第一章: 終わりの始まり
一ミリの歪みもなく街を覆う、人工の青空。
硝子張りの連絡橋。ノアの足音が無機質に響き渡る。
硬質な人工風を孕んで翻る、黒を基調とした軍服風のコート。銀色の髪の下、氷のように冷徹な青い瞳。眼下に広がる白亜の街並みを、ただ機械的にスキャンしていく。
異常座標検知。対象エラーコード:未登録
視界の隅で明滅するアラート。
ぴくり、とノアの眉間が跳ねた。
予測不能な事象。エデンにおいて、それは絶対的な禁忌。
昇降機で降り立った先は、最下層の廃棄区画。
途端に鼻腔を突く、錆びた鉄とカビの入り混じった腐臭。
上層の無菌状態とは対極にある、生々しい世界の底だ。
薄暗い路地を抜けた先。開けたスクラップの山の上で、その『異常』は起きていた。
旧時代のホログラム発生器が放つ青白い光。
空間に投影されているのは、ノイズにまみれた『本物の雨』。
その光の中心に、少女。
擦り切れたオーバーサイズの色褪せたワンピース。幻の雨に濡れているかのように、長く伸びた亜麻色の髪が揺れる。
裸足のつま先が、冷たい鉄の残骸を踏みしめていた。
歌っていた。彼女は。
シオン「ああ……空が落ちてくるよ……」
喉の奥から絞り出される、不規則で震える音の羅列。
ドクン
ノアの鼓動が、生まれて初めて想定外のBPMを記録する。
モノクロだった視界に焼き付く、強烈な翠の瞳。儚く、おぞましいほどの力強さ。
ノア「未登録個体。身分IDの提示を要求します。痛みは非効率なノイズです。速やかに投降を」
無慈悲に向けられる銃口。
だが、シオンは逃げない。頬に水滴を伝わせ、ゆっくりとこちらを向く。
シオン「……泣いてるの?」
ノア「否定します。私の眼球に水分を分泌する機能はありません」
シオン「ねえ、本当の空の青さを知ってる?」
一歩、彼女が近づく。
カチャリ
引き金にかけたノアの指先が、微細な痙攣を起こす。
胸の奥で軋む何か。人工血液が沸騰するような、理由のない発熱。
撃て。システムを守れ。
警告を鳴らし続ける論理演算。
しかし、銃を下ろす自らの右腕を、ノアは止めることができない。
網膜の端。致命的なシステムエラーの文字が、真っ赤に瞬き続けていた。
第二章: 偽りの星と温もり

エデン中層、居住区の片隅。
機械油と古い煙草の匂いが染み付いたガレージ。重い音を立ててシャッターが閉まる。
リコ「おいおい、治安維持局の犬が、バグを拾ってきやがったのか?」
油汚れに塗れた機能的なツナギ姿。オレンジ色のショートヘアを掻きむしり、首に下げた旧時代の防塵ゴーグルを揺らすリコ。呆れたように吐き出される煙。
ノア「処理に迷うエラーが発生したと推測されます。一時的な秘匿を要求します」
リコ「バカ言え。こっちはドロップアウトした身だぞ。……まあ、バグがあるから、世界は面白いんだけどな」
リコが差し出したマグカップ。漂う合成コーヒーの焦げた匂い。
部屋の隅では、シオンがノアの持ち込んだ旧時代の懐中時計を見つめていた。
シオン「これ、生きてるね。小さな心臓みたい」
真鍮の表面をなぞる、シオンの指先。
ノアは彼女の隣に膝をつき、精密ドライバーを握る。
ノア「ただのぜんまい仕掛けです。一定の規則で動く、美しいシステムですね」
シオン「ノアの心臓も、そんな風に鳴るのかな」
不意に、シオンの冷たい指先がノアの胸元に触れる。
布越しに伝わる、かすかな体温。
ノアの呼吸が浅くなり、喉仏が激しく上下する。
ノア「……理解不能な接触です」
シオン「あったかい。ノアの中にも、ちゃんと音があるよ」
重なる視線。
シオンの亜麻色の髪から香る、雨の匂い。
ノアの指が、無意識に彼女の髪へ伸びかける。
その時。リコが起動した旧時代の端末が眩い光を放った。
部屋の天井に投影される、無数の光の粒。
リコ「旧世界のデータ・アーカイブだ。『星空』って言うらしいぜ」
シオン「きれい……。本物、見てみたいな」
ノア「エデンは分厚い人工雲に覆われています。不可能と推測されます」
シオン「それでも。いつか、一緒に」
差し出された小指。
数秒の沈黙の後、ノアは自らの小指を不器用に絡ませた。
ウゥゥゥゥゥン……!
突如鳴り響く、街全体を揺るがす重低音のサイレン。
窓の外。上層部から無数の赤いサーチライトが廃棄区画へと伸びていく。
絡ませた指先が、氷のように冷え切った。
第三章: 忘却の代償

