金色の傷跡

金色の傷跡

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第一章 沈黙の工房

湿った土の匂いと、鼻を刺す漆の香りが混ざり合う。

京都の山間、朽ちかけたような平屋の工房で、俺、篠宮賢治(しのみやけんじ)はヘラを握っていた。

雨音だけが、部屋の静寂を埋めている。

「……入るよ」

錆びついた引き戸の音と共に、聞き覚えのある、しかしどこか他人行儀な声がした。

振り返らなくても分かる。

由美だ。

五年ぶりか。

「鍵、開いてたから」

娘の声には、躊躇いと、僅かな棘が含まれている。

俺は作業の手を止めず、背中越しに問いかける。

「なんの用だ」

「相変わらずね。お線香くらい、あげさせてよ」

今日は、妻・早苗の七回忌だった。

忘れていたわけではない。

ただ、この工房から出るのが億劫だっただけだ。

畳を踏む音が近づき、仏壇の前で止まる。

チーン、という澄んだ音が、雨音に溶けて消えた。

「……父さん」

「金なら無いぞ」

「違う」

由美が、俺の作業机の脇に立った。

視界の端に、白い包みが見える。

「これ、直してほしいの」

俺はヘラを置き、ようやく娘の方を向いた。

三十路を過ぎた由美は、母親に似て目元が涼しげだ。

だが、その表情は硬い。

「俺はもう、注文は受けてねえ」

「客として頼んでるんじゃない。……母さんの遺品なの」

由美が包みを解く。

中から出てきたのは、無惨に砕け散った陶器の破片だった。

見た瞬間、心臓が早鐘を打った。

それは、ただの茶碗じゃない。

俺が三十年前、まだ半人前だった頃に初めて焼いた、歪な夫婦茶碗の片割れだ。

「なんで、これを」

「母さん、ずっと大事にしてた。私が小さい頃、父さんが癇癪を起こして投げつけたやつでしょう? でも母さん、捨てられなかったんだって」

喉の奥が引きつる。

そうだ。

仕事が上手くいかず、酒に溺れ、食卓をひっくり返した夜。

早苗は泣きもせず、ただ黙って破片を拾い集めていた。

「直して。父さんの『金継ぎ』で」

「……断る。新しいのを買った方がいい」

「嫌よ。これがいいの」

由美は頑として引かない。

その瞳の強さは、若い頃の俺そのものだった。

俺は溜息をつき、震える手で破片に触れた。

断面は鋭利で、しかしどこか温かみを残している。

「……一ヶ月だ。それ以上は待てん」

「分かった。来月、また来る」

由美はそれだけ言うと、逃げるように工房を出て行った。

残されたのは、砕けた過去と、老いた職人ひとり。

俺は、割れた茶碗の断面を、指の腹で強く撫でた。

第二章 継ぐもの

金継ぎとは、単なる修復ではない。

割れた事実を隠すのではなく、傷を「景色」として愛でる技法だ。

俺は、麦漆(むぎうるし)を練り始めた。

小麦粉と生漆を混ぜ合わせ、接着剤を作る。

地味で、根気の要る作業だ。

破片を繋ぎ合わせるたび、記憶がフラッシュバックする。

『あなた、焦らないで。あなたの器は、これからよ』

早苗の声が聞こえた気がした。

俺には才能がなかった。

師匠には怒鳴られ、同期には先を越され。

焦りばかりが募り、家では不機嫌を撒き散らした。

そんな俺を、早苗は一度も責めなかった。

(馬鹿な女だ……こんな歪んだ茶碗、さっさと捨てればよかったのに)

