第一章 錆びた歯車と代償
「……直すぞ。離れてろ」
ハルトの掠れた声が、廃教会の石壁に反響した。
足元には、片腕をもがれた自動人形(オートマタ)の少女、エラが転がっている。
彼女の真鍮色の瞳が、弱々しく明滅していた。
「だめ……ハルト。これ以上は……あなたが」
「うるさい。黙って見てろ」
ハルトは右手をかざす。
震える指先。
そこから溢れ出したのは、魔力ではない。
もっと粘度のある、白い光の粒子だ。
それは『記憶』だ。
この世界において、物質を修復する唯一の代価。
ハルトは、自分の過去を切り売りして、目の前の鉄屑を繋ぎ止めている。
(持っていけ。俺の記憶なんて、ろくなもんじゃない)
脳裏に浮かぶ映像。
高校の卒業式。
桜並木。
名前も思い出せないクラスメイトの笑顔。
――ブツン。
映像が途切れた。
フィルムが焼き切れるような音と共に、脳の一部が空白になる。
「う、ぐあぁぁッ!」
激痛がこめかみを貫く。
ハルトは膝をつき、呼吸を荒げた。
目の前では、エラの腕が元の滑らかな曲線を取り戻し、結合されていた。
「ハルト!」
エラが起き上がり、彼の背中をさする。
その冷たく硬い感触。
けれど、ハルトにとっては何よりも温かい。
「……平気だ。大した記憶じゃなかった」
ハルトは額の汗を拭う。
嘘だった。
今消えたのは、死んだ母親が最後に作ってくれた弁当の味だ。
卵焼きの甘さが、もう思い出せない。
舌の上に残っていた幻影が、砂のように崩れ去った。
「嘘つき」
エラは悲痛な顔をする。
機械人形の彼女に涙腺はない。
だが、その表情は人間以上に痛切だった。
「あなたの瞳、また色が薄くなった。何を忘れたの? 私のせい?」
「お前のせいじゃない。俺が選んだんだ」
ハルトは立ち上がり、彼女の手を取った。
「行こう。最果ての塔まで、あと少しだ」
世界を侵食する『黒い錆』。
それを止められるのは、塔の頂上にある『原初の歯車』だけ。
そして、それを動かせるのは、完全な状態のエラだけだ。
ハルトは彼女を直す。
自分が空っぽになるまで。
第二章 欠け落ちる色彩
旅は、喪失の連続だった。
襲い来る錆びた魔獣たち。
崩落する橋。
そのたびにハルトは『修復』を使った。
「ハルト、あのお花、綺麗ですね」
街道沿いに咲く青い花を見て、エラが言った。
「……ああ、そうだな」
ハルトは頷く。
だが、恐怖が背筋を這い上がった。
(青い? あれは何色だったか?)
彼にはもう、その花がグレーに見えていた。
色彩に関する知識が、三日前の戦闘で消えたのだ。
空の青さも、血の赤さも、今のハルトには濃淡のある灰色でしかない。
それでも、エラが綺麗だと言うなら、それは綺麗なのだろう。
「ねえ、ハルト。約束覚えてる?」
焚き火の前で、エラが膝を抱えて尋ねてきた。
「約束?」
「全てが終わったら、あなたの故郷の話を聞かせてくれるって」
ハルトは言葉に詰まる。
故郷。
日本という名前の国。
そこには、コンビニがあって、電車が走っていて……。
そこまで思い出して、思考が霧散する。
(俺は、何が好きだった?)
(どんな音楽を聴いていた?)
(大切にしていた犬の名前は?)
思い出せない。
穴の空いたジグソーパズルのように、ピースが足りない。
「……ああ。話すよ。たくさんな」
ハルトは笑顔を作った。
その笑顔が引きつっていることに、エラは気づいているはずだ。
彼女は静かに立ち上がり、ハルトの隣に座った。
そして、硬い肩を彼の肩に預ける。
「忘れないで」
エラの声が震えていた。
「私のことだけは。他の全てを忘れても、私と過ごしたこの時間だけは」
「当たり前だろ」
ハルトは彼女の冷たい手を握りしめる。
「お前のことだけは、絶対に忘れない。魂に刻み込んでやる」
それは、彼に残された最後の砦だった。
自分の名前を忘れても、彼女の名前だけは呼べるように。
それだけをよすがに、彼は歩き続けてきたのだから。
第三章 最期のピース
最果ての塔。
頂上の祭壇には、巨大な歯車が鎮座していた。
だが、それは無惨に砕け散っていた。
「そんな……」
エラが絶望の声を漏らす。
「これじゃ、世界を直せない」
背後から、轟音が響く。
黒い錆の奔流が、螺旋階段を駆け上がってきていた。
世界が終わる音がする。
ハルトは砕けた歯車を見た。
巨大すぎる。
これを修復するには、どれだけの記憶が必要だ?
