君の音が、青に溶けるまで

君の音が、青に溶けるまで

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第一章 灰色の教室と、極彩色のノイズ

放課後のチャイムが鳴る。

その音は、俺にとってドブ川のような濁った緑色に見えた。

「おい、レン。今日こそカラオケ行こうぜ」

友人の声は、安っぽい蛍光の黄色。

俺は目を細め、視界にちらつく色のノイズを振り払うように首を振る。

「パス。バイトあるから」

「またかよ。付き合いわりーな」

嘘だ。

バイトなんてない。

ただ、音が多すぎる場所に行きたくないだけだ。

俺、相沢蓮(あいざわ・れん)には、音が見える。

共感覚というらしいが、俺にとっては呪いでしかない。

ピアノを辞めたあの日から、世界は美しい旋律を失い、ただの騒音と不快な色のぶつかり合いになっていた。

逃げるように教室を出て、誰もいない旧校舎へ向かう。

あそこの音楽室だけが、世界で唯一、静寂という「無色」を保てる場所だ。

はずだった。

廊下の突き当たり。

音楽室の扉の向こうから、鋭利な刃物のような音が漏れ出している。

——キィ、ン。

ヴァイオリンの音だ。

だが、ひどく不安定で、悲鳴に近い。

視界に、血のような赤黒い飛沫が飛ぶ。

「……下手くそ」

思わず呟いて、ドアノブに手をかけた。

こんな不快な色を撒き散らされたら、昼寝もできない。

勢いよく扉を開ける。

「おい、チューニングくらいちゃんと……」

言葉が止まった。

夕焼けが差し込む音楽室。

舞い上がる埃が黄金色に輝く中、少女が一人、立ち尽くしている。

長い黒髪。

制服のリボンは緩んでいる。

彼女は、ヴァイオリンの弓を、へし折っていた。

「……あ」

彼女と目が合う。

その瞳は、泣いているように潤んでいるのに、ぞっとするほど冷ややかだった。

「何? 盗み聞き?」

声は、透き通るようなサファイアブルー。

俺の今まで見たどんな色よりも、鮮烈で、美しかった。

「いや、音がひどすぎて気になっただけだ」

「ひどい音……ふふ、そうね」

彼女、篠宮立夏(しのみや・りっか)は、折れた弓をゴミ箱に放り投げた。

「ねえ、君。相沢蓮だよね? 元・天才ピアニストの」

「……元、はいらねえよ。ただの一般人だ」

「私の『耳』になってくれない?」

「は?」

立夏は一歩、俺に近づく。

夕陽を背負った彼女の輪郭が、蒼く発光して見えた。

「私ね、もうすぐ音が聞こえなくなるの」

唐突すぎる告白。

だが、彼女の表情に悲壮感はない。

まるで明日の天気を話すような軽さだった。

「右耳はもうダメ。左も、あと一ヶ月くらいだって医者が言うの」

「……だから、なんだよ」

「コンクールがあるの。最後なの」

彼女は俺の胸倉を掴んだ。

華奢な手首のどこにそんな力があるのかと思うほど、強い力で。

「音が合っているのか、ズレているのか、自分じゃもう分からない時がある。君、音が見えるんでしょ? 噂で聞いたわ」

「……都市伝説だろ、そんなの」

「嘘つき。さっき私の音聞いて、顔しかめたじゃない。『赤い』って顔してた」

バレていた。

「私の音が『赤』じゃなくなるまで、君が判定して。私のピアノ伴奏をして」

「断る。俺はもうピアノは弾かない」

「弾くのよ」

立夏は微笑んだ。

それは悪魔のような、それでいて天使のような笑みだった。

「君が弾かないなら、ここで叫びまくってやる。君の視界を、私の下手くそな悲鳴の色で塗りつぶしてあげる」

「お前、性格最悪だな」

「知ってる。だから、手伝って」

その時、彼女の声の色が揺らいだ。

