第一章 雨と油と古時計
路地裏の時計店、「刻屋(ときや)」のドアベルが鳴ったのは、バケツを引っくり返したような雨の午後だった。
湿った風が吹き込み、店内に漂う椿油と埃の匂いを乱す。
カウンターの奥、ルーペを目に嵌めたままの源三(げんぞう)は、顔も上げずに言った。
「電池交換なら向かいの家電量販店に行きな。うちは機械式しか扱わん」
「あの……修理を、お願いしたくて」
若者の声だ。
怯えを含んだ、しかし芯のある声。
源三はピンセットを置き、ゆっくりと顔を上げた。
二十代前半だろうか。濡れたパーカーのフードを脱ぎ、茶封筒を差し出している。
「これです」
封筒から滑り落ちたのは、時計と呼ぶにはあまりに無惨な金属塊だった。
風防ガラスは粉々に砕け、文字盤はひしゃげ、時針は三時の方向で直角に折れ曲がっている。
「……車にでも轢かれたか」
「はい。父が、事故に遭って」
若者は唇を噛んだ。
「父の形見なんです。医者はもう峠を越せないと。だから、最期にこの時計の音だけでも、もう一度聞かせてやりたくて」
源三は鼻で笑った。
「お涙頂戴は結構だ。俺は時計屋だ、魔法使いじゃない。中のヒゲゼンマイまでイカれてる。これはもう死んでるよ」
「そこをなんとか! 他の店では門前払いでした。でも、ここなら直せるって……父が、昔」
若者の必死な形相。
源三は舌打ちをし、無造作にその金属塊を掴み上げた。
手のひらに載せる。
冷たい。
だが、その冷たさの奥に、微かな熱を感じた。
(……ん?)
指先が、裏蓋の感触を捉える。
無数の傷。汗の浸食。
そして、裏蓋に刻まれたイニシャル。
『K. to R.』
源三の心臓が、早鐘を打った。
呼吸が浅くなる。
二十年前。
家を飛び出した息子、涼太(りょうた)。
「音楽で食っていく」と啖呵を切った息子に、源三が投げつけたのがこの時計だった。
『二度と敷居を跨ぐな。時間は、お前が自分で刻め』
あの時の、セイコー・ロードマーベル。
「……おい、小僧」
源三の声が震えた。
「親父さんの名前は」
「涼太です。長谷川涼太」
源三は、ルーペの位置を直すふりをして、目元の湿りをぬぐった。
「……置いてけ。三日だ。それ以上は待てん」
「えっ、直るんですか!?」
「直すと言ったら直すんだ。さっさと帰れ、湿気が入る」
若者を追い出し、鍵をかける。
シャッターを下ろした店内で、源三は震える手で作業灯を点けた。
「馬鹿野郎が……」
時計を握りしめる。
こんなボロボロになるまで、使い込んでやがったのか。
第二章 沈黙の会話
分解は、外科手術に似ている。
砕けたガラスを慎重に取り除く。
文字盤を外すと、ムーブメントという名の心臓が露わになる。
油は枯れ果て、歯車は錆びつき、テンプの動きは完全に停止していた。
源三は息を止める。
顕微鏡のような集中力で、一つひとつの部品と対話する。
(香箱(こうばこ)の真が歪んでやがる)
ピンセットで歯車をつまむ。
その歯車の摩耗具合が、息子の二十年を語りかけてくるようだった。
リューズ周りの汚れ。
これは、何度も何度も手で巻き上げた証拠だ。
自動巻きではないこの時計は、毎日決まった時間に竜頭を巻かねば止まる。
「律儀に巻いてたのか、お前……」
ミュージシャンになると言っていたが、この汚れ方は、工事現場か、あるいは油まみれの工場か。
夢破れて、それでも生活のために歯を食いしばって働いていた手の脂だ。
カチ、と微かな音がした。
固着したネジが緩む音。
それは、二十年間閉ざされていた息子の口が開いたようにも聞こえた。
『親父、ごめん』
そんな幻聴が聞こえる。
「謝るな……」
源三は独りごちる。
「謝るんじゃねぇよ、馬鹿息子」
視界が滲んで、手元が狂いそうになる。
源三は作業台に突っ伏した。
意地を張っていたのは自分だ。
母親が死んだ時、葬式にも来なかったと罵った。
だが、この時計を見ればわかる。
修理の跡がない。
金がなかったんじゃない。
他人に触らせたくなかったんだ。
親父である俺以外には。
「……見せてやるよ、涼太」
源三は再びピンセットを握った。
「お前の親父が、どれだけの腕を持ってるか。日本一の時計屋の意地、見せてやる」
夜が明ける。
雨音は止んでいた。
歪んだヒゲゼンマイを、髪の毛一本分の狂いもなく修正する。
折れた天真(てんしん)は、旋盤を回して新しい部品を削り出した。
部品がないなら作る。
それが「刻屋」の流儀だ。
研磨剤で磨き上げられたルビーが、作業灯の下で赤く輝く。
全ての部品を洗浄し、新しい油を注す。
組み立てる。
最後のネジを締める。
源三は、大きく深呼吸をした。
リューズを巻く。
ジリ、ジリ、という感触。
そして。
チチチチチチ……。
小さな、しかし力強い鼓動が店内に響き渡った。
止まっていた時間が、再び動き出した。
第三章 継承される時
約束の三日後。
開店と同時に、あの若者が飛び込んできた。
目の周りが赤い。
嫌な予感が源三の背筋を走る。
「……親父さんは」
「今朝、意識が戻ったんです!」
若者の声が裏返る。
「奇跡だって、医者が。でも、まだ予断を許さない状態で……あの、時計は」
源三はカウンターの下から、磨き上げられたロードマーベルを取り出した。
新品同様の輝きを取り戻したケース。
新しい風防ガラス。
若者は息を呑んだ。
「これ……本当に、あのスクラップですか?」
「耳を澄ませてみろ」
若者が恐る恐る時計を耳に当てる。
チチチチチチ……。
規則正しく、澄んだ音。
若者の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……聞こえます。父さんが、いつも聞いていた音です」
「修理代だ」
源三は一枚の請求書を突き出した。
そこには『0円』と書かれている。
「え?」
「ただし、条件がある」
源三は、作業用のエプロンを外し、上着を羽織った。
「その時計を届ける役目、俺に譲れ」
「え……?」
「それから、お前の名前を聞いてなかったな」
若者は呆気にとられながらも答えた。
「あ、駆(かける)です」
「いい名前だ。未来へ走っていけそうだな」
源三は、店の鍵を駆に放り投げた。
「留守番を頼む。客が来たら『店主は出稼ぎ中』と言っておけ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 貴方は一体……」
源三は振り返らずに、ドアを開けた。
眩しい陽光が差し込む。
「涼太に伝えろ。『秒針のズレは直した。あとはお前のペースで歩け』とな」
駆がハッとした顔をする。
「まさか、お祖父ちゃん……?」
源三は答えず、歩き出した。
ポケットの中で、もう一つの懐中時計がチクタクと鳴っている。
それは、二十年前に止まったはずの、親子の時間。
病院へ向かうバス停までの足取りは、羽が生えたように軽かった。
空は、憎らしいほどの青空だった。