第一章 バグだらけの舞踏会
シャンデリアの光が、網膜にノイズとして走る。
「……眩しすぎる。光源設定を間違えているわ」
無意識に漏れた独り言に、私は口元を押さえた。
まただ。この世界に対する強烈な既視感と、違和感。
まるで、推敲不足の拙い原稿の中に閉じ込められたような息苦しさ。
王宮のダンスホールは、腐った百合と高価な香水が混ざり合い、吐き気を催す甘い匂いで満たされていた。
「まあ、エリザベート様! 今宵のドレスも大変素敵ですわね」
扇子を揺らす伯爵夫人が近づいてくる。
彼女の身体から、金色の粒子が立ち昇っていた。
『評価値(レピュテーション・マナ)』。
他者からの好感度が可視化され、そのまま魔力となるこの世界の絶対法則。
夫人の笑顔は完璧だ。
だが、私の右目には別のものが映り込む。
彼女の背後に浮かぶ、半透明のシステムログ。
[System Error: 対象の敵意が隠蔽しきれていません]
[裏パラメータ:殺意 85% / 嫉妬 92%]
「……」
喉が焼けるように熱い。
この身体に刻まれた『真実しか口にできない』というエラー(呪い)。
拒もうとすればするほど、唇が勝手に動き出す。
まるで、誰かにキーボードで台詞を打ち込まれているかのように。
「……そのドレスの生地、横領した孤児院への支援金で仕立てたのでしょう?」
空気が凍りついた。
夫人の扇子が止まる。
金色の粒子が一瞬で黒く濁り、霧散していく。
「な、何を……根拠のない侮辱ですわ!」
「根拠? あなたの指輪。裏面に『孤児院聖堂』の刻印があるわよ。換金し忘れたのね」
私の意思ではない。
口が、勝手に事実を羅列する。
夫人が青ざめ、慌てて指輪を隠した。
その時だった。
夫人の後ろで震えていた給仕の少年が、ハッとして顔を上げた。
痩せこけた頬。彼もまた、搾取されていた孤児の一人なのだろう。
少年と目が合う。
彼は微かに、本当に微かにだが、私に向かって頭を下げた気がした。
だが、その小さな感謝は、怒号にかき消される。
「最低だ! 公爵令嬢ともあろう者が!」
「空気が読めないにも程があるぞ!」
周囲の貴族たちから、鋭い視線が突き刺さる。
私の身体から『評価値』が剥がれ落ちていく感覚。
皮膚が焼けるように痛い。魔力が枯渇し、視界が明滅する。
(痛い、やめて……私はただ……!)
弁解しようとした言葉は、ノイズとなって喉に詰まる。
世界が私を「悪役(ヴィラン)」として定義している。
その強制力には抗えない。
私は逃げるように踵を返した。
背中に浴びせられる嘲笑と罵倒。
唯一、あの給仕の少年だけが、じっと私を見つめていたことなど、気づく余裕もなかった。
第二章 聖女のログイン
王都の裏路地。
雨水と汚泥の臭いが充満するスラム街の一角に、私は身を潜めていた。
あれから一週間。
私の評価値はマイナス域に突入し、屋敷を追放された。
「……寒いわね」
破れたマントを被り、震える手で焚き火に薪をくべる。
今の私に、公爵令嬢の面影はない。
その時、広場の方角から大歓声が聞こえてきた。
遠くに見える巨大なモニター鏡に、白いドレスの少女が映し出されている。
『皆さん! 今日はとっておきのクエスト……じゃなくて、奉仕活動のお知らせです!』
聖女アリス。
あどけない笑顔と、圧倒的な光属性の魔力。
画面の中の彼女は、貧しい人々にパンを配っていた。
「聖女様! なんてお優しい!」
「それに引き換え、あのエリザベートとかいう悪女は……」
民衆が熱狂し、アリスへと黄金の粒子(マナ)を捧げていく。
だが、私の「眼」は誤魔化せない。
鏡越しに見る彼女の周囲に、奇妙な文字列が浮遊している。
[Event: 民衆の扇動 / 成功率 99%]
[Item: カビたパン(廃棄予定) / 消費数 500]
「……廃棄処分費を浮かすために、配っているのね」
呟いた瞬間、私の視界にノイズが走った。
