第一章: 雨滴と無痛のメス
喉元に刃先を押し当てると、生温かい血が白い襟元へ滲み出した。
戌井志乃「動くな。頸動脈を裂かれたくなかったら、息もするな」
濡れ羽色のボブカットから滴る雨水が、濁った琥珀色の瞳を冷たく濡らす。
オーバーサイズの黒いミリタリーパーカーの胸元は、激しい呼吸に合わせて激しく上下していた。
蒼白な陶器肌に冷徹な三白眼を眇めた漆原怜は、眉一つ動かさず、嗤うように唇の端を持ち上げた。
漆原怜「私を失望させないでおくれ、志乃。君の手、小刻みに震えているよ」
無機質な黒のゴム手袋をはめた指先が、志乃のパーカーのジッパーを無造作に引き下げる。
噛み合っていた金属の歯が耳障りな音を立てて外れ、湿りきった解剖室の冷気が露出した鎖骨を撫で回す。
衣服の下に刻まれた、心臓移植の太い縦一文字のケロイド。
赤黒く盛り上がったその醜悪な縫合痕に、怜の冷え切った掌が直接吸い付くように滑り込んだ。
肉が粟立つ。胃の奥がせり上がり、喉の奥に鉄の味が広がる。
戌井志乃「っ……触るな……ッ!」
漆原怜「君の心臓は、どうしてそんなに醜悪で、狂おしいほど美しいのだろう」
怜は白衣の内ポケットから引き抜いた金属の冷たさを帯びた聴診器のチェストピースを、志乃の胸骨へ容赦なく押し付けた。
氷のような金属盤が、傷口の真上で皮膚をすり潰すように軋む。
ドクン、ドクン、トクンと皮膚越しに跳ね上がる脈動が、解剖室のコンクリートを震わせる。
不規則に乱れる心拍。それは志乃の意志とは無関係に、怜の指の熱に反応して跳ね踊っていた。
漆原怜「聴こえるかい? 私を殺せば、妹の心臓は二度と撫でてもらえなくなる。それでも刺せるかい?」
戌井志乃「アンタが……妹を奪ったくせに……あぁっ!」
傷跡を執拗になぞる親指の圧力に、志乃の膝から急速に力が抜け、ナイフが床の泥水へ滑り落ちそうになる。
呼吸が浅く乱れ、爪が手のひらに食い込んで皮を破る。
怜の視線は獲物を解剖台に固定した執刀医そのものであり、その瞳の底にあるのは純粋な狂気の悦楽だった。
その刹那、重い鉄扉が爆音と共に弾け飛んだ。
吹き荒れる突風が、薬品の鼻を突く悪臭を一瞬で吹き飛ばす。
第二章: 濁流の弾道と残酷なる真実

轟音と硝煙が雨混じりの解剖室を満たす。
葛城煉「そこまでだ、ド腐れヤブ医者! 志乃からその汚ねえ手を離しな!」
擦り切れたトレンチコートを翻し、無精髭に血を吐き散らした葛城煉がリボルバーを突きつけていた。
容赦のない引き金の圧搾。
引き金が絞られ、怜の右肩を鉛の弾丸が抉り抜く。
白いスーツに赤黒い染みが炸裂し、骨の砕ける音と共に怜の身体が錆びたストレッチャーへと叩きつけられた。
葛城は志乃の華奢な肩を荒々しく抱き寄せ、自らの背中へ庇い立てる。
タバコのヤニと安酒、そして末期の肺から漏れ出る腐敗した鉄の臭いが志乃の鼻腔を強く突いた。
漆原怜「ふ、ふふ……葛城刑事。相変わらず美しい血圧の上昇音だね」
床に血を滴らせながら、怜は這うように顔を上げ、黒いゴム手袋で自らの肩の傷口を愛撫するように撫でた。
その唇には、自らの肉を撃ち抜かれた痛覚すら陶酔へと変換する歪んだ笑みが貼りついている。
漆原怜「だが、君は本当に彼女を救いに来たのかい? 自分が志乃の妹を死に追いやった共犯者だという事実を、私の死で埋葬したいだけだろう」
鼓膜を劈く言葉。志乃の身体から体温が一瞬で引いていく。
戌井志乃「……は? 葛城、何言ってんだ、コイツ……」
志乃を庇っていた葛城の背中が、まるで死後硬直のように強張った。
突き出された銃口が、微かに、しかし決定的に震え始める。
漆原怜「半年前、志乃の治療費のためにブローカーへ交通事故を偽装させたのは誰だい? 標的の車に妹が乗っていたのは君の過失だ。私は届いた心臓を移植したにすぎない」
怜の言葉は無機質なメスとなり、葛城の沈黙を切り裂いていく。
信じたくない。だが、目の前で脂汗を流す男の横顔が、すべてを肯定していた。
戌井志乃「嘘だろ……葛城! 嘘だって言えよッ!」
葛城の唇は蒼白に乾き、弁解の言葉は喉の奥で詰まったまま、一筋の脂汗となって無精髭の顎を伝い落ちた。
沈黙という名の自白が、雨音の隙間を埋め尽くしていく。