サファイアブルーの奥に、ほんの一瞬、怯えるような灰色が混ざったのを、俺は見逃さなかった。

第二章 残響のタイムリミット

それから、地獄のような放課後が始まった。

「違う! そこ、半音ズレてる!」

「え? うそ、合ってると思ったのに」

ピアノの鍵盤を叩き、正しい音(色)を示す。

俺が叩く「ラ」の音は、澄んだ群青色。

立夏が弾く「ラ」は、少し濁った紫だ。

「もっと高く。弓の圧が強すぎるんだよ」

「分かんないわよ! 聞こえにくいんだから!」

「感覚で覚えろ! 手の震えで覚えろ!」

罵声が飛び交う音楽室。

俺たちは、音楽を奏でているというより、泥沼の中で殴り合っているようだった。

だが、不思議だった。

ピアノを弾いている間だけ、俺の視界を覆っていた「ノイズ」が消える。

彼女の音に集中し、その色を修正しようと必死になっている間だけ、世界は鮮明さを取り戻した。

ある雨の日。

湿気でヴァイオリンの鳴りが悪い。

立夏は苛立ち、譜面台を蹴り飛ばした。

「クソッ……! なんでよ、なんで今なのよ!」

彼女が崩れ落ちる。

スカートが床に広がり、黒い花のように見えた。

「……聞こえないの。今日は、雨の音しか聞こえない」

俺は息を飲む。

彼女の左耳に手を伸ばす。

補聴器のランプが、頼りなく点滅していた。

「ピアノの音も、遠いの。水の中にいるみたい」

「……今日はやめよう」

「やめない! 時間がないの!」

立夏は叫ぶ。

「このコンクールで優勝しなきゃいけないの! お母さんに……最後に、最高の音を残したいの」

彼女の母親が有名なヴァイオリニストであることは知っていた。

そして、その母親が、才能のない娘に無関心であることも。

「聞こえなくなったら、私はただのゴミになる。その前に、証明したいの。私がここにいたって」

彼女の声が、灰色に染まっていく。

絶望の色だ。

俺は黙ってピアノの前に座った。

「何……?」

「耳で聞こうとするな」

俺は鍵盤に指を置く。

「俺が弾く。お前のヴァイオリンの音が、一番美しく響く隙間を、俺が作ってやる」

「そんなこと……」

「目を見ろ」

俺は彼女を真っ直ぐに見つめた。

「俺の目を見ろ。俺が頷いたら、そこが最高の色だ。迷うな。俺を信じろ」

立夏が涙を拭い、ヴァイオリンを構える。

俺は弾き始めた。

ショパンの『バラード第1番』。

激しく、優しく。

彼女の音がズレそうになると、俺がテンポを変えて迎えに行く。

彼女の音が弱くなると、俺が和音を厚くして支える。

音が混ざり合う。

俺の群青と、彼女のサファイアが溶け合い、見たこともない「銀色」の光が音楽室を満たした。

弾き終わった瞬間、静寂が落ちる。

立夏は呆然と俺を見ていた。

「……聞こえた」

彼女が呟く。

「耳じゃなくて……心臓に、響いた」

その日初めて、彼女の音が「完成」したのを見た。

第三章 青に溶ける

コンクール当日。

会場は異様な熱気に包まれていた。

舞台袖で、立夏の手が震えている。

「どうした、武者震いか?」

「……レン」

彼女の声が小さい。

「左耳、完全に聞こえなくなった」

心臓が跳ねた。

想定よりも早い。

「……マジか」

「うん。無音。あなたの声も、自分の足音も聞こえない。ただ、唇の動きで言葉がわかるだけ」

棄権するべきだ。

常識ならそう判断する。

だが、立夏の目は死んでいなかった。

「レン、約束覚えてる?」

『俺の目を見ろ』

「ああ。俺がガイドする。お前は、指板の感覚と、俺のピアノの振動だけを信じろ」

アナウンスが鳴る。

俺たちは光の中へ歩き出した。

観客席は満員。

スポットライトが眩しい。

二人で一礼し、位置につく。