ザザッ、と世界が歪み、アリスの姿が二重に見える。
聖女の姿の奥に透けて見えたのは、薄暗い部屋でヘッドセットを被り、スナック菓子を貪るジャージ姿の女。
『あー、だっる。NPCの相手マジで疲れるわー』
『でもこれで「聖女ポイント」稼げば、課金アイテム使い放題だし? ちょろw』
聞こえるはずのない「プレイヤーの声」が、脳内に直接響く。
彼女にとって、この世界はゲーム。
私たちはただのデータ。
だから、平気で踏みにじれる。
怒りが、冷え切った身体の芯を熱くした。
「ふざけないで」
私は懐から、ひび割れた手鏡を取り出した。
これはただの鏡ではない。
王都の全ミラーネットワークに接続できる、管理者権限(アドミニストレータ)へのバックドア。
なぜ私がこれを持っているのか、使い方がわかるのかは分からない。
ただ、「そう設定されている」と知っている。
手鏡を操作する指先が、勝手にコードを紡ぐ。
『Connect: 王都広域ネットワーク』
『Target: 聖女アリス』
私の指が止まる。
震えはない。
あるのは、物語の整合性を取り戻したいという、執筆者のような義務感だけ。
「準備はいい? クソッタレなヒロイン様」
私は仮面を装着し、鏡に向かって不敵に笑いかけた。
悪役らしく、最高に意地悪なショーを始めよう。
第三章 反転する世界
王都中央広場。
聖女アリスの演説がクライマックスを迎えようとしていたその時、噴水の水面、商店のショーウィンドウ、貴族の手鏡――ありとあらゆる「鏡」が黒く染まった。
『――テステス。聞こえるかしら、愚民ども』
不快なノイズと共に、仮面をつけた私の姿が映し出される。
広場がどよめいた。
「なんだ!?」「あの仮面は、エリザベートか!?」
アリスが眉をひそめ、あざとく小首を傾げる。
「エリザベートさん? どうして邪魔をするの? 私たちは仲良くなれるはずよ」
『仲良く? あなたが裏で私の暗殺依頼を出しているのに?』
私は手元のタブレットをスワイプする。
全国の鏡に、一枚の「クエストログ」が表示された。
[Quest: 悪役令嬢の抹殺]
[Reward: 評価値ボーナス +50000]
[Client: 聖女アリス]
広場が静まり返る。
アリスの顔から笑みが消えた。
『あら、間違えちゃった。こっちの映像も見たいかしら?』
続けて表示したのは、昨夜の映像。
スラム街で、病気の老婆を「汚い」と蹴り飛ばし、経験値稼ぎのために回復魔法をかけては殴るアリスの姿。
「う、嘘よ! これは合成魔法だわ!」
アリスが叫ぶ。
「皆さん、騙されないで! 彼女は悪魔よ! 私の光で浄化してあげる!」
アリスが杖を掲げると、空が割れた。
極大魔法陣が展開される。
圧倒的な『評価値』による、物理法則の書き換え。
彼女は、世界のルールそのものを武器にできる。
「死ね! バグキャラがぁあああ!」
光の奔流が、私の潜む路地裏を直撃した。
衝撃。
瓦礫が吹き飛び、私は吹き飛ばされた。
手鏡が砕け散る。
身体中が熱い。HPバーが赤く点滅し、視界がブラックアウトしていく。
『ざまぁ! 私の好感度は絶対なのよ! 運営(カミ)も味方なんだから!』
アリスの勝ち誇った声が響く。
鏡の向こうの民衆も、またアリスを讃えようとしていた。
……いや、違う。
コメント欄の流れが、おかしい。
第四章 名もなきバグたちの蜂起
倒れ伏した私の目の前で、砕けた鏡の破片が明滅していた。
そこには、無数の文字が流れている。
《……俺は見たぞ。あの映像のスラムの老婆、俺の母ちゃんだ》
《聖女が蹴り飛ばしてたの、マジだったのかよ》
《おい、待て。最初の舞踏会の時も、エリザベート様は横領を暴いただけじゃなかったか?》
《俺、あの時の給仕だ。エリザベート様は俺を庇ってくれたんだぞ!》
《実は俺も、彼女の暴露のおかげで不当解雇から救われた》
《私も》
《俺もだ》
小さな、本当に小さな声。
だがそれは、雪崩のように連鎖した。
