腐敗する愛、あるいは永遠の周波数

腐敗する愛、あるいは永遠の周波数

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第一章 深夜のノイズ

午前二時、丑三つ時。

世界が寝静まり、死者と生者の境界が曖昧になる時間だ。

「……というわけで、今夜も始まりました。『デッド・ライン』。ナビゲーターのユウスケです」

マイクに向かって低い声を出す。

狭いブース内には、赤い『ON AIR』のランプだけが、心臓のように明滅していた。

手元のコーヒーは冷めきって、泥のような膜を張っている。

俺、神崎ユウスケの仕事は、深夜のラジオDJ。

リスナーから寄せられる怪奇現象の相談に、気だるげに答えるだけの番組だ。

「さて、最初のお便り……いや、電話が繋がっていますね」

ヘッドホン越しのノイズ。

雨の音のような、あるいは誰かが爪で壁を掻くような音が混じる。

『……もしもし』

震える女の声。

どこかで聞いたことがあるような、懐かしさと寂しさが混ざった響き。

心臓が、ドクリと跳ねた気がした。

「こんばんは。お名前は?」

『匿名でお願いします。……あの、私、見られているんです』

「誰に?」

『死んだ、婚約者に』

ありがちな話だ。

俺はあくびを噛み殺し、タバコに火をつけようとして、禁煙だったことを思い出す。

「未練があるんでしょうね、彼」

『違うんです……!』

彼女の声が裏返る。

『彼は、自分が死んだことに気づいていないんです。毎晩、毎晩、決まった時間に帰ってくるんです。ドアを叩いて、名前を呼んで……私が鍵を開けないと、泣きながらドアを引っ掻くんです』

「なるほど。迷惑な幽霊だ」

『迷惑なんて言葉じゃ……彼、もう形が保てていないんです。事故で、身体が半分潰れていたから……腐敗した匂いが、ドアの隙間から入ってくる……!』

嗚咽。

ヘッドホン越しに伝わる恐怖が、俺の肌を粟立たせた。

「……住所は?」

『え?』

「俺が行きます。除霊の真似事くらいならできる。放っておけない」

柄にもないことを言った。

だが、彼女の声が、どうしても他人とは思えなかった。

『……世田谷区、北沢の……コーポ・ルナ、203号室です』

指先が凍りついた。

そこは、かつて俺が住んでいたアパートだ。

俺は、三ヶ月前にそこを出たはずだった。

いや、どうだったか。

記憶が、霧のようにぼやけている。

「行きます。すぐに」

俺はヘッドホンを叩きつけ、ブースを飛び出した。

外は、激しい雨が降っていた。

第二章 帰宅

タクシーは捕まらなかった。

雨の中を走る。

傘をさすのも忘れて、濡れることも厭わずに。

不思議だった。

息が切れない。

どれだけ走っても、肺が焼けるような感覚がない。

ただ、足音がピチャピチャと水たまりを叩く音だけが響く。

(彼女を守らなきゃならない)

その使命感だけが、俺を突き動かしていた。

コーポ・ルナが見えてくる。

築四十年のボロアパート。

外灯がチカチカと点滅し、まるでモールス信号のように闇を切り裂いている。

階段を駆け上がる。

カン、カン、カン。

鉄の階段が錆びた音を立てる。

203号室。

表札には『Kanzaki』の文字。

まだ、俺の名前が残っているのか?

ドアの前に立つ。

中から、怯えたような気配がする。

「開けてくれ! ラジオのユウスケだ!」

俺はドアを叩いた。

ドン、ドン、ドン。

反応がない。

「頼む、君を助けに来たんだ! その幽霊を追い払いに!」

『……嘘よ』

中から、悲鳴のような声が聞こえた。

『あなたが、そうじゃない……!』

「何を言ってるんだ?」

俺はノブを回した。

鍵はかかっていなかった。

いや、鍵穴そのものが壊されていたのかもしれない。

ドアが軋みながら開く。

部屋の中は真っ暗で、異様な臭気が立ち込めていた。

生ゴミと、鉄錆と、もっと甘ったるい何かが混ざったような匂い。

「うっ……」

鼻をつまみそうになる。

部屋の隅、ソファーの陰に、彼女がいた。

ハルミ。

俺の、元婚約者。

「ハルミ……?」

俺は目を疑った。

彼女は痩せこけ、目の下に深い隈を作っている。

手には、盛り塩を入れた皿を握りしめていた。

「来るな……来ないでっ!」

バシャッ!