第三章: 交錯する心室細動

雷光が解剖室の割れた窓を白銀に焼き払う。
葛城の動揺を縫い、怜の袖口から隠し持っていたメスが閃いた。
肉を裂く鈍い音と共に葛城の手首から鮮血が噴き出し、リボルバーが足元の水溜まりへ甲高い音を立てて跳ねる。
葛城煉「てめえぇぇッ!」
手首を切り裂かれながらも、葛城は濁った獣のような咆哮を上げた。
肺の激痛に顔を歪め、喀血しながら怜の喉笛へ飛びかかり、二人して泥水の中へもつれ込む。
拳が怜の頬骨を砕き、怜の鋭利な爪が葛城の頸動脈へ深く食い込んだ。
血と泥水が混じり合い、無残な飛沫を上げて跳ね散る。
葛城煉「志乃……逃げろ! 俺はどうなったっていい……お前だけは生き延びろ!」
漆原怜「逃げるものか……彼女の心臓は私の作品だ……私の最高傑作だ……誰にも渡さない……!」
二人の男の骨が軋み、血の泡が水面を赤黒く濁らせる。
醜悪なエゴのぶつかり合い。救済者ぶった殺人者と、狂気に憑りつかれた医師。
どちらも志乃の人生を蹂躙し、妹の命をすり潰して成り立っている怪物たち。
志乃は濁った琥珀色の瞳を見開き、水底に沈む無骨な鉄塊へと手を伸ばした。
指先が冷たいリボルバーの撃鉄に掛かる。金属の重みが、狂おしい現実の重みとして掌に沈む。
ドクン! ドクン!
胸の中のケロイドが引き裂かれそうなほど、妹の心臓が激しい律動を刻む。
どちらも憎い。どちらも決して許さない。どちらも死んでしまえばいい。
だが――どちらかが死んでこの幕を下ろすことなど、絶対に許さない。
乾いた銃声が狭い室内に木霊した。
引き金を絞った志乃の腕は、微動だにしなかった。
放たれた重金属弾は怜の左大腿部を貫通し、その下敷きになっていた葛城の肩の肉をも容赦なく抉り飛ばす。
二つの巨体が激痛に呻き、もつれ合ったまま泥水の中へ引き剥がされて倒れ伏した。
戌井志乃「あは……あははは! 誰が死んでいいって言ったよ!」
硝煙の立ち込める銃口を二人の眉間へ交互に向け、志乃は涙と雨に塗れた顔で甲高く嘲笑した。
戌井志乃「死んで楽になるなんて許さない! 二人とも、私のこの心臓の音を、一生這いつくばって聴き続けなさいよ!」
被害者の顔は消え去っていた。そこに立っていたのは、自らの呪いを武器に変えた一人の支配者だった。
第四章: 生き地獄という名の聖域
雨雲の切れ間から、薄汚れた灰色の朝の光が屋上へ差し込んでいた。
冷たい風が吹き抜け、コンクリートに乾き始めた血の臭いを薄めていく。
右肩と脚を押さえた怜は壁に凭れ、純白のネクタイを止血帯代わりに引きちぎり、歯で締め上げていた。
激痛に顔を歪めながらも、その三白眼には異常な熱が宿っている。
漆原怜「素晴らしいよ、志乃。君は私たち全員を、終わらない共犯の檻へ閉じ込めた」
破れた黒のゴム手袋を脱ぎ捨てた怜の生肌の指先が、恍惚とした震えを帯びて志乃の泥で汚れたブーツの爪先に触れる。
その隣で、葛城は血の混じった唾をコンクリートへ吐き捨て、震える指で折れ曲がったハイタールタバコに火を点けた。
ライターの小さな炎が、男の疲れ切った、しかし腹を括った眼光を照らし出す。
葛城煉「……上等だ。てめえの言う通りにしてやるよ。俺の残りの命は、お前の心臓が動いてる間だけ預けとく」
深く吸い込まれた紫煙が、冷えた朝靄の中にゆっくりと溶けていく。
志乃は二人を見下ろし、嘲弄を込めてパーカーのジッパーを首元まで引き上げた。
胸の奥から響くのは、もはや悲哀の呻き声ではない。二人を支配し、永遠に飼い慣らすための暴力的で確固たる脈動だった。
戌井志乃「漆原、アンタのメスで葛城の手当てをしな。葛城、アンタの汚い権力でこの医者の罪をもみ消しな」
志乃は冷たいリボルバーの銃口で、怜の額を小気味よく小突いた。
皮膚が裂け、怜の白い額から一筋の赤い線が垂れる。
戌井志乃「私の心臓を止めたくないなら、二人とも死ぬ気で私のために命を削りなさい」
怜は額に血を滲ませながら甘美に喉を鳴らし、葛城は自嘲の笑みを浮かべて煙を吐き出す。
許しなど存在しない。贖罪の道もない。あるのは、一人の少女の心音に縛られた、永遠の共依存。
千切れた鎖を自らの血で繋ぎ直すように、三人の泥に塗れた影が朝の光の中に長く、どこまでも深く伸びていった。