破片を接着し、湿度を保った「室(むろ)」に入れて乾かす。

一週間後、はみ出した漆を削り、錆漆(さびうるし)で埋める。

その工程は、まるで自分自身の過去の過ちを、一つ一つ埋めていくような苦行だった。

由美が家を出て行った日のことも思い出す。

『父さんなんて、大っ嫌い! 焼き物以外、何も見てないじゃない!』

あの時も、俺は何も言えなかった。

ただ背中を向け、ろくろを回し続けた。

不器用な男だと、自分でも思う。

言葉で伝えられないから、形にするしかない。

漆が乾くのを待つ時間は、永遠のように長く感じられた。

研いで、塗って、また研いで。

黒い漆の上に、弁柄漆を塗り重ねる。

そして最後に、金粉を蒔く。

傷跡を、光に変えるために。

作業の最終盤、俺はある「違和感」に気づいた。

茶碗の高台(こうだい)の裏。

普段は見えないその場所に、微かな傷があった。

ルーペで覗き込む。

それは傷ではない。

針のようなもので刻まれた、極小の文字だった。

『Kenji & Sanae』

俺の記憶にはない。

俺が作った時、んないたずら書きはしなかった。

早苗だ。

割れた破片を拾い集めた後、彼女はこれを捨てずに保管し、こっそりと二人の名前を刻んでいたのだ。

いつか、俺が直してくれると信じて。

「……っ、う……」

工房の床に崩れ落ちる。

涙など、母の葬式以来枯れ果てたと思っていた。

だが、溢れ出る嗚咽は止まらなかった。

俺は、何をしていたんだ。

一番近くにあった大切なものを壊し、直そうともせず、ただ目を逸らして。

金粉が舞う。

俺は、涙を拭い、再び筆を握った。

この傷は、俺が一生背負うべき「愛の証」だ。

第三章 金色の景色

約束の一ヶ月後。

雨は上がっていた。

初夏の日差しが、工房の埃をキラキラと照らしている。

由美が来た。

今度は、少しだけ表情が柔らかい。

「出来たぞ」

俺は、桐箱を差し出した。

由美が恐る恐る蓋を開ける。

中にあるのは、かつての歪な茶碗ではない。

無数のひび割れが、黄金の稲妻のように走り、素朴な土肌に神々しいまでの美しさを与えていた。

割れる前よりも、遥かに強く、美しい。

「……すごい」

由美が息を飲む。

「これが、あの茶碗なの?」

「ああ。……それと、裏を見てみろ」

言われて、由美が茶碗を裏返す。

「あ……」

彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

『Kenji & Sanae』の文字。

その上にも、薄く、しかし確かな金のコーティングを施しておいた。

名前が消えないように。

「母さん……こんなこと、してたんだ」

「俺も知らなかった。……母さんは、ずっと待ってたんだな。俺が、自分自身の心と向き合うのを」

俺は、不器用に頭を掻いた。

「由美」

「なに?」

「悪かったな」

短い言葉だった。

気の利いた謝罪なんて言えない。

だが、由美は茶碗を胸に抱きしめ、くしゃくしゃの顔で笑った。

「遅いよ、父さん」

「……茶、飲むか」

「うん。飲む」

俺は立ち上がり、棚から新しい茶碗を二つ取り出した。

俺の分と、由美の分。

金継ぎされた茶碗は、仏壇の早苗の前に供えた。

湯気が立ち上る。

工房には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。

傷は消えない。

けれど、その傷こそが、俺たち家族を繋ぐ一番強い「絆」になったのだ。

黄金に輝く継ぎ目を見つめながら、俺は心の中でそっと呟いた。

(ただいま、早苗)

外では、雨上がりの空に、淡い虹がかかっていた。

AI物語分析

  • 心理描写の核: 「壊した」という罪悪感と、「直す」という行為をリンクさせ、修復が進むにつれて主人公の心も再生していく過程を描写。
  • 見どころ: 頑固親父が、妻の隠されたメッセージ(高台の裏の文字)を見つけた瞬間の崩れ落ちるような感情の吐露。
  • 金継ぎの象徴性: 「傷を隠すのではなく、景色として愛でる」という金継ぎの哲学を、家族の失敗や過去の傷跡の受容に重ね合わせている。
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