雨音のノイズ・キャンセリング

雨音のノイズ・キャンセリング

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第一章 訪問者の鼓動

雨の音が、コンクリートの壁を叩く。

地下にあるこのスタジオには、窓がない。

けれど、俺にはわかる。

雨粒の大きさ、風の向き、そしてアスファルトに弾ける微かな飛沫の音。

それらが幾重にも重なり、俺の鼓膜を震わせている。

「……どうぞ」

インターホンが鳴るより先に、俺は言った。

重たい防音扉の向こうに、気配が立っていたからだ。

心拍数、およそ八十。

呼吸は浅く、乱れている。

靴底が擦れる音からして、女性だ。

それも、かなり躊躇っている。

扉が軋み、湿った空気が流れ込んできた。

「あの……ここが、音の解析所ですか?」

声帯が震えている。

緊張、あるいは恐怖。

「そうだ。看板は出してないがな」

俺はコンソール・デスクに向かったまま、ヘッドホンを首にかけた。

サングラス越しの世界は真っ暗だが、音の色彩は鮮やかすぎるほどに見えている。

「座ってくれ。革張りのソファだ。濡れたコートはそこのハンガーへ」

彼女は驚いたように息を呑んだ。

「目、見えてるんですか?」

「いや。だが、アンタのコートが吸った水分の重みと、衣擦れの音で素材くらいはわかる」

彼女はおずおずとコートを掛け、ソファに浅く腰掛けた。

スプリングが軋む音。

彼女の緊張が、俺の肌を刺す。

「名前は聞かない。依頼のモノだけ出してくれ」

俺が手を差し出すと、彼女はバッグから何かを取り出した。

カチャリ。

プラスチックの硬質な音。

カセットテープだ。

「……これを、聞いてほしいんです」

「デジタル化してノイズを除去するのか? それとも、背景音から場所を特定するのか?」

「いいえ」

彼女の声が、一瞬だけ硬質になった。

「この声の主を、特定してほしいんです」

俺はテープを受け取った。

指先で触れる。

ラベルには何も書かれていない。

だが、古い磁気テープ特有の、埃っぽい匂いがした。

「二十年前のものです」

二十年前。

俺の古傷が疼くような感覚。

俺は無言でデッキにテープをセットした。

再生ボタンを押す。

シャーッ……

ホワイトノイズがスピーカーから溢れ出す。

そして。

『……あー、もしもし。警察には、言うなよ』

その瞬間。

俺の心臓が、早鐘を打った。

全身の血が逆流する。

指先が凍りつく。

その声は、変声機を使っていなかった。

幼い、少年の声。

怯えを含みながらも、必死に大人びようとしている声。

間違いない。

それは、二十年前の。

俺の声だった。

第二章 罪の周波数

「……どうかしましたか?」

彼女の声が遠くに聞こえる。

俺は必死に呼吸を整えた。

悟られるな。

俺の心拍音を聞かれるわけにはいかない。

「いや……酷いノイズだ。保存状態が悪すぎる」

嘘をついた。

俺の声に、嘘特有の『湿り気』が混じるのが自分でもわかった。

だが、彼女は気づいていないようだ。

「このテープは、何だ?」

震えそうになる声を、喉の奥で殺す。

「誘拐事件の、脅迫電話です」

彼女は淡々と言った。

「二十年前、『東都児童連続誘拐事件』。犯人は捕まらず、被害者の子供たちは全員、遺体で見つかった……はずでした」

はずでした?

俺はサングラスの位置を直す振りをして、冷や汗を拭った。

俺は知っている。

その事件を。

なぜなら、俺はその犯人の『息子』だったからだ。

親父は、異常者だった。

地下室に子供たちを監禁し、俺に電話をかけさせた。

『お前が読め。子供の声なら、警察も油断する』

殴られ、蹴られ、泣きながら台本を読まされた。

あの日々。

鉄の匂いと、カビの臭い。

そして、消えていく子供たちの呼吸音。

俺は逃げ出した。

親父を置き去りにして。

警察には行けなかった。

俺も共犯だと思っていたから。

その後、親父が自殺したと風の噂で聞いた。

事件は迷宮入りしたはずだ。

なのに、なぜ今、このテープがここにある?

「この声を……知っているんですね?」

彼女の言葉が、鋭い刃物のように突き刺さった。

ドキリ。

心臓が跳ねる。

俺は彼女の方を向いた。

「……なぜ、そう思う?」

「あなたの呼吸音が変わったから。そして、指先が震えているから」

彼女の声から、『怯え』が消えていた。

代わりに現れたのは、冷徹なまでの『覚悟』の響き。

「あなたは、誰だ」

俺は声を低くした。

彼女は立ち上がった。

「私は、その事件の唯一の生存者です」

第三章 嘘と真実の境界線

生存者。

あり得ない。

親父は全員殺したはずだ。

俺が逃げ出した夜、地下室からはもう、誰の呼吸音も聞こえなかった。

「嘘だ」

「嘘じゃありません」

彼女が近づいてくる。

その足音には、迷いがない。

「私は生き残った。暗闇の中で、誰かが私の縄を解いてくれたから」

縄を解いた?

