静寂のフォルテ

静寂のフォルテ

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第一章 0デシベルの嘘

教室には、鉛のような沈黙が垂れ込めている。

聞こえるのは、衣擦れの音と、誰かがシャープペンシルの芯を繰り出す微かなクリック音だけ。

僕、瀬戸カケルは、耳を塞ぐようにノイズキャンセリングヘッドホンを深く押し当てた。

電源は入っていない。

これはただの「フリ」だ。

「……」

隣の席の女子が、電子ペーパーのタブレットを突き出してくる。

『教科書、忘れたの?』

無機質な明朝体の文字。

僕は小さく頷き、自分の端末の画面を彼女に見せるように傾けた。

『ありがとう。助かる』

彼女は無言で微笑み、また前を向く。

この世界では、音は「毒」だ。

十年前、突如として蔓延した『聴覚過敏症候群』。

特定の周波数以上の音圧が、人々の脳に激痛をもたらすようになった。

以来、人類は静寂を選んだ。

学校での私語は厳禁。

音楽は反社会的行為。

大声で笑うことすら、野蛮な暴力とみなされる。

けれど、僕だけが違った。

僕には、痛みがない。

どれだけ大きな音を聞いても、脳は焼けない。

だが、それを知られれば「異端」として隔離される。

だから僕は今日も、痛みに顔を歪めるフリをして、静寂の海を泳ぐ。

放課後。

逃げるように教室を出た。

向かうのは旧校舎。

立ち入り禁止の、元・音楽室だ。

埃っぽい廊下を歩く。

床板が軋む音すら、今の僕には心地よい。

音楽室の重い扉に手をかけた、その時だった。

――ダンッ。

中から、鈍い衝撃音が響いた。

誰かいる?

心臓が跳ねる。

警備員か?

いや、それならもっと静かに巡回するはずだ。

恐る恐る、扉を数センチだけ開ける。

夕陽が射し込む部屋の中央。

埃が黄金の粒子となって舞う中、彼女がいた。

同じクラスの、水無月ミナト。

彼女はグランドピアノの前に座り、鍵盤に両手を叩きつけていた。

音は、しない。

サイレント機能?