静寂。

今の彼女にとっては、これが永遠に続く世界なのだ。

俺は深く息を吸い、最初の一音を弾いた。

強烈なフォルテ。

床を伝う振動が、彼女の靴底に届くように。

立夏が弓を動かす。

奇跡だった。

音程は完璧ではない。しかし、その「ズレ」すらも感情の揺らぎとして昇華されていた。

俺は彼女の背中を見つめ続ける。

彼女の音が「赤」に傾けば、俺は「青」の和音をぶつけて「紫」に変える。

これは演奏ではない。

魂の殴り合いだ。

クライマックス。

急速なパッセージ。

立夏の弓が踊る。

俺の指が鍵盤を走る。

世界中の色が、ステージ上に溢れ出す。

観客には見えていないだろう。

だが、俺には見える。

彼女が命を削って生み出した、銀色の嵐が。

最後の一音。

弓が振り下ろされ、俺が和音を叩きつける。

残響が消える。

万雷の拍手。

歓声。

だが、立夏には何も聞こえていない。

彼女は肩で息をしながら、ゆっくりと振り返った。

そして、俺を見て笑った。

「ありがとう」

声にはなっていなかった。

だが、その唇の動きと、彼女の周りに漂う温かい「ピンク色」のオーラが、全てを物語っていた。

第四章 フィナーレの後に

結果は、優勝だった。

だが、立夏は表彰式の後、ヴァイオリンをケースにしまい、二度と開けることはなかった。

数ヶ月後。

卒業式の前の日、俺たちは再びあの音楽室にいた。

彼女の耳は、もう完全に沈黙の世界にある。

筆談用のノートが、二人の間に置かれていた。

『もう、ヴァイオリンは弾かないのか?』

俺が書くと、彼女は首を振った。

ペンを走らせる。

『私の夢は叶ったから』

『母親に認められたかったんだろ?』

彼女はイタズラっぽく笑い、ページをめくった。

そこには、予想外の言葉が書かれていた。

『違うよ』

『私は、相沢蓮にもう一度、ピアノを弾かせたかったの』

時が止まった。

『中学の時、あなたのピアノを聞いて、私は音楽を始めた。あなたが辞めたって聞いて、どうしても許せなかった』

『私の耳が悪くなったのは神様のイタズラだけど、それを利用してでも、あなたを連れ戻したかった』

文字が滲んでいる。

『私の最後の音は、あなたにあげる』

俺は顔を上げた。

立夏が窓の外を見ている。

その横顔は、静かで、穏やかだった。

俺はピアノに向かう。

彼女には聞こえない。

それでも、弾かずにはいられなかった。

優しく、愛おしい旋律。

ド、ミ、ソ……。

音が、色となって溢れ出す。

夕焼けの赤と混ざり合い、音楽室を温かいオレンジ色で満たしていく。

彼女がふと、こちらを向いた。

聞こえるはずがないのに。

彼女は俺の背中にそっと手を添えた。

振動を感じているのだ。

俺たちの周りで、無数の色が踊っていた。

音は消えても、色は残る。

彼女がくれたこの景色の中で、俺はこれからも弾き続けるだろう。

君の音が、俺の中の青に溶けて、永遠になるまで。

(終)

AI物語分析

  • 相沢蓮 (心理): 音が「見える」ゆえに、汚い音(嘘や悪意)に敏感になり孤独を選んでいた。立夏の純粋な「轟音」に触れ、生きる力を取り戻す。
  • 篠宮立夏 (見どころ): 悲劇のヒロインであることを拒否し、エゴイスティックに蓮を巻き込む強さ。真の目的が「自分のコンクール優勝」ではなく「蓮の救済」だったという献身性。
  • 色彩表現: 蓮の視点を通じ、感情や音楽を「サファイアブルー」「濁った紫」「銀色の嵐」などの色で表現し、読者の視覚に訴えかける。
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