エデンの中枢タワーに通じる広場。
白亜の石畳の上で増幅されるシオンの歌声が、都市全体を震わせている。
立ち止まり、頭を抱え、あるいは顔を覆ってしゃがみ込む市民たち。
クラウドを通じて逆流する、失われた痛みの記憶。
クロム「愚かな。感情という名の病から、人類を救済する。それがエデンの絶対のルールだ」
完璧にアイロンがけされた白の特務軍服。
金髪のオールバックの下、神経質そうに細められた三白眼が冷酷に光る。
数十機の自律型ドローンを従え、クロムはノアとシオンを見下ろしていた。
ノア「待機を要請します! 彼女はただ……!」
クロム「ノア。君のその無様な声の震えこそが、バグの証明だ」
ドローンの一斉掃射。
砕け散る石畳。ノアの頬を掠めた破片が、赤い線を引く。
シオン「やめて! 痛いのは、もう嫌……!」
両手を広げ、ノアの前に立ち塞がるシオン。
小刻みに震える背中。他者の痛みを引き受ける彼女の体は、すでに限界を超えていた。
シオン「私が、行くから。だから、ノアを壊さないで」
ノア「……何を、言っているんですか」
シオン「忘れて、ノア。私が犠牲になれば、世界は元の静かな場所に戻るから」
細い手首に食い込む拘束具。
冷たい無菌室の薬品の匂いが、ノアの鼻腔を塞ぐ。
クロム「執行官ノア。反逆の意志がないなら、今すぐ初期化プロセスを受け入れたまえ」
ノア「……」
静かに首を振る、シオンの翠の瞳。
『生きて』。声にならない唇の動き。
メモリのフォーマットを開始します。Y/N?
虚空に浮かぶホログラムパネル。ノアの指が『Y』に触れる。
ピィィィィン……
白く飛ぶ視界。
脳髄を直接灼かれるような感覚。
シオンの笑顔、歌声、交わした指の温もり。すべてが砂のように崩れ落ちていく。
後に残ったのは、圧倒的な静寂だけ。
第四章: 針の音、胸の痛み

無機質な自室。
鏡の前に立つノア。軍服風コートの襟を正す。
完璧に硬直した表情筋。異常はない。
机の上に置かれた、見慣れぬ旧時代の懐中時計。
なぜか、無意識のうちに修理を終えていた。
カチ、カチ、カチ、カチ
規則正しい秒針の音。
それを聞いた瞬間。
ドクンッ!!
激しく胸を押さえ、膝から崩れ落ちるノア。
口の中に広がる血の鉄の味。無意識に唇を噛み切っていたのだ。
ないはずの痛みが、心臓を鷲掴みにする。
ノア「あ……ぁ……ッ」
歪む視界。亜麻色の髪。翠の瞳。幻の雨。
ノア「違う……。痛みは、ノイズじゃない!」
振動する端末。リコからの暗号通信。
リコ「目覚めたか、ポンコツ。あの子が中枢システムに接続される。エデンの動力源にされるぞ!」
ノア「……座標を」
立ち上がる。
瞳から氷が溶け落ち、青い炎が宿っていた。
◇◇◇
中枢タワー前。
巨大なゲートの前で立ち塞がるクロム。
クロム「システムを壊せば、かつての惨劇が繰り返される。なぜ分からない!」
ノア「完璧なシステムなど、存在しません」
銃を抜くノア。
特務用の大型銃を構えるクロム。
クロム「私も……失ったのだ! 感情の暴走で、愛する者を! だからシステムが必要なのだ!」
ノア「過去から逃げるな! 痛みこそが、僕が彼女を愛した証拠だ!」
ズドンッ!!
交差する二つの銃弾。
弾け飛ぶクロムの肩。ノアの脇腹を、熱い鉄の塊が貫く。
よろめきながらも、歩みを止めないノア。
床に夥しい血痕を残しながら、クロムの横を通り過ぎる。
クロム「……行くがいい。滅びの道へ」
ノア「……あなたの痛みも、いつか晴れることを」
重厚な扉に手をかける。
その向こうから、かすかな歌声が漏れ聞こえていた。
第五章: 錆びたネオンと星降る夜のノイズ

エラー。浮力システム低下。エラー。
中枢ルーム。
巨大なガラス管の中。無数のケーブルに繋がれたシオン。
青白く透ける肌。命の灯火が今にも消えかかっている。
ノア「シオン!」
銃床でガラス管を叩き割る。
降り注ぐ破片の中、力なく倒れ込む彼女の体を抱きとめた。
触れ合う素肌。
異常なほどの高熱。命が燃え尽きようとしている、狂おしい熱さ。
ノアは彼女を強く抱きしめ、首筋に顔を埋める。
鼻先をくすぐる、雨と埃の匂い。
ゆっくりと、シオンの細い腕がノアの背中に回された。
シオン「……ノア。思い、出してくれたの?」
ノア「遅くなりました。推測ですが……僕は、あなたなしでは機能できない」
ガガガガガッ!!
システムから引き剥がした瞬間。エデンの浮力装置が完全に沈黙する。
斜めに傾く床。重力に引かれ、落下を始める都市。
シオン「エデンが、落ちちゃう……」
ノア「一緒に落ちよう。本物の空を見るために」
残ったケーブルをすべて引き千切るノア。
崩落する天井。街を覆っていた分厚い人工の雲が、強風に吹き飛ばされていく。
暗闇。
そして、圧倒的な光。
カッ……!
崩れゆく都市の頭上。
何百年ぶりかに姿を現した、狂おしいほどの満天の星。
二人の頭上から降り注ぐ、無限の宇宙。
シオン「ああ……きれい。これが、本当の星……」
ノア「ええ。どんなデータよりも、美しい」
落下する瓦礫の雨の中、ノアはシオンの手を強く握る。
痛いほど冷たい風。焼け付くように熱い傷口。
だが、そのすべてがひどく愛おしい。
星屑のように散っていく、錆びたネオン。
眩い光の奔流の中へ。
痛みと引き換えに手に入れた真の空へと、二人は落ちていった。