いや、違う。

弦が錆びつき、ハンマーが折れているのだ。

彼女が叩くたびに、木製の打撃音が「ゴトッ、ボスッ」と虚しく響く。

けれど。

彼女の表情は、まるで激情のソナタを弾いているかのように歪み、そして輝いていた。

汗が顎から滴り落ちる。

呼吸が荒い。

音のない世界で、彼女だけが咆哮していた。

「……!」

扉が軋み、僕の存在がバレた。

ミナトが弾かれたように振り返る。

目が合った。

通報される。

そう思った瞬間、彼女は眉を吊り上げ、自分の喉元に指を当てて首を振った。

『声が出せない』

ジェスチャーだ。

そして、埃まみれの黒板に、チョークで殴り書きをした。

『共犯者求ム』

白い粉が舞う。

その背中が、僕には翼に見えた。

第二章 錆びついた共鳴

「君は、何をしているの」

僕は震える指で、スマホの画面を見せた。

ミナトはチョークを折る勢いで書き殴る。

『ピアノを弾いている。見ればわかるでしょ』

「音、出てないよ」

『心で鳴ってる』

彼女はふん、と鼻を鳴らし、また鍵盤に向かった。

ゴトッ、ガタッ。

リズムは完璧だった。

ベートーヴェン。

「熱情」。

僕にはわかる。

絶対音感なんて便利なものじゃない。

僕は、音の「色」が見える。

彼女の指先から、焦げ付くような深紅の色が溢れ出していた。

「そこ、テンポが走ってる」

思わず口に出してしまった。

小さな声だったが、この静寂の世界では爆音に等しい。

ミナトの手が止まる。

彼女はゆっくりとこちらを向き、僕のヘッドホンを指差した。

『聞こえてるの?』

黒板の文字。

僕は観念して、ヘッドホンを首に下ろした。

「……うん。僕には、痛くないんだ」

「……」

ミナトの瞳が揺れる。

彼女は立ち上がり、僕の胸ぐらを掴んだ。

近い。

微かに、制汗剤と古い木の匂いがした。

彼女はポケットからスマホを取り出し、高速でフリックした。

『じゃあ、弾いて』

『本物の音を、私に聞かせて』

画面を押し付けられる。

「無理だ。弦が切れてる」

『放送室』

彼女はニヤリと笑った。

『卒業式のリハーサルで、放送機材のチェックがある。そこに、電子ピアノが眠ってる』

『ジャックすれば、全校生徒に届く』

狂っている。

そんなことをすれば、退学どころか、傷害罪で捕まる。

「みんなが苦しむだけだ」

『苦しめばいい』

ミナトの瞳は、暗く澄んでいた。

『音を忘れた人間に、生きている実感を与えてやるの』

『ねえ、カケル』

彼女は初めて、僕の名前を呼んだ(文字で)。

『あなたは、その才能を隠したまま、死んだように生きるつもり?』

心臓を握りつぶされたような気がした。

僕は、怖かっただけだ。

普通でいたかっただけだ。

でも、この埃っぽい部屋で、音のないピアノを弾く彼女を見て、初めて思った。

息がしたい、と。

「……一曲だけだ」

僕は震える声で言った。

「卒業式。最後のチャイムの代わりに、僕たちの音を流そう」

ミナトが無音で笑った。

その笑顔は、どんな音楽よりも雄弁だった。

第三章 反逆の周波数

準備は、綱渡りの連続だった。

放送室の鍵を盗み出すために、教師の視線を誘導する。

深夜の校舎に忍び込み、電子ピアノの配線を繋ぎ直す。

ミナトは驚くほど手際が良かった。

『昔、お父さんがエンジニアだったの』

筆談アプリで彼女は語った。

『音響のプロだった。でも、この病気のせいで職を失って、最後は自分で耳を潰して死んだ』

重い告白を、彼女は淡々とした文字で綴る。

『私は、父さんが愛した世界が、本当に「悪」なのか知りたい』

『音が、人を傷つけるだけの凶器なのか、確かめたい』

僕たちは、暗闇の中で連弾の練習をした。

電源の入っていない電子ピアノ。

プラスチックが底を打つ、カカタッ、カカタッという乾いた音だけが頼りだ。

僕が伴奏。

ミナトが主旋律。

選んだ曲は、ドビュッシーの「月の光」。

静寂を愛し、静寂を彩るための曲。

「ミナト、そこはもっと優しく。月明かりが水面に揺れるみたいに」

僕がアドバイスすると、彼女は拗ねたように唇を尖らせ、それでも指の力を抜く。

不思議だった。

言葉は少ない。

音もない。

なのに、僕たちはどのクラスメイトよりも深く繋がっていた。

指先が触れるたび、電流のような熱が伝わる。

彼女の呼吸、彼女の体温、彼女の存在そのものが、僕にとっての「音楽」になっていた。

そして、卒業式当日。

第四章 世界を壊す音

講堂には、全校生徒八百人が整列していた。

壇上では、校長が口パクで式辞を述べている。

その内容は、背後の巨大スクリーンに字幕として流れる。

『静寂こそが秩序であり、安寧である』

吐き気がする。

僕とミナトは、放送室に立てこもっていた。

ドアノブには椅子を噛ませてある。

「準備は?」

『いつでも』

ミナトがスマホの画面を見せ、親指を立てる。

彼女の手は震えていた。

僕もだ。