彼女が塩を投げつけた。

白い粒が俺の顔にかかる。

「ぐあぁぁぁっ!」

激痛。

焼ける。

顔面の皮膚が、硫酸を浴びたように焼ける。

「な、何をするんだ! 俺だ、ユウスケだ!」

俺は床に転がり、顔を押さえた。

手についた液体は、雨水ではなかった。

ドス黒い、粘着質のもの。

「鏡……鏡を見てよ!」

ハルミが絶叫する。

彼女が投げつけた手鏡が、俺の目の前に滑ってきた。

第三章 認識

雷光が走り、部屋を一瞬だけ白く染め上げた。

その光の中で、俺は鏡を覗き込んだ。

そこに映っていたのは、人間ではなかった。

右側の頭蓋骨が陥没し、脳漿が漏れ出している。

眼球は飛び出し、頬の肉は腐り落ちて、白い歯が剥き出しになっている。

首の角度はありえない方向にねじれ、青白い皮膚には蛆が這っていた。

「あ……あ……?」

喉から漏れたのは、言葉ではなく、空気の抜けるような音だった。

記憶が、津波のように押し寄せる。

三ヶ月前の雨の夜。

ハルミとの喧嘩。

「もう別れよう」という言葉。

アパートを飛び出し、バイクに跨った。

視界を遮る雨。

対向車のヘッドライト。

ブレーキ音。

衝撃。

そして、永遠の闇。

「俺は……死んで……」

死んでいた。

即死だった。

それなのに、俺は毎晩、ここに来ていたのか?

仕事に行っているつもりで。

生きて生活しているつもりで。

ブースだと思っていたのは、自分の墓石の前か?

マイクだと思っていたのは、手向けられた花か?

「いやぁぁぁぁっ! 帰って! お願いだから成仏して!」

ハルミが泣き叫ぶ。

彼女の瞳に映っているのは、愛した男ではない。

肉の塊。

恐怖の対象。

俺は、彼女を助けに来たんじゃない。

俺こそが、彼女を蝕む元凶だった。

「ごめん……」

口を開くと、ボロボロと肉片が床に落ちた。

その音さえも、彼女を震え上がらせる。

近づきたい。

抱きしめて、大丈夫だと言いたい。

だが、俺が近づけば近づくほど、彼女は死の穢れに侵されていく。

部屋に充満する死臭は、俺自身の匂いだった。

俺は立ち上がった。

左足は折れているらしく、骨が皮膚を突き破っていたが、痛みはなかった。

ただ、胸の奥――心臓がもう動いていない場所だけが、張り裂けそうに痛かった。

「ハルミ」

努めて、優しく呼ぼうとした。

だが、出た音は、壊れたラジオのようなノイズだった。

『ガガ……ザザ……ル……ミ……』

彼女は耳を塞ぎ、うずくまっている。

これでいい。

これで終わりにするんだ。

第四章 サヨナラの周波数

俺は、後退った。

一歩、また一歩。

玄関へ向かう。

「愛して……た」

そう言いたかったが、言葉にする資格はもうない。

言葉にすれば、それは呪いになる。

俺はドアを開け、雨の中へと戻った。

冷たい雨が、腐った肉を洗い流していく。

意識が遠のいていく。

この世に留まっていた執着の糸が、プツリと切れる音がした。

俺の身体が、霧のように分解されていくのがわかる。

最後に、俺は想像した。

あのラジオブースを。

赤い『ON AIR』のランプを。

俺は、最後の放送をする。

誰にも届かない、彼女だけに捧げる放送を。

(……こちらは、デッド・ライン。ナビゲーターは、神崎ユウスケでした)

(今夜の最後の曲は、無音のララバイ。……おやすみ、ハルミ。いい夢を)

俺の意識は、雨音に溶けて消えた。

エピローグ

翌朝、雨は上がっていた。

ハルミは、恐る恐る玄関のドアを開けた。

そこには、もう誰もいなかった。

ただ、ドアノブに、小さな水たまりが残っていた。

そして、郵便受けには、泥にまみれた一枚のCDが入っていた。

タイトルは書かれていない。

彼女は震える手でそれを拾い上げ、プレイヤーに入れた。

スピーカーから流れてきたのは、ザーという砂嵐のようなノイズ。

けれど、その奥から、微かに、本当に微かに。

『……ありがとう』

聞き慣れた、優しい声が聞こえた気がした。

ハルミはその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。

部屋の澱んだ空気が、朝日とともに浄化されていく。

テーブルの上には、彼が好きだった缶コーヒーが、まだ温かいまま置かれているような錯覚がした。

ラジオからは、新しい朝のニュースが流れている。

世界はまた、動き出したのだ。

彼を置いて。

AIによる物語の考察

神崎ユウスケは、生前は皮肉屋で少し斜に構えた性格だったが、根底にはハルミへの深い愛情を持っていた。彼の「死」の認識を阻害していたのは、喧嘩別れしたまま死んでしまったことへの強烈な未練である。彼がラジオDJとして振る舞っていたのは、誰かに「声」を届けたい、繋がりを保ちたいという渇望の現れ。鏡を見た瞬間の絶望と、そこから「去る」ことを選ぶ決断の速さに、彼の人間としての最後の尊厳が表れている。怪異とは、悪意だけでなく、行き場のない愛の成れの果てでもある。
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