗子「貴方、正気ですか……っ!?」
口端から溢れ出す鮮血を拭いもせず、律は胸を貫く二人の手首を同時に力強く掴み、己の肉体へとさらに深く引き寄せた。
神代 律「全部……ちょうだいよ。君たちの毒なら、全部飲み干せるから」
心臓の奥底で相反する呪詛と霊糸が激しく混ざり合い、青黒い光となって律の全身から噴出する。
破壊の呪詛と調教の霊糸が、律の特異な霊媒体質を触媒にして完全に融解し、世界を覆い尽くしていた結界の歪みを中和していく。
崩壊の轟音はピタリと止み、交差点に底知れぬ静寂が訪れた。
胸を両側から貫かれた律の体は、広がる血だまりの中へと静かに崩れ落ちる。
その脈動は、完全に途絶えていた。
第四章: 永遠の共犯者たち
赤い彼岸花が、見渡す限りの荒野一面に咲き乱れている。
風すら吹かず、永遠に夜が明けることのない幽世の廃屋。その古びた縁側で。
静寂を破るように、律の瞼がゆっくりと持ち上がった。
かつて虚ろだった三白眼の奥底には、禍根と同じ血赤色の光と、緋紗子と同じ琥珀の輝きが静かに揺らめいている。
神代 律「……ここは?」
狗神 緋紗子「目が覚めましたか、私の可愛い飼い犬」
スーツの胸元を大胆に崩し、白手袋を脱ぎ捨てた緋紗子の生々しい指先が、律の二度と脈打たない冷たい胸を這うように撫で下ろす。
退魔機関の全てを焼き払い、逃亡者となった女の唇には、狂気的なまでの執着が宿っていた。
狗神 緋紗子「貴方はもう人間としては死にました。一生、私の監視下で飼い殺しにしてあげます」
反対側の首筋に、凍るような冷たい舌と鋭い牙が、肉を割いて深く這い寄る。
夜刀 禍根「ふふ、寝言を言うな小娘。律の魂を縛っておるのは妾の血よ」
禍根の細く冷たい腕が律の腰に蛇のように絡みつき、乱れた死装束の擦れる音が耳元で甘く鳴る。
夜刀 禍根「永遠に妾の呪縛の中で悶えるがよい。魂の最後のひとかけらまで、どこへも逃がしはせぬぞ」
首筋を牙で噛み裂かれ、胸の古傷を爪で抉られる鮮烈な激痛。
それと同時に、二つの絶対に交わらぬ甘美な執着が、死者へと成り果てた律の肉体の隅々まで毒のように染み渡っていく。
神代 律「……ああ、最高だ。もっと呪ってよ」
救済も光も存在しない、二人だけの甘く歪んだ檻の中。
律の唇から蕩けた笑みが零れ落ち、三人の影は永遠に明けることのない夜の深淵へと、溶け合うように沈んでいった。