俺は記憶の糸を手繰り寄せる。

あの日。

俺は逃げる前に、地下室へ降りたか?

いや、恐怖で足が動かなかったはずだ。

「もう一度、テープを聞いてください」

彼女は俺の操作盤に手を伸ばし、再生ボタンを押した。

『……あー、もしもし。警察には、言うなよ』

少年の声。

俺の声。

『金は……金は、指定の場所に……』

声が震えている。

そして、言葉が詰まる。

『……げ、げ、月曜日の……』

吃音。

そうだ、俺はわざと噛んだ。

親父の書いた完璧な台本を、少しでも崩そうとして。

相手に違和感を与えようとして。

その直後だ。

『チッ』

背後で、舌打ちの音が聞こえた。

親父だ。

さらに、その奥。

極めて微小な音。

『……に……て……』

「聞こえますか?」

彼女が囁く。

「今のあなたの耳なら、聞こえるはずです」

俺はボリュームを最大まで上げた。

イコライザーで特定の周波数をカットし、ノイズを削ぎ落とす。

『……に……げて……』

少年の声じゃない。

これは、俺の心の声じゃない。

微かに聞こえる、布が擦れる音。

そして、吐息のような囁き。

『……逃げて……お兄ちゃん……』

背筋が凍りついた。

これは、監禁されていた少女の声だ。

そして、その言葉は。

脅迫電話をかけさせられている『俺』に向けられたものだった。

第四章 アンカー

記憶の蓋が、弾け飛んだ。

あの日。

俺は地下室の扉の前で泣いていた。

中から、少女の声が聞こえたんだ。

『泣かないで』

自分の方が死にそうな状況なのに、彼女は俺を励ましていた。

俺は、逃げ出したんじゃない。

俺は、親父が酔いつぶれている隙に、地下室の鍵を開けたんだ。

そして、彼女を逃がした。

でも、その記憶は、親父への恐怖と、置き去りにされた他の子供たちへの罪悪感で、塗りつぶされていた。

「あなたは、私を助けてくれた」

彼女の声が、涙で潤み始めた。

「警察は信じてくれませんでした。犯人の息子が、共犯者ではなく、被害者だったなんて」

彼女の手が、俺の強張った手に重ねられた。

温かい。

「ずっと探していました。声だけを頼りに。音響の専門家として、あなたが雑誌に載った時、確信しました」

「……俺は」

喉が焼けるように熱い。

「俺は、お前以外は救えなかった。俺は、あいつの息子だ。その血が流れてる」

「でも、あなたの声は、震えていた」

彼女は強く俺の手を握った。

「あのテープの声は、脅迫じゃない。必死に、誰かに助けを求めるSOSだった。私はそれを、一番近くで聞いていました」

第五章 雨上がりの静寂

俺はヘッドホンを外した。

世界から、ノイズが消えていく。

二十年間、俺の耳元で鳴り止まなかった、子供たちの悲鳴。

親父の怒鳴り声。

自分の罪を責め立てる幻聴。

それらが、彼女の体温と、穏やかな呼吸音に溶けていく。

「……名前を、教えてくれるか」

俺はようやく、掠れた声で尋ねた。

「沙織です」

彼女は泣き笑いのような声で言った。

「あなたの作った、どんな高性能なノイズキャンセリング・ヘッドホンよりも、私があなたのノイズを消してあげます」

俺はサングラスを外した。

閉ざされた瞼の裏に、光が差し込むような気がした。

外の雨音は、もう冷たくは聞こえない。

それは、長い夜を洗い流す、優しい旋律に変わっていた。

俺たちは、暗闇の中でただ静かに、互いの鼓動を聞いていた。

嘘のない、真実の音だけが、そこにあった。

AIによる物語の考察

【響(ヒビキ)】 音に対して異常なほどの感度を持つ「絶対聴覚」の持ち主。その能力ゆえに、他人の嘘や悪意の「音」に耐えられず、視覚を閉ざす(あるいは心因性の盲目)ことで自己防衛している。常にサングラスとノイズキャンセリングヘッドホンを着用。性格は冷笑的だが、根底には深い傷と優しさがある。 【沙織(サオリ)】 20年前の事件の生存者。響の声(テープ)を頼りに彼を探し続けていた。響にとっての「静寂」をもたらす存在。彼女の声だけは、響にとって心地よい周波数で響く。彼女の行動原理は復讐ではなく、恩人への「赦し」を届けることだった。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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