放送スイッチに手をかける。

ボリュームは最大。

「いくよ」

カチリ。

赤いランプが点灯する。

講堂のスピーカーに電流が走るブーンというノイズが、微かに漏れたのが分かった。

僕は電子ピアノの電源を入れた。

一呼吸。

ミナトと目を見交わす。

せーの。

最初の音が、世界に放たれた。

――ポーン。

澄み渡る、高音の響き。

電子音とは思えないほど、それは清冽で、残酷なほどに美しかった。

放送室のモニターに、講堂の様子が映し出される。

生徒たちが一斉に耳を押さえ、うずくまる。

教師たちが慌てふためき、出口へ走る。

悲鳴すら上がらない。

ただ、恐怖に歪んだ顔、顔、顔。

「……止める?」

僕が躊躇すると、ミナトが僕の手を強く叩いた。

『弾け!』

彼女の目は血走っていた。

『届くまで!』

そうだ。

ここで止めたら、ただのテロだ。

音楽にするんだ。

痛みを、感動に変えるまで。

僕たちは指を走らせた。

第2小節、第3小節。

音が重なり、和音となり、うねりとなって校舎を揺らす。

月の光が、降り注ぐ。

毒の雨ではない。

慈愛の光だ。

僕は祈るように鍵盤を叩いた。

聞いてくれ。

これは痛みじゃない。

君たちの心臓が脈打つ音と同じだ。

やがて、モニターの様子が変わった。

うずくまっていた生徒の一人が、顔を上げた。

耳から手を離している。

泣いていた。

痛みで?

いや、違う。

呆然とした顔で、スピーカーを見上げている。

一人、また一人。

教師たちも足を止めた。

校長が、演台でへたり込みながら、天を仰いでいる。

誰も倒れていない。

誰も死んでいない。

そう。

僕はずっと疑っていた。

『聴覚過敏症候群』なんて、本当にあるのか?

最初のパニックが去った後、人々は「音が痛い」と思い込むことで、社会に適応しようとしただけじゃないのか。

集団ヒステリー。

僕たちの音は、その呪いを解くためのメスだ。

曲がクライマックスに差し掛かる。

アルペジオが天へと駆け上がる。

ミナトの指が踊る。

彼女は泣いていた。

大粒の涙を流しながら、満面の笑みを浮かべていた。

美しい。

この世界で一番、美しい光景だ。

最後の和音。

ジャーン……という残響が、永遠のように続いた。

放送室の外で、激しくドアを叩く音がする。

先生たちが踏み込んでくる。

でも、もう遅い。

僕たちは、やり遂げた。

最終章 静寂の向こう側

僕たちは退学処分になった。

当然だ。

でも、世界は変わった。

あの放送以来、街のあちこちで、こっそりとハミングする人が増えたらしい。

「音は毒じゃない」

その噂は、静寂の戒律に小さな、しかし修復不可能なヒビを入れた。

春。

僕は駅前の公園にいた。

ベンチには、ミナトが座っている。

彼女は補聴器をつけていた。

退学後の検査で、分かったことだ。

彼女は、先天性の難聴だった。

あの演奏の時も、彼女には音は聞こえていなかったのだ。

彼女が感じていたのは、鍵盤からの振動と、僕の指が放つ熱だけ。

「……聞こえる?」

僕が尋ねると、彼女は補聴器を調整し、曖昧に微笑んだ。

『まだ、雑音みたい』

スマホに文字が浮かぶ。

『でも、あなたの声はわかる気がする』

胸が締め付けられる。

彼女は、聞こえない音を信じて、世界と戦ったのだ。

聞こえているフリをしていた僕と、

聞こえないのに奏で続けた彼女。

二人の嘘つきが、世界を変えた。

僕はバッグから、小さなキーボードを取り出した。

電池式のおもちゃのようなピアノ。

「練習、しようか」

ミナトが目を輝かせ、頷く。

僕は彼女の手を取り、その指先を鍵盤に置く。

ド。

小さな電子音が、春の風に溶ける。

彼女は目を閉じ、指先から伝わる振動を噛み締めるように微笑んだ。

その横顔を見て、僕は確信した。

僕たちの音楽は、まだ始まったばかりだと。

遠くで、誰かが口笛を吹く音がした。

世界は、こんなにも騒がしく、愛おしい。

AIによる物語の考察

【瀬戸カケル】 「音」という才能を持ちながら、それを隠して同調圧力に屈して生きてきた少年。彼のヘッドホンは音楽を聴くためではなく、世界を拒絶するための盾だった。ミナトという「圧倒的な熱量」に出会い、初めて自分の才能を誰かのために使いたいと願う。 【水無月ミナト】 先天性の難聴でありながら、振動とリズム感だけでピアノを弾く天才。彼女にとって世界は元々「無音」であり、だからこそ社会が恐れる「音」への恐怖心がない。彼女が求めたのは音そのものではなく、かつて父が愛した世界との「接続」だった。彼女の強がりと、最後に明かされる「実は聞こえていなかった」という脆弱性のコントラストが、物語の核となる。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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