(10年分? 20年分? いや、俺の人生すべてか?)
「ハルト、逃げましょう。もう無理よ」
エラが腕を引く。
しかし、ハルトは動かない。
「逃げてどうする。世界が錆びれば、お前も動かなくなる」
「それでもいい! あなたが消えてしまうよりマシよ!」
エラが叫ぶ。
初めて聞く、彼女の怒鳴り声。
ハルトは彼女に向き直った。
灰色の視界の中で、彼女の瞳だけが、奇跡のように輝いて見えた。
「エラ。俺はずっと、自分が何者でもないことが怖かった」
ハルトは優しく語りかける。
「向こうの世界でも、俺は空っぽだった。誰とも関わらず、何もなさず。ただ生きていただけだ」
彼は歯車に手を触れる。
「でも、この世界で俺は『修復師』になれた。お前を直すことができた。……俺の人生には、意味があったんだ」
「やめて! ハルト、やめて!」
エラが飛びかかろうとする。
ハルトは術を行使した。
見えない壁がエラを弾き飛ばす。
「ハルトォォォッ!!」
「ありがとな、エラ」
光が溢れ出す。
かつてない奔流。
最初に消えたのは、言葉の意味だった。
次に、身体の動かし方。
空腹の感覚。
怒り。
哀しみ。
次々と、ハルトという人間を構成する要素が剥がれ落ちていく。
(ああ、これが消えるということか)
恐怖はない。
恐怖を感じる脳の機能さえ、光になって歯車に吸い込まれていく。
最後に残ったのは、一つの輝き。
焚き火のそばで、肩を寄せ合った記憶。
冷たくて、温かい感触。
(これだけは)
ハルトは必死に掴もうとした。
(これだけは、渡せない)
だが、歯車は無慈悲に修復を求める。
最後のワンピースが埋まらなければ、世界は救えない。
ハルトは笑った。
いや、笑おうとして、顔の筋肉の動かし方を忘れていることに気づいた。
心の中で、彼はその輝きを手放した。
――さようなら、俺の愛した世界。
光が爆ぜた。
最終章 はじめまして
風が吹いていた。
柔らかな、春の陽気を含んだ風だ。
男は目を覚ました。
そこは、花が咲き乱れる丘の上だった。
「……?」
男は体を起こす。
自分が誰なのか、わからない。
名前も、ここがどこなのかも。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いているような感覚だけがあった。
「目が、覚めたの?」
鈴を転がすような声。
振り返ると、少女が立っていた。
不思議な少女だ。
肌は陶器のように白く、関節には継ぎ目がある。
彼女は、溢れ出る涙を拭おうともせず、男を見つめていた。
「君は……?」
男が尋ねる。
少女は泣き笑いのような顔で、一歩近づいた。
「私は、エラ」
彼女は男の前に跪き、そっと手を取った。
「あなたの……旅の連れです」
「旅?」
「ええ。とても長くて、とても素敵な旅でした」
男は首を傾げる。
何も思い出せない。
けれど、彼女の手に触れた瞬間、理由のわからない安堵感が全身を包み込んだ。
まるで、ずっと探していた半身を見つけたような。
「そうか。俺たちは、旅をしていたのか」
男は拙い言葉で紡ぐ。
「俺は、君を知っている気がするよ」
エラの瞳から、大粒の雫がこぼれ落ち、男の手の甲を濡らす。
それはオイルではなく、透き通った本物の涙に見えた。
彼女は、精一杯の笑顔を作った。
世界で一番美しく、そして切ない笑顔で。
「ええ。知っていますとも」
エラは言った。
かつて彼が、彼女を救うために全てを捧げたことを、彼女だけが覚えている。
その痛みを、愛しさを、一生背負って生きていく。
それが、彼が生きた証だから。
「はじめまして、ハルトさん」
「……ああ、はじめまして」
名もなき男――ハルトは、屈託なく笑った。
世界は美しく、色彩に溢れていた。
二人の新しい旅が、ここから始まる。