「嘘つきはどっちだ!」
「聖女なんかじゃねえ、ただの性悪女だ!」
「エリザベートを殺すな!」
広場の空気が変わる。
アリスに向けられていた金色の粒子が、急速に色を失い、どす黒いヘドロへと変わっていく。
「は……? なによこれ、なんで減るの!? 評価値(マナ)が下がってる!?」
アリスが狼狽える。
その隙に、私は瓦礫を押しのけて立ち上がった。
血だらけのドレス。仮面は割れて落ちた。
素顔の私が、砕けた鏡の破片に映る。
「……アンタたち、バカじゃないの」
涙が溢れて止まらない。
こんな世界、憎んでいたはずなのに。
私の「真実」を受け取ってくれた名もなき人々が、こんなにもいたなんて。
視界の端で、システムログが高速で流れる。
[System Alert: 民衆の支持率が逆転しました]
[Character: エリザベート の権限レベルが上昇……Level MAX]
[Role: Villainess → Author (覚醒)]
「あぁ……そうか」
思い出した。
なぜ、この世界の設定がこんなにも甘いのか。
なぜ、アリスのようなバグプレイヤーが跋扈できたのか。
それは、私がこの物語を「未完のまま放置した作者」だからだ。
執筆に疲れ、適当な設定で放り投げた世界。
そのツケを払うために、私はこの身に落ちたのだ。
「責任は、取るわ」
私は空中に指を走らせる。
そこには見えないキーボードがあった。
世界の記述(ソースコード)が、光の文字となって展開される。
「な、なによそれ!? チート!? 通報してやる!」
アリスが喚き散らすが、もう遅い。
「削除(デリート)。対象:異物アリス」
『ギャアアアアアア! ふざけんな! 課金したのにぃいいい!』
断末魔と共に、アリスの身体がポリゴンの欠片となって崩壊した。
光の粒子となって空へ吸い込まれ、完全に消滅する。
広場に静寂が戻った。
しかし、世界そのものも限界を迎えていた。
空が剥がれ落ち、地面がワイヤーフレームに変わっていく。
物語の主役(ヒロイン)が消え、世界が崩壊を始めたのだ。
「エリザベート様!」
「世界が……終わるのか?」
鏡の向こうで、人々が怯えている。
あの給仕の少年が、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
私は、優しく微笑んだ。
もう、呪いの言葉ではない。
心からの言葉を紡ぐ。
「終わらせないわ。書き直す(リライト)だけよ」
指先から溢れる光が、崩れかけた世界を塗り替えていく。
腐った百合の臭いを、爽やかな風に。
理不尽な評価システムを、温かな絆に。
バグだらけのこの物語を、ハッピーエンドのその先へ。
「次は、もっと素敵な役を用意してあげる」
光が視界を埋め尽くす。
私の意識が溶けていく直前、無数の「ありがとう」という声が、ファンファーレのように降り注いだ。
*
最終章 エピローグ・リライト
柔らかな日差しが、まぶたをくすぐる。
目を開けると、そこは王都の広場だった。
だが、あの毒々しいネオンのような魔力光はない。
パン屋の焼ける匂い、子供たちの笑い声。
「あ! エリザベートさんだ!」
駆け寄ってきたのは、小奇麗な服を着たあの少年だった。
彼は満面の笑みで、私の手を取った。
「こんにちは! 今日もいい天気ですね!」
彼の頭上に、数値やパラメータはもう見えない。
ただ、温かな体温だけが伝わってくる。
私は広場の中央にある噴水を覗き込んだ。
水面に映る私は、悪役令嬢の派手なドレスではなく、動きやすいシャツとパンツ姿。
手にはペンと、一冊の白紙のノート。
「ええ、最高の天気ね」
私はペンを回し、真っ白なページを開いた。
もう、定められた筋書きはない。
ここから先は、私たち全員で紡ぐ、予測不能な物語だ。
「さて、第一章はどう始めようかしら?」
私は悪戯っぽくウィンクをして、新しい世界の第一歩